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ノート:牛川遊歩公園

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射撃場

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「特色」の説明の中に「かつては日本軍の射撃場であった」とあります。 私も昔ひとからそのように聞いた気がします。 しかし、昔の地形図や航空写真を見ると 射撃場は、現在の桜丘高等学校の南半分から グランドを通って東に延びる区画のようです。 いかがでしょうか。

太陽太郎--太陽太郎 2009年2月1日 (日) 00:52 (UTC)[返信]

太陽太郎さん、こんにちは。射撃場の場所ですが、正確な場所は土地の古老とは言えぬわたくしは分かりかねます。射撃場の区画が異なることが確実でしたら訂正削除します。注が必要ならば入れるべきかもしれません。正確な記述であるべきことは認めます。ただ、射撃場の場所も時代により拡大縮小、場合によっては移転することも考えられ、一時代の地形図や航空写真では証拠としては完全では有りません。その時代の証拠には成りますが、別の時代では面積や場所が変更される場合が有るからです。新聞などには1km公園が射撃場であったと載っていました。同じような質問を返して失礼かもしれませんけど、いかがでしょうか?--ウィキ豊 2009年2月1日 (日) 04:59 (UTC)[返信]
太陽太郎さん、特にご意見が無ければ変更しませんけれどもよろしいでしょうか?--ウィキ豊 2009年2月4日 (水) 03:09 (UTC)[返信]

 さっそくのご返事ありがとうございます。返事が遅くなってすみません。休日以外は忙しいものですから。それでは問題の件です。  私、明治26年から昭和63年までの国土地理院発行の2万5千分の1の地形図を何枚か持っています。(明治26年のものは2万分の1)それは次のものです。注釈付で示します。なお、航空写真は昭和36年のものです。  (1)明治26年(明治23年測図)   射撃場と思われる区画がある。三角山あり  (2)明治44年(明治43年部分修正) 「牛川射撃場」の表示あり 三角山あり  (3)昭和 3年(大正15年部分修正) 「牛川射撃場」の表示あり 三角山あり  (4)昭和23年(昭和23年修正測量) 「射撃場」の表示なし 三角山あり   (5)昭和35年(昭和33年修正測量) 土手あり 三角山あり  (6)昭和45年(昭和37年測量)   桜丘高校なし 土手あり  (7)昭和55年(昭和53年修正測量) 桜丘高校あり 土手なし   (8)昭和63年(昭和62年修正測量) 桜丘高校あり 土手なし  (注1)三角山(さんかくやま)  戦前までの地図を見ると、射撃場の東の端には周りに堀を巡らせた古墳のように2重に崖地を表す記号があり、これが昔三角山と呼ばれた射撃の標的だと思われます。 (注2)土手  射撃場の東半分にだけ、北の辺と南の辺に土手が線上に描かれています。弾丸が逸れたときの防護のためと考えられます。この土手はまん中ごろでなくなり、北側の辺では溝を示すようなこまかな波線がまっすぐに西に延びています。 (注3)広さ  射撃場と思われる土地は、どの図でも幅150~200メートル、長さ1200メートルくらいと思われます。

●模式図(実物をみればわかりやすいのに、もどかしい)上が北     Ⅱ Ⅱ Ⅱ Ⅱ          水田

    ~~~~~~~~~~Δ               ヲイホテ川と三角の池(Δ)曲がっている
     ∧ ∧ ∧ ∧ ∧                針葉樹
    ~~~~~~~~~~==========    溝(~)と土手(=) まっすぐ
           場 撃 射 川 牛             [] 三角山
    ~~~~~~~~~~==========    溝(~)と土手(=) まっすぐ

 以下に遊歩公園が射撃場ではなかったという根拠を述べます。 1.三角の池の存在  昭和36年の航空写真には、現在の東海アセチレンのすぐ南西に長辺が60メートルほどの三角形の池があり、明治から昭和35年までの地図に描かれた三角形の池と符合します。これと現在の地図と重ね合わせてみると、ちょうど遊歩公園がこの池を横切るようになっています。現在運動公園通りと交わる部分のすぐ東の芝生の広場がその位置になります。そして、この池と射撃場はいずれの地図でも4,50メートル離れています。 2.陸軍地図との照合 二川本陣資料館「レトロ豊橋の風景展」の展示地図に「大正中期ごろ」(測量年記載なし、2万5千分の1)と「昭和14年」(大正14年測図、昭和14年部部修正、2万分の1)とした2点の地図があります。等高線や土地利用の記号もかかれているので、いずれも当時の地形図を使って作成したものと思われます。この地図には牛川射撃場を始めとする陸軍演習場が色塗りされています。昭和14年のものは、上の(1)~(4)の地図と同じと思われる位置に射撃場が色塗りされています。ただし、大正中期ごろの地図では、南側に100メートルほどの幅が広く塗られています。  どちらの地図でも、三角の池は射撃場の色塗り部分から明らかに離れています。 3.ヲイホテ川  現在遊歩公園の北側に沿ってヲイホテ下水路が流れています。この下水路はかつてはヲイホテ川といい、1で述べた三角の池から流れ出ていました。(1)~(4)の地図で確認できます。そして、西に微妙にくねりながら流れています。川の北側は水田になっていて、川は低湿地の南寄りを流れていたように見えます。現在の地図と航空写真を重ねてみると、遊歩公園はこの低湿地を主にし、台地にところどころ引っかかるように通っています。  また、明治26年から昭和23年まで一貫して言えることは、射撃場の北辺とヲイホテ川とは、100メートル以上離れていることです。そして、そのあいだには、昭和23年まで針葉樹の記号が描かれています。  このことは遊歩公園を造るとき低湿地を埋め立てながらヲイホテ川を低湿地の北寄りに付け替えて造成したと考えられます。 4.曲がった公園  遊歩公園は地図でみると分かりますが、まったくの直線にはなっておらず、わずかに曲がっています。わずかとはいっても、遊歩公園は幅が40メートル程度ですので、実際に射撃をすれば、射撃の角度がわずかにちがうだけで、着弾はこの区画からはずれてしまうことになります。(もっとも、このことは遊歩公園が射撃場のほんの一部にすぎないとすれば、大きな問題ではなくなります。) 5.桜丘高校との対照  明治のころとの照らし合わせでは、道路の位置が現在とずれている模様なので、はっきりとしたことはわかりません。しかし、牛川小学校から浄水場に伸びる道が昭和3年からは固定しており、現在の桜丘高校をくの字に曲がって分断しています。そして、射撃場の北辺がこの位置を通っています。この射撃場の北辺は桜丘高等学校のグランドの北辺とほぼ一致します。(厳密には違いがある)また、桜丘のグランドの北側は段差があって、下が道路になっていますが、この道路が(注2)の溝かも知れません。  吉川利明氏「東三河の戦争遺跡」に引用された「郷土のしおり 牛川」には「射的場は今の桜丘高校敷地が西の起点で」と書かれていますが、現在の青陵地区市民館の西には「大洋堂」や「大建」という会社があって、桜丘高校の敷地とずれています。

6.三角点との位置関係  現在、青陵中学校のすぐ南に薬師寺があり、その西に三角点があります。昭和23年までの地図ではいずれも22.0メートルの標高を示していますので、同一の地点と思われます。そして、いずれの地図でも射撃場の中心線を西に伸ばした地点にあります。したがって、射撃場は移動していないものと思われます。

7.移動について  演習地を広げたり狭まったりすることはあり得ます。しかし、官有地として買い上げる必要がありますから、頻繁に変わるなどということはあり得ないと思います。また、変わったとしたら、地図上にその痕跡が多少は残るはずだと考えますが、ここに挙げた地図にはその痕跡はありません。広げたりする場合、少なくとも土手や標的の三角山を移動しなくてはなりませんが、そこまでして、射撃場を動かす必要があったとも考えられません。

 以上から、牛川遊歩公園は射撃場の跡ではないと考えます。特に遊歩公園の西半分は、オイホテ川沿いの沢を埋め立てて造られたものと結論づけます。そして、射撃場の北の辺は桜丘高等学校のグランドの北の道路を延長した線、南の辺は現在の桜丘高等学校から東陵中学校前まで伸びる道路と考えます。  よって例の「かつては日本軍の射撃場であったが、」の文は、抹消または「かつてはすぐ近くに日本軍の射撃場があったが、」にしたほうがよいと思います。  しかし、どうして射撃場の跡と言われるようになったかは不明です。豊橋市都市緑地課のHPにはこのことは述べていませんが、吉川利明氏の「東三河の戦争遺跡」にも遊歩公園が射撃場の跡と書かれていますし、豊橋百科事典にもそのように記述されています。何か理由があったことと思いますが、このソースがどこから出たかも知りたいものです。 太陽太郎--太陽太郎 2009年2月7日 (土) 11:26 (UTC)[返信]

こんにちは。太陽太郎さん。多くの根拠により説明いただき有難う御座いました。射撃場の跡については脚注化しました。脚注には射撃場が近くに有ったとしましたが、射撃場の後に公園ができたと言う説は活字資料が有りますので一応併記しておきます。活字資料と異なるウィキペディアで独自説を述べて居ると批判される虞が有りますので。--ウィキ豊 2009年2月7日 (土) 23:48 (UTC)[返信]

ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。太陽太郎--太陽太郎 2009年2月8日 (日) 00:02 (UTC)[返信]