ノート:瀬戸口重為

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重為系の東郷氏が国分士から鹿児島士になったのは1600年を過ぎてからなので息子の代ではないでしょうか。--盛風力 2008年1月14日 (月) 13:36 (UTC)

参考資料について「鹿児島県立図書館蔵」としていましたが、正規に出版されてますし、別に鹿児島の図書館でなくても所蔵していますので削除しました。--盛風力 2008年1月14日 (月) 13:39 (UTC)


 「鹿児島士人名抄録」では東郷重位は永禄4年に鹿児島で誕生とある。島津貴久が、鹿児島に移り、内城(現在の鹿児島市大竜町にあった)を築城して、居城として以来、島津本家の居城となっている。「鹿児島城下」というのは誤りかもしれないが、鹿児島士であっても不思議ではない。なお、「鹿児島士人名抄録」の東郷重位の項目は「本藩人物誌」と「新薩藩叢書三」の「抄名墓詩」、「人物伝備考付録」を参考にしたとある。--210.237.32.170 2008年1月27日 (日) 02:25 (UTC)中村次郎[返信]

不思議ではない、といった類推ではなく、重為が国分士から鹿児島士になった出典を示してくださいということです。東郷重位兄弟をはじめとする国分士が鹿児島に移ったのは島津義久死後の家臣団再編成によるものです。(義久の晩年、国分の義久と鹿児島の忠恒は対立関係にありました。)さらに、鹿児島で生まれたから鹿児島士とは限りません。なお、重為はほとんど事跡が明らかでなく、東郷家系図(東郷実乙当時)でも「天文二十三年(中略)太守義久公攻隅州岩剣城、此時瀬戸口藤兵衛勤御幡役、以年次推之則疑、是重位之父也」と推測で書いているくらいです。むしろ、東郷重位が初陣(1578年)の親分役を薬丸兼成に頼んでいることから、それ以前に亡くなっている可能性もあります。天文23年(1554年)に戦場で働いていた人が義久死後(1611年)まで生きている、と何の出典もなく類推だけで書いてしまうのは危険ではないでしょうか。--盛風力 2008年1月27日 (日) 08:36 (UTC)[返信]

 「天文二十三年(中略)太守義久公攻隅州岩剣城、此時瀬戸口藤兵衛勤御幡役、以年次推之則疑、是重位之父也」と推測するだけのものがあったともかんがえられますが・・・。少なくとも、「国分市郷土史」に慶長10年の国分衆中に「東郷藤兵衛、東郷肥前」とある。東郷重位の子、東郷重方は慶長9年生まれで1歳の子が弥十郎とよばれても、肥前なんて呼ばれるわけはないのでこの東郷肥前は東郷重位でしかありえませんし、東郷藤兵衛は瀬戸口重為と考えられます(通称の被った別の東郷氏かもしれません)。  また、東郷重位が初陣(1578年)の親分役を薬丸兼成に頼んでいるのは、島津義久近臣故に義久の側に近侍せねばならず、自分が前線に出られないためと考えるのが妥当だと思いますし、それこそが、重為が義久近臣たる証拠とも思います。勝手に殺すのもどんなものかと・・・?。また、ただ、「さつまの姓氏」の記述で「国分郷鳥越(いまの霧島市国分向花)から鹿児島に移住」とありますが、東郷重位が鹿児島で生まれたとありますから「鹿児島内城の城下から国分郷に移住」のほうがいいかもしれません。ただ宮下満郎「池上四郎伝補説」(敬天愛人第20号別刷)に、薬丸兼慶は東郷与介の弟子とされていて、この東郷与介は東郷重位の親類で国分居住とありますので、この東郷与介の出自次第でしょう。--210.237.32.170 2008年1月31日 (木) 10:02 (UTC)中村次郎[返信]

えー、島津義久は高城合戦に出陣しているわけですが・・・義久直臣でも討死した者がおりますが・・・。いいかげん「さつまの姓氏」一本を信用するのを止めませんか?原史料の出典がないのですから参考意見ぐらいにしかなりませんよ。重為の事跡について史料上明確なのは、岩剣城の戦いのこと(それも子孫の推測)しかないのですから、本文にはそれ以上のことを書くべきではないのです。せいぜい脚注で「川崎大十がこう言ってる」くらいにとどめるべきです。私が何であちこちで「出典が・・・」というかというと、歴史事実を書かねばならないのに研究者でもない素人の推測を混ぜてしまうとそれが事実だと勘違いされるからです。史料や研究者の論文の裏付けがあることだけをストイックに書くべきだと思うんですよ。重為の父の名前を書いていますが、これだって史料的な裏付けはないでしょう?--盛風力 2008年2月6日 (水) 15:34 (UTC)[返信]

 *「さつまの姓氏」に載っていた、「国分郷鳥越から鹿児島に移る」の記述は、研究の必要がありますので削除しました。なお、国分郷には鳥越村はなく、向花村(現在の霧島市国分向花町)の小字に鳥越があるので、これと関係あるかもしれません。また、指宿市の小字中園が東方と西方にまたがるように2村にまたがっている場合もありますので、調べる必要があります。--210.237.32.170 2008年2月3日 (日) 06:36 (UTC)中村次郎  [返信]

  • とりあえず、「さつまの姓氏」から離れて、質問しますが「国分郷土史」の慶長10年の国分衆中にある東郷籐兵衛と東郷肥前については、どうお考えでかお聞きしたく思いますが?--220.111.240.207 2008年2月9日 (土) 07:41 (UTC)中村次郎[返信]
質問を質問で返しますが「国分郷土史」は何を出典にしてますか?江戸期の史料では、東郷姓を与えられたのは「重治と重位の兄弟が同時」とあって重為が東郷姓で記されたものは調べた限りでは見つけられないのですが。そもそも、「重治と重位の兄弟が改姓した」ということはこのとき(天正年間後期)の東郷家代表者(家長)はこの二人(重位は分家?)であって重為はこのときには死去してたのでは、と個人的には考えます。後世の史料(東郷家のものも含む)で「瀬戸口藤兵衛(重為)」となっているということは重為は東郷姓に変わってないのではないのでしょうか。で、「国分郷土史」が転記ミスをしているか、もう一人の藤兵衛がいたと考えております。--盛風力 2008年2月9日 (土) 12:46 (UTC)[返信]
調べてみました。「示現流関係史料」に「慶長十年国分衆中(抄)」が載っており「東郷藤兵衛尉 子肥前 其子藤兵衛」となってました。おそらく「国分郷土史」の出典もこれと同じだと思うのですが、思うにこれは最初の「子」が衍字または誤写ではないかと。同時期に島津義弘から東郷藤兵衛宛で手紙が出てますが、内容から重位宛です。--盛風力 2008年3月2日 (日) 10:44 (UTC)[返信]

 十分納得しました。本当にすいません。ところで、『さつまの姓氏』を参考文献から除外して、いいですよね?。信憑性がない上に、現在生きている人のプライバシーを侵害している本のため、薦めた本人としてなんですが、当サイトに迷惑をかけぬうえで必要とおもいますので・・・(もう十分迷惑かけてますが)。  たぶん、上の記事書いたの、中村次郎だろ?相変わらずいいかげんな人だね・・・。「当サイトに迷惑をかけぬうえで」というなら、もせなきゃいいものを・・・・。まあ、私もこの資料を見ましたが、別にこの資料にこだわる必要はないし、この資料自体が「本藩人物誌」等の資料をもとにしているから、削除しても影響ないと思うので、この項目に限らず削除しとくぞ。--210.237.32.170 2008年2月15日 (金) 07:09 (UTC)大山康祐[返信]