ノート:源義忠
211.135.60.83さんへ
史料がそれほど多くないであろう源義忠の執筆ご苦労様です。 良い記事だと思うのですが、書式が他の記事とかなり違っている様に思われます。 なにかこだわりが有りそうされているのなら、他と合わせる必要は無いと思いますが、 特にこだわりが無いなら、他の武士の記事などを見て書式を似せると、百科事典として見易くなるかも知れません。御一考頂けたらと思います。 --俊 2005年4月10日 (日) 13:51 (UTC)
当記事執筆者様、並びに、当記事編集者様
1104年に義忠が左衛門權佐に任じられたとされていますが、その年、康和六年(二月十日改爲長治元年)には、左少辨藤原顯隆(後に權中納言)が左衛門權佐を兼任中(承徳二年七月十二日に右衛門權佐から左衛門權佐に轉じ、その後、右少辨を兼ね、左少辨、右中辨と進み、從四位下に昇り、天仁三年正月廿八日に左衛門權佐を止める。即ち、1098年から1110年まで在任したことになる)であり、義忠がこの官に在任していたことはありえません。 (『公卿補任』元永三年條の藤原顯隆の官歴、『辨官補任』や『検非違使補任』の当該時期の頁、参照)
また、檢非違使を兼務する左右衛門權佐は、文筆に堪能な実務官人が任じられる官であり、所謂「軍事貴族」たる河内源氏の義忠が任官する可能性は考えられません。
また、義忠自身についてですが、權中納言藤原宗忠(後に右大臣)の日記『中右記』や攝政右大臣藤原忠實の日記『殿暦』によると、天仁元年十二月廿七日に使宣旨を蒙り(『中右記』)、天仁二年二月三日に殺害される(『殿暦』同六日條)まで檢非違使を務めていましたが、官は左衛門尉でした。位階も正六位上であった可能性が高く、續群書類從完成會『検非違使補任 第一』の天仁元年から天仁二年までの頁には、「左衛門尉正六位上源義忠」とあります。
義忠が六位の左衛門尉であったならば、当然、原則として五位以上が任じられる受領に任じられた可能性もありません。また、少なくとも平安時代中期には地方に拠点を持つ者をその本拠地の受領に任ずるのを避ける慣例があり(平維衡は寛弘三年正月廿八日に伊勢守に任じられたものの、こうした慣例や過去に伊勢で事件を起こしていた事実が原因となって、僅か二ヶ月で解任されています)、叙位任官の秩序が崩れつつあった院政期とはいえ、若年の義忠が河内守となるのは困難であったのではないかとも思えます。
ちなみに、續群書類從完成會『國司補任 第五』の河内国の項によると、康和元年九月十七日に從五位上平資季が河内守に任じられ(『本朝世紀』)、長治元年正月廿八日に從五位上津守宣基が河内守に任じられ(『津守氏系図』)ています。康和二年から康和四年までは河内守に関する史料が見られないようですが、仮に平資季が四年の任期を全うしたとするならば、康和二年(1100年)に別人が河内守に任じられることはありません。
『尊卑文脈』には義忠の官位について多くの記載がありますが、こと武門の清和源氏については脚色も多く(受領になれなかった爲義の項に受領の官名が記されているなど)、全てを信じることはできません。
以上のことから、当記事に記載された義忠の官位や経歴の記載には疑問があります。もし、この記載に何らかの根拠及び信頼できる史料が存在するということでしたら、できましたら明示して頂きたく存じます。
どうぞ宜しくお願い致します。
左近衛中將
--218.46.245.156 2009年7月25日 (土) 03:51 (UTC)
事情はわかりませんが、河内守になっていないとは思えない傍証があります。義忠の子の源経国が、「河内源太」と称しています。この時代、父親の官職に由来して「号」を付けている人が多いように思われます。父が「河内守」になっていないのに、子が「河内源太」と名乗るでしょうか。「権佐」についてはわかりません。