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ノート:無原罪の御宿り

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読みは「むげんざい の みやどり」ですか?Corwin

「おんやどり」が一般的でしょう。ということで読みを訂正させてもらいます。B. T. Si 2006年1月27日 (金) 05:50 (UTC)[返信]

取り消し編集説明(ギリシア・ビザンツ世界でもかつては云々)

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この取り消し編集につき説明申し上げます。

ひとつめ。「正教会では無原罪の御宿りという教えを文書化したことも宣言したことも無い」「現代の正教会でこの教えを信じる者は居ない」事典に必要なのはこの二つ、即ち確固とした事実です。どこの誰とも分らぬ西欧の一歴史家の一見解を盛り込む必要性はありません。このひとつめだけで消去に足りる事由ですが、以下、この一歴史家による論説がどれだけ「独自研究」的かについて論証しておきます。

ふたつめ。「西欧の歴史家」が必ずしもキリスト教について正確な事を書いているわけでは無いことに留意して頂きたく思います。日本の歴史家やタイの歴史家が仏教について正確かつ中立的な事を書いているとは必ずしも限らないことと同じです。どうも日本人は「西欧人」というだけで「キリスト教について信用出来る」と考える先入観があるように思います。こういう先入観は早く無くなって欲しい。ついでに言いますとルーマニア人やロシア人がキリスト教・正教を語ると「キリスト教について正確な事を書いているか疑ってかかる」のが一般的と思える風潮もあると思えます(多分これは私個人の思い込みではありません)。悪しき西欧崇拝の産物です。

みっつめ。そもそも「原罪」の概念につきアウグスティヌスの影響が希薄だった東方世界で、なぜ「無原罪の考えがあった」と言えるのでしょうか?もっと簡潔に言います。「『原罪』の概念そのものが希薄か、もしくは否定すらされる正教会世界で、なぜ『無原罪』などという考え方が出てくるのですか」と(反語。出て来ようが無いです)。「西方における無原罪の御宿りの教理は東方由来である」を証明するのはクリアすべき高いハードルが複数あります。少なくとも「東方にも西方と同じ原罪概念、もしくは相似する枠組みがあった」ことを証明し、「(一学者の個人的見解などではなく)正教会(東方教会)全体として聖母の無原罪が信じられていたことを何らかの公文書を挙げて論拠とし」、それが「中世西欧に影響を与えていたルートを解明、提示する」必要がある。もしこんなことが論証されたとしたら、もっと大議論が巻き起こされているハズですが、そのような形跡はありません。

よっつめ。これは憶測ですが(ただし蓋然性は低くないと考えます)、そもそも「無原罪の御宿り」は、「至聖至潔」と呼ばれる正教会における生神女理解と等価ではないのですが、この歴史家は等価だと早とちりしたか、等価であると軽く考えたと思わざるを得ません。

以上、削除の理由を示します。はっきり申し上げて「トンデモ説」の類でしかありません。なお、この論証は編集者さん個人を攻撃する意図は一切無いことを申し上げます。9割以上の日本人が「西欧の学者が書いたものだったら出典に使えるだろう、ましてキリスト教など彼らのお家芸じゃないか」と考えるでしょうし、そう考えられること自体は責められません。が、今後はどうかお気をつけて頂きたいのです。「ふたつめ」に申し上げたこと、どうか御記憶頂ければ幸甚です。--Kinno Angel会話) 2012年7月8日 (日) 15:18 (UTC)微修正--Kinno Angel会話2012年7月8日 (日) 15:19 (UTC)[返信]

あまりよく考えずに編集したので私に対する非難はあってしかるべきだと思いますが、「どこの誰とも分らぬ西欧の一歴史家」の名誉のために述べておきます。編集の際に典拠とした部分(とその直前)を引用すると、以下のようなものです(ジャン・ルクレール『修道院文化入門』神崎忠昭・矢内義顕訳、知泉書館、2004年10月25日、ISBN:4-901654-1、p285)。

確かに、エアドメルスの環境と時代において、御やどりを典礼で祝うことは、この御やどりが「無原罪」であったことを必ずしも意味してはいない。しかし、ギリシア・ビザンツ世界は―われわれは一二世紀のイングランドにその影響を確認するが―聖母マリアの御やどりを、それが「聖なる、罪のない」御やどりであったがゆえに崇敬していたことも真実である。

マリアの懐胎が東方でどのように捉えられていたと著者が考えているのかは不明確ですが、御覧のように、直前の部分では「無原罪」と表記しつつギリシア・ビザンツ世界に関しては用語「無原罪」を使っていません。カトリック教会の教義となっているいわゆる無原罪の御宿りが東方でも信じられていたと著者が考えているわけでないことは明らかかと思います。--Misjonarz会話2012年7月24日 (火) 13:54 (UTC)[返信]

でしたら尚更記述の必要性は無いものと思われます。--Kinno Angel会話2012年7月25日 (水) 16:32 (UTC)[返信]