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ノート:牟羽可汗

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"英義建功毘伽可汗"という記事名称についてと移動提案

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ウイグル側の自称として"牟羽可汗"があり、"英義建功毘伽可汗"は唐が与えた称号なのでしょう? これだけでも牟羽可汗が本来の記事名だと思いますが、さらに"英義建功毘伽可汗"は、"英義建功"という漢字の称号と"毘伽可汗"というウイグル名の音写を組み合わせたもので、これでは聖王ルイだの、獅子王リチャードと一緒ですよ。

他に実名を特定しようが無い場合は、中国側の史書に記述された名称を用いるのも仕方がないですが、ウイグル内部での自称が(漢字による音写とは言え)わかっているんでしょう。例えば、足利義満が日本国王源道義という称号を受けたからと言って、記事名を日本国王源道義で記し、足利義満を転送扱いにしますか? 中国の史書に記述されているからといって、外部の集団を特定勢力側からの表記のみで以て記そうとするのは到底中立的とは言えません。

また、この記事はあなたがほとんどすべてを書かれたと見受けますが、そのあなた自身が"唐に入朝した際に英義建功毘伽可汗(えいぎけんこうビルゲカガン[1])の称号を授かった。"と"そこで代宗は、宣政殿に臨御して冊文を出し、牟羽可汗に称号を加えて登利頡咄登密施含倶録英義建功毘伽可汗(テングリデ・クト・ボルミシュ・イル・トゥトミシュ・アルプ・キュルグ・ビルゲ・カガン)"以外すべて牟羽可汗で記述していますよね。もし、牟羽可汗が称号を受けた後、自らの名称を"牟羽可汗"に替えて"英義建功毘伽可汗"として用いた事実があり、その時点がわかっているなら、用いる以前を"牟羽可汗"、それ以後を"英義建功毘伽可汗"で記すのが正確と思いますが。

--射丸蔵 2010年11月17日 (水) 19:45 (UTC)[返信]

今回の移動で問題なのは、ウィキペディアにおける手順(Wikipedia:ページの改名)を踏まずに移動したということであり、ちゃんと手順を踏んでいれば私は文句を言いません。そして、改名にしても「英義建功毘伽可汗」を「牟羽可汗」にすることは反対しません。しかし、改名理由として「中立的ではない」というのは、何か違うような気がします。中立的ではないということは「A 主義者が A と記述すること」(詳しくはWikipedia:中立的な観点を参照)であり、私は別に中華主義者ではありません。むしろウイグル側に立ちたい方です。
例えば、ある事柄に対して学会ではA説とB説、C説が争っているとします。そこで、ウィキペディアにA説ばかりの記事を書いて他のB説、C説を批判する記事を書けば、それは「中立的ではない」といえます。今回の件では「英義建功毘伽可汗」という名前に偏りは感じませんし、逆にいえば「英義建功毘伽可汗」と書こうが「牟羽可汗」と書こうが中華側の名前なので偏りになります。
問題にするとしたら、「一般的か一般的ではないか」であり、私としても「英義建功毘伽可汗」か「牟羽可汗」かでいえば「牟羽可汗」の方が一般的だと思ったので、記事名以外は「牟羽可汗」で書いたわけです。よって、改名理由としてはWikipedia:記事名の付け方により、「牟羽可汗」のほうが一般的であるから。とでもすれば、私は同意しましょう。--トムル 2010年11月18日 (木) 04:45 (UTC)[返信]

手順を踏まなかったことに関しては以後気をつけます。

◇正史は王朝の主観

杉山正明、岡田英弘、古田博司らが指摘しているように、中華王朝の正史はそれ自体がある王朝の政治的主張や文化的主観を意識的、無意識的に押し付けるものです。わたしが問題にしているのは、あなたが意識的に中華王朝側の立ち位置を取ろうとしていることではなく、漢籍に依拠するあまり無自覚な中華主義に陥ってしまっていることです。

◇音写の認識

>「英義建功毘伽可汗」と書こうが「牟羽可汗」と書こうが中華側の名前なので偏りになります。

同じ史書に記された漢字名と言っても、その外部民族が自称していることの音写と中国文化内の意味を中国語で名付けたたものとでは、その偏りの程度、つまり中立性はまるで異なります。

◇名称と中立性

説以前に、ある対象を現すときにどの名を用いるかは、最も端的にどの文化・勢力の立場の見方を取るかを現します。

Wikipedia:中立的な観点

フェアであることと、好意的な立場

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多くの記事は、対立する見方について紹介しつつも、特定の見方を支持するものになってしまっています。これは失敗です。ある記事が、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合があります。それはどのような事実をとりあげて説明するか、(どのような事実をとりあげないか)、それらをどのように配列し、まとめるか、といったことを通じて行われます。

私が言う中立性は、ただ「AがA(x)を主張し、BがB(x)と主張することをどちらかに偏らずそのまま記す」という次元ではなく、上の文章の意義において最も上位に位置する"対象をどの勢力・文化の認識から呼ぶか"です。

例えば、竹島について。 現在英語版Wikipediaで竹島(takeshima)、独島(dokto)は共に‘Liancourt Rocks’に転送されています。竹島を竹島と呼ぶか、独島と呼ぶかは明らかに、名称によってどちらの側の主張に立つのかを示す例です。 複数の説を併記できる記事内容と異なり、記事名は主従がハッキリと表れます。独島は竹島に転送するようにし、竹島の記事に、"韓国では独島と呼ぶ"と書くのと、竹島は独島に転送するようにして、"独島は日本では竹島と呼ぶ"と書くのとでは、その立ち位置はまったく異なります。 この様な例は、天皇と日王、新疆とトルキスタンなど枚挙に暇がありません。

◇中華称号を優先するなら

中華王朝に称号を与えられ、それが王朝の正史に記載されているからという理由で、その名称を優先するのであれば、上に挙げた"日本国王源道義"は元より、邪馬台国の女王・卑弥呼に『親魏倭王』の称号が与えられているから、卑弥呼は転送扱いとして親魏倭王を本記事にするのと一緒になります。 (ここは一般的であるかどうかではなく、中立性に関することです。日本において「一般的」という基準であれば卑弥呼、足利義満が主記事になります。)

"親魏倭王"にせよ、"英義建功毘伽可汗"にせよ、その当時の中国を支配した王朝の制度や文化・都合から生まれた中国側の呼び名・称号に過ぎません。文化を同じくする中国内部の事であればともかく、外部の別民族の勢力を正史基準で呼ぶことは意識的にせよ、無意識的にせよ、中華主義の立場に立つことになります。

◇王名の一般的な記述原則

英語版WikipediaのList of Uyghur Khagans、また個別の王の記事はすべてウイグル側の名称で記され、"英義建功毘伽可汗"の様な別称はTang(唐)から与えられた称号(Tang Dynasty-invested title)として記されています。

これは人物が生まれ活動した勢力・文化内での正式名をtitleとし、その他からつけられたものは付則として記す、原則といってよいぐらい一般的な形式であり、それを差し置いて、別勢力によって与えられた称号を本記事名とするのは中立性を欠いているようにしか見えません。

私が中立的でないと言っているのは、"英義建功毘伽可汗"は例えば振威将軍何某のように、中国側の意味で名付けられたもので、君主名の記述として一般的(中立的)とは言えないことです。これを中立的な君主の一般名称として扱うのなら、以下の事実確認が必要です。

◇当人が名乗ったかの事実確認

そもそも牟羽可汗自身が"英義建功毘伽可汗"をそれまで使っていた"牟羽可汗"に替えて名乗ったという事実はありますか? 仮にあるとして、それはその称号を与えた王朝に対してだけ(つまり中華主義の国に対して外交儀礼上用いただけ)なのか、それ以外のウイグル勢力内、中華王朝以外の対外勢力すべてに対して(つまり"英義建功毘伽可汗"をそれまで使っていた"牟羽可汗"に替えて名乗った)のですか? あなたの記事では、その肝心の所が明らかになっておらず、唐が一方的に称号を与えたとしか見えません。後者であれば、私はこの記事が英義建功毘伽可汗のままであることに賛成します。それ以外であれば、賛同できません。

◇結論とお願い

"牟羽可汗自身が'英義建功毘伽可汗'をそれまで使っていた'牟羽可汗'に替えて対内・対外的に名乗ったという事実が無いのであれば、それは単なる中国側が牟羽可汗取り扱う際の称に過ぎず、中立的な王名として記すには到底当たらない。"というのが、私の認識です。

あなたはウイグルについてなにがしか専門に学んでおられる方とお見受けしますが、その様な方だからこそ、これまでの漢籍史料中心で無自覚的に中華思想・中華主義を受け入れてしまっていた日本の研究がどうであれ、"Wikipediaにおける中立性"といった次元を超えた、無意識的な中華思想から抜け出した大局的な中立観に基づいてウイグルの事を研究し、記述してもらえないでしょうか。

このような名称の次元からどの立ち位置を取るかというのは、中国とその周辺国家・周縁民族の関係において、今も続いている重要な問題です。 ウイグルを、中華主義的な見方を客観視し、古代から現代に至るまで大局的な中立観に基づいて記述していくことは、中華主義の支配下で悲惨な目を見つづけているウイグルの人々にとって、そして中国の周縁という意味で立場を同じくする私たちにも寄与することと思います。

--射丸蔵 2010年11月19日 (金) 11:11 (UTC)[返信]

ご丁寧にありがとうございます。射丸蔵さんの言うことはよくわかりました。まずいくつかお答えしましょう。
>これは人物が生まれ活動した勢力・文化内での正式名をtitleとし…
それにこしたことはないのですが、ウイグル側の正式名がわからないので、タイトルにしづらいというのがあります。英語版の「Qutlugh tarqan sengün」ですが、私の知識不足で出典がわかりません。漢籍にある「登利頡咄登密施含倶録英義建功毘伽可汗(テングリデ・クト・ボルミシュ・イル・トゥトミシュ・アルプ・キュルグ・英義建功・ビルゲ・カガン)」ですが、英義建功をとったものが正式名称かは断定できません。そして一般的に知られている牟羽可汗の原音とされているブグ・カガン(Bögü Qaγan)ですが、これも「されている」ので、なんともいえません。"牟羽可汗"が正式かどうかはわかりませんが、"英義建功毘伽可汗"より記事名としてふさわしいことは認めましょう。
>牟羽可汗自身が"英義建功毘伽可汗"をそれまで使っていた"牟羽可汗"に替えて名乗ったという事実はありますか?
事実は別として、史実としては"ない"です。『新唐書』では英義建功毘伽可汗の称号を与えられても牟羽可汗と呼ばれています。『旧唐書』では登里可汗と呼ばれていますが、英義建功毘伽可汗の称号を与えられても"可汗"もしくは"可汗移地健"と記されています。
>これまでの漢籍史料中心で無自覚的に中華思想・中華主義を受け入れてしまっていた日本の研究がどうであれ、"Wikipediaにおける中立性"といった次元を超えた、無意識的な中華思想から抜け出した大局的な中立観に基づいてウイグルの事を研究し、記述してもらえないでしょうか。
ここはウィキペディアなので「"Wikipediaにおける中立性"といった次元を超える」ことはないですが、私は今後も中立的に記述したいと思います。しかし、ウイグルに関する漢籍以外の史料を用いた資料が少なく、あってもなかなか手に入らないので、射丸蔵さんの言うほどの中立に記述できないのが本音です。「漢籍史料中心で無自覚的に中華思想・中華主義を受け入れてしまっていた日本の研究」というのも、ウイグル側の史料が少ないがためにそうなっていたわけですので、今後もし新たなウイグル史料が発見・研究されれば、ウイグル史は大いに発展することでしょう。
私から質問です。射丸蔵さんがいう"中立的"にこの記事名が「牟羽可汗」となったとすると、それに伴って「英武威遠毘伽可汗」も「葛勒可汗」、「武義成功可汗」も「合骨咄禄毘伽可汗」になると思います。ですが、「牟羽可汗」より「ブグ・カガン」のほうが中立的ではないですか?あと、遅くなりましたが本文に改名提案テンプレートを貼りませんか?--トムル 2010年11月20日 (土) 09:48 (UTC)[返信]
改名提案テンプレートの件、"ブク・カガン"表記の件ともに賛同します。漢字表記からの転送処置が機能していれば、漢字名で検索してくる人の利便性も損ないません。他の君主も同様の処置でよいと思います。
--射丸蔵 2010年11月20日 (土) 12:58 (UTC)[返信]
しかしながら、カナ名にする場合は我々では決めかねる問題が発生しますし、"ブク・カガン"という名前も牟羽可汗に比べて一般的ではないので(また、現在は比定されているだけで断定されてはいないので)、ここはとりあえず「牟羽可汗」にしたいところです。テンプレートは私が貼っておきます。一週間何もなければ「牟羽可汗」に改名しましょう。--トムル 2010年11月20日 (土) 14:08 (UTC)[返信]
一週間たったので改名します。--トムル 2010年11月30日 (火) 12:41 (UTC)[返信]