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ノート:生神女就寝大聖堂

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記念と記憶について

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違和感がある程度の理由で「記憶」から「記念」に変更されてしまいましたが、修正しておきました。

なぜカテゴリ名では「記念」となっているかと言えば、西方教会での用語に合わせたものです。当記事は正教会の記事ですから「記憶」で用語を統一しています。教派ごとの記事で教派の用語を尊重するのはプロジェクトでの合意ですので、尊重して頂きたく存じます。--Kinno Angel会話2015年12月27日 (日) 05:22 (UTC)[返信]

理由を説明いたします。「記憶する」の使い方に違和感を覚える同様のページで分かりやすい例をあげます。「ニコライ堂」のページを見ますと
とあります。しかしこれではニコライ堂がイエス・キリストの復活を覚えているとしか読めません。ニコライ堂を擬人的にとらえたらいいのか、なんだかよく分からないイメージしか浮かばないのです。百科事典は調べに来た人に知識を与えるためのものです。それが一般の人や部外者に誤解や変なイメージを与えたりしては逆効果ではないでしょうか。せっかく一生懸命記事を書いて下さる方々の努力がむくわれません。専門用語は尊重されるべきでしょう。しかし例えば以下のように説明すべき内容なのではないでしょうか。
イエス・キリスト復活を記念するための大聖堂である[1]
脚注:1. 日本ハリストス正教会ではイエス・キリストをイイスス・ハリストスと言う。また記念、記念するとは言わずに「記憶」、「記憶する」と言い、この場合ならキリストの復活を忘れず常に思い起こすという意味をこめ、そうして得られる心の体験をも意味に含める(参考:高橋保行『ギリシャ正教』198頁、ISBN 4061585002)。 — ニコライ堂
このページならば、
生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせいどう、Dormition Cathedral)は、ギリシャ正教大聖堂である。イエス・キリストの母マリアの死を記念[1]するために建てられた。「生神女」とは「神を生んだ女」すなわちマリアのこと、「就寝」はマリアの死を表す。「生神女」「就寝」はともに日本ハリストス正教会の正式用語である。
脚注:1. 日本ハリストス正教会では記念、記念するとは言わずに「記憶」、「記憶する」と言い、この場合なら生神女(マリア)の就寝(死)を忘れず常に思い起こす意味をこめ、そうして得られる心の体験をも意味に含める(参考:高橋保行『ギリシャ正教』198頁、ISBN 4061585002)。 — 生神女就寝大聖堂
とでもしたいところです。30数年前に西洋史学者の森安達也さん([1])がおっしゃっていました。「ひとつ部外者からの苦言を申しますと、どうもまだ正教会独特の口調というか言葉遣いからぬけきらないのではないかと思います。」(1982年の第4回西日本正教ゼミナールでの講演。「日本人とギリシア正教」『東方キリスト教の世界』291頁、301頁)。私はこのたび正教会のことを知ろうと思って手にした本の1冊にこう書いてあるのを見て、我が意を得たりという思いがしました。--小林松野--122.26.154.23 2016年1月3日 (日) 02:40 (UTC)[返信]
貴方が「我が意を得たり」とか、一学者が言っている個人的意見がどうとかではなく、「教派用語の尊重」は「中立性確保」と「出典主義」を守る為にプロジェクトで合意を得ている内容です。また「個人的感性」によって無用な議論が生じると言うリソース消耗を避けるという意味でも合理的です。プロジェクト:キリスト教/キリスト教の記事名と用語表記のガイドラインを御覧下さい。--Kinno Angel会話2016年1月8日 (金) 14:20 (UTC)[返信]
コメント 私は正教会の信徒でないどころかクリスチャンですらないのですが、小林松野さんのご提案にあまり同意できません。仮に脚注をつけるのなら、本文をそのまま「記憶」にしておいて、脚注で「この場合の記憶とは…」という形にする方が、脚注の文章を簡素化できますし、正教会の信徒の方から見ても違和感がなく、なおかつ非信徒からも理解しやすいのではないでしょうか。また、森安氏のご発言は、逆に30年前にそのような提言をしていながら、いまなお『変革』が行われていないのであれば、それは結局のところ、森安氏のような実績ある学者の提言ですら変更させる影響力を持ちえなかったということでしょうから、貴方の感覚でもって変更してしまうことはなおさら不適切ということになるのではないでしょうか。--Sumaru会話2016年1月8日 (金) 14:38 (UTC)[返信]
Kinno Angelさん、Sumaruさん、ご意見ありがとうございます。「…を記憶する正教会の大聖堂」という表現は百科事典項目の冒頭部分に書く表現としてふさわしいでしょうか。百科事典は執筆者が自分の表現で書くべきものです。そうすることによって客観的な記述が期待出来ます。日本語として自然で読者に容易に理解される表現、「…を記念する正教会の大聖堂」とまずは書いてそれから説明なり注釈をするのが百科事典執筆のあるべき姿ではないでしょうか。ところで少々調べたのですが、「記憶」「記念」、これはキリスト教の用語としてはギリシャ語「アナムネーシス」の翻訳語で(石井。国井。参照:森安訳)、パウロが手紙の中でいわゆる最後の晩餐について言及した箇所に由来します(石井。国井。「コリントの信徒への手紙一」11章24-25節。他に『ルカによる福音書』22章19節も同様)。パウロの手紙は『新約聖書』に収められていて当然日本語訳も各種ありますが、『口語訳聖書』『新共同訳聖書』はもちろん『日本正教会訳聖書』でも一致して当該箇所は「記念」と訳してあります。この「記念」はイエス・キリスト自らの発言でキリスト自身に関する言葉です。一方日本ハリスト正教会が使う「記憶」はキリストに関してはもとより「自分の隣人」としての「家族、友人」などにも使う言葉です(高橋)。ですから「復活を記憶する大聖堂」とするより「記念」を使って表現するほうが「アナムネーシス」の翻訳語としても意味が限定されて正確です。だからこそ日本正教会訳の新約聖書も「記憶」でなく「記念」と訳したのでしょう。なおこの日本正教会訳新約聖書は「独特の用語を使用し…正確な訳文と言われる.」(秋山)ものです(参照:長縄)。次に「生神女就寝大聖堂」については、森安(参考文献)とそれに依拠した久松(参考文献)が「聖母の生涯と事績そのものに教会堂が捧げられることも多く、それが教会堂の名称となる。」とそろって書いているのでこの2つを参照として注記して「マリアの死に捧げられ、その名を冠している。」とするのがよいと思います。以下に改善案2を示します。なお注釈は私の解釈部分を取り去って要点のみにしました。これについては別途「記念 (キリスト教)」および「記憶 (宗教)」(旧約思想を含む)で出典によって宗教概念として書くべき内容と判断しました。
参考文献:

ニコライ堂」の改善案2:

イエス・キリスト復活を記念するための大聖堂である[1]
脚注:1. 日本ハリストス正教会ではイエス・キリストをイイスス・ハリストスと言う。また「記念」「記念する」とは言わずに「記憶」「記憶する」と言う(参考:高橋保行『ギリシャ正教』198頁、ISBN 4061585002)。 — ニコライ堂

生神女就寝大聖堂」の改善案2:

生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせいどう、Dormition Cathedral)は、ギリシャ正教大聖堂である。イエス・キリストの母マリアの死に捧げられ、その名を冠している[1]。「生神女」とは「神を生んだ女」すなわちマリアのこと、「就寝」はマリアの死を表す。「生神女」「就寝」はともに日本ハリストス正教会の正式用語である。
脚注:1. 森安達也『東方キリスト教の世界』204頁、ISBN 4-634-64170-4 およびこれに依拠した久松英二『ギリシア正教 東方の智』101頁、143頁、ISBN 9784062585255 を参照。 — 生神女就寝大聖堂

--小林松野--118.1.83.179 2016年1月13日 (水) 17:01 (UTC)[返信]

確認なのですが、この文脈における「記憶」は正教会の正式用語ではないのでしょうか。
Kinno Angelさんのコメント、小林松野さんの当初の脚注の内容からすると、それは自明のことかと思っていたのですが、そうだとすると、「生神女」「就寝」をそのまま本文に『正式用語』として残しつつ、「記憶」だけ除外しようとする上記文案の意図が分かりません。一般向けに分かりづらいといったら「生神女」の方が「記憶」の比ではないと思うのですが…(記事名にあるから、というのは理由にならないと思うのです。一般的な分かりやすさを優先すべきというなら記事名自体を変えることをも視野に入れるべきだからです。もちろん、以上は生神女を使うなという提案ではありません。逆に、分かりづらい・分かりやすいに関わらず差異を尊重すべきだという意図です)。
以下、「記憶」が用語であるという前提でコメントしますが。
1コリの訳し方は(原語が同じでも日本語で使い分けられることはままありますし)あまり参考にならないように思います。むしろ正教会が聖書で「記念」と訳している語を聖堂関連で「記憶」と訳し分けているのであれば、逆にその差異は尊重されるべきではないでしょうか。
>百科事典は執筆者が自分の表現で書くべきものです。そうすることによって客観的な記述が期待出来ます。
著作権的な配慮からも自分の表現で書くことは推奨されるべきでしょうが、用語を個人的に分かりやすいと思うかどうかで書き換えるのは客観的どころかWikipedia:独自研究は載せないに抵触しかねない行為に思えます。--Sumaru会話2016年1月14日 (木) 16:53 (UTC)[返信]
まず私が「改善案」で「正式用語である」と書いた箇所は単に「用語である」と書くべきでした。「正式」とする典拠を見いだせません。訂正します。次に「記憶」は正教会の用語かという点ですが、聖堂に関して正教会のウェブサイトを私が見た限りでは「記憶」を使っているのはニコライ堂だけです[2]。鹿児島ハリストス正教会に関しては「…を記念する聖堂」[3]、ロシア正教会駐日ポドヴォリエは「…を記念する聖堂」「…を記念した聖堂」[4]と記しています。日本ハリストス正教会の『正教会の手引』でも「記念」を使って説明しています(「第6章 2 聖堂の名」146頁、PDFページ:148)。なお私が「記憶」ではなく「記念」と表現すべきと主張する根拠として例えばデジタル大辞泉の「記念」の解説「2 過去の出来事・人物などを思い起こし、心を新たにすること。」と「記憶」の解説を比較ご参照ください。--小林松野--118.1.83.179 2016年1月19日 (火) 19:50 (UTC)[返信]
国語辞典の定義は最初に議論に参加する時点で確認済みです。ですが、宗教に限らず、専門用語はフォローされていないことも少なくない(たとえば府主教は広辞苑にも大辞泉にもありません。日本大百科全書の「主教」の項目内ではフォローされていますが)ので、直接的な根拠にはなりえないと考えました。
他方、上記『正教会の手引き』を確認しました。確かに「記念」とありますので判断が揺れていますが、では、上で「記憶」の出典に上げられている高橋氏の文献はどういう文脈での登場なのだろうか、ということで、地元図書館で参照するための手続き中です(都合により本館へ行って参照する時間を取れないので、分館に回送を依頼中)。ですので、なお数日の猶予を頂きます。--Sumaru会話2016年1月24日 (日) 13:12 (UTC)[返信]
聖堂に関して正教会のウェブサイトを私が見た限りでは「記憶」を使っているのはニコライ堂だけです[5]
小林松野さん。ググれば一発で分かる事例につき、事実と異なることを書かれて議論を誘導されるのは困ります。
顕栄(主の変容)祭を記憶して建てられているこの聖堂は、修善寺ハリストス正教会・顕栄聖堂
記憶と追悼の教会日本の正教会信者のための記憶と追悼の教会が建てられる
この聖ニコライを記憶して建てられているのが前橋ハリストス正教会の聖堂です。前橋ハリストス正教会
まだまだありますよ。
公式サイト内での「記憶 聖堂」の検索結果
ググれば一瞬で分かる内容なのに「ニコライ堂でしか使われていない」とされた事には、意図に疑問を感じます。かような軽率な事実誤認は、厳に慎んで頂きたく存じます。--Kinno Angel会話2016年1月25日 (月) 00:45 (UTC)[返信]
あと、少し前のコメントに気付きませんでしたが、随分大量に書かれていたのですね。なのでもう一つ。
百科事典は執筆者が自分の表現で書くべきものです。
ここがもう前提からしておかしいです。ウィキペディアは厳正な出典主義です。執筆者の個性や執筆者に担保される客観性は求められていません。何故なら私含めて、ウィキペディアの執筆者は全員匿名・無権威が原則だからです。
従いましてその後の、「部外者達による用語使用例」は、検討にも値しません。高橋保行神父と日本正教会訳聖書(但し挙げられている例は「聖堂の記憶内容」では無いので、これもミスリード)は検討対象になりますが、これも公式ウェブサイトでの用例が「記念」より「記憶」の方が多い(しかも「記念」の用例は「何周年記念行事」といったものが大半)、という至ってシンプルな観察結果で最終解答でしょう。--Kinno Angel会話2016年1月25日 (月) 01:01 (UTC)[返信]
申し訳ありません、本当は小林松野さんの独自研究に付き合う必要はないのですが、補足指摘をしておきます。
アナムネーシスの訳語として記念が正しい、と仰いますが、本当に御自分に都合の良い部分しか調べて無いでしょう(もし意図的に検索結果を除外しているのなら悪質ですが、善意にとりましょう)
http://www.orthodox-jp.com/ 内で「記憶」をググれば、「アナムネーシス」を意味するところの「記憶」の用例が大量にヒットします。一方で「記念」をググれば、まず出て来るのは「記念行事」「記念事業」が9割以上です。用例数の圧倒的な差からいって、徹底した出典主義のウィキペディアでどちらを採用するべきかは自明です。--Kinno Angel会話2016年1月25日 (月) 01:22 (UTC)[返信]
コメント sumaruです。遅くなりましたが、改めて「記念」への書き換えに反対します。
高橋保行『ギリシャ正教』を確認しました。「記憶」という小見出しの説明(pp.197-199)は、聖堂に関するものではなく聖体礼儀に関するものでしたが、小林松野さんの論拠提示の仕方に疑問を感じました。第三者に分かりやすいように出だしだけ引用しますが、
  • 聖体礼儀の中で「記憶」という言葉がよくつかわれる。これはたんなる物事の記憶だけでなく、思慮による想起、またそれらによる心の体験を意味している(同書pp.197-198。強調は引用者)。
明らかに国語辞典的な「記憶」とは異なる用語であることが示されています。それをご存知のはずなのに、どうして『私が「記憶」ではなく「記念」と表現すべきと主張する根拠』としてデジタル大辞泉という普通の国語辞典が出てくるのか、非常に疑問を感じました。高橋氏の書き方は、明らかに「記憶」という表現を尊重すべき理由として使われるはずのものでしょう。
なお、久松英二『ギリシア正教 東方の智』では「記念」「記憶」のいずれも使わず「名を冠する」等としか書かれていないことも確認していますが、著者はカトリック信徒であり、「高橋〔保行〕のような正教徒の著者から相手にされないことははじめから承知の上」の「単なる教養書」(いずれも同書あとがきによる。カッコは引用者)とまで断っているのですから、正教会の用語をどう扱うかという論拠としては不適切に思いました(森安氏の文献は未確認のため、そちらは賛否保留)。
また、Kinno Angelさんのご指摘を見るまでサイト内検索を掛けて主張の当否を検証するということをすっかり忘れておりました。その結果の確認も、改めて反対する理由となりました。--Sumaru会話2016年1月29日 (金) 16:12 (UTC)[返信]