ノート:版籍奉還
「実施日」と「喜連川藩」について
[編集]本項で版籍奉還の「実施日」とされているものは、『地方沿革略譜』によると知藩事の任命を受けた日(任藩知事)であって、ほとんどの藩の版籍奉還の実施日(奉還封土 仍賜家禄)は明治2年旧暦6月17日となっております。
また喜連川藩に関しては、『地方沿革略譜』によると、知藩事の任命を受けていないことになっております。
同様に『法令全書』でも、福本藩までの274藩については「知事」の記述がありますが、附録地所廩米ノ家として一橋藩、田安藩、高知分家藩、および喜連川藩の4藩、廩米ノ家として広島分地藩、鹿奴藩(鳥取新田藩)、若桜藩(鳥取新田藩)、米沢新田藩、植松藩(平戸新田藩)、高瀬藩、宇土藩および清水藩の8藩が掲載されており、これら12藩には「知事」の記述がありません。清水藩を除く11藩については明治2年旧暦7月25日に何かが実施されていることになっており、おそらく附庸地の版籍奉還が実施された日と思われますが、確証はありません。
いずれにせよ「実施日」を「知藩事任命日」に変更し、喜連川藩をリストから外し、別個に『知藩事に任命されなかった藩』のリストを作成する必要があると思われます。
知行安堵のリンク先、「経緯」と他箇所との対応、冒頭部文言
[編集]「概要」中の
このため藩の中には「将軍の代替わりに伴う知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり
の部分の「知行安堵」のリンク先が、現状では「地方知行」の項になっていますが、これを読んでも知行安堵の意味が把握できません。「安堵」の項に変更するのが適当と判断します。
冒頭部に書かれている「1869年7月25日(明治2年6月17日)」や「発案は姫路藩主酒井忠邦」を、「経緯」中でも言及すべきと思われます。同じく「経緯」中の「上局、公議所において諮問が行われる」が、「概要」にある「公議所などの諸藩代表からなる公議人に同意を求めた」に対応するかと思われますが、これをより明確にするとよいかと思われます。
冒頭部ですが、
版籍奉還(はんせきほうかん)とは、諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還である。
日本の明治政府により行われた中央集権化事業の1つとして、1869年から1870年にかけて実施された。
とでもすると明確さが増すと思われます。
全般に、
発案(姫路藩主?)
正式な方針決定を目指す動き(薩摩など4藩の建白書?)
正式な方針の表明(太政官布告?)
方針の決定(公議所における諮問?)
方針に基づいての各藩での実施(「実施日」?)
その(後)の影響(華族制度、廃藩置県の実施)
といった流れを持つようですが、これらが明確になるように「経緯」や「概要」に情報を補うと見通しがよくなると思われます。(脚注1は、「1869年7月25日(明治2年6月17日)」に(明治政府(太政官)から正式に)布告があった、ということを示すかと思われます。)