ノート:生麦事件
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初版は、http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/namamugi.htm の語尾等を変えただけのものと思われます。--KZY 2004年7月23日 (金) 15:40 (UTC)
この記事だけではないが、「~説がある」と記述する場合、出典を明確にしてほしい。盛風力 2007年10月27日 (土) 15:01 (UTC)
- それで出てきた出典が専門家には悪名高い歴史群像でさらに孫引きだとは。--218.224.252.34 2008年2月3日 (日) 09:44 (UTC)
- 批判するのは勝手ですが、ここは2ちゃんねるではありません。荒らしの如き書き込みは慎みましょう。--220.214.252.22 2008年4月17日 (木) 07:41 (UTC)
賠償について
[編集]薩摩藩がイギリスとの交渉を無視し続け、代わって幕府が賠償金を支払ったにもかかわらず、イギリスが薩摩と再び交渉→薩英戦争へ、という流れだったと記憶しております。幕府の交渉には、政府としての体面もあったと思われます。反映できないものでしょうか。gogokoba 2007年10月3日 (水) 12:38 (UTC)
- まず賠償金についてですが、イギリスの駐日代理公使ニール中佐が、本国の外務大臣ジョン・ラッセル卿の指示に基づき、その大部分を、条約提携の主体である幕府に請求しただけのことです。朝廷が島津久光を賞賛し、賠償金支払いにも口を出して禁じていましたから、幕府はすぐに応じるわけにもいかなかったのですが、海軍を増強したイギリス側が、海上封鎖をするかまえで脅しましたので、仕方なく払った状況です。一方、イギリス本国は、薩摩には自治権があり、幕府に犯人処罰の権限はないらしい、との見極めから、薩摩藩に犯人処罰と賠償金の一部をも負担させるよう指示していましたので、ニール中佐は、脅しのために艦隊を率いて薩摩へ交渉に出向き、交渉が決裂して薩英戦争になった、という次第です。--Iratume 2008年9月20日 (土) 06:01 (UTC)
ウィリスの手紙の文面
[編集]「事件発生の要因」で、ヒュー・コータッツィ著 中須賀哲朗訳『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』(中央公論社)から引用しましたウィリス医師の手紙の文面の「血闘」ですが、誤植なのかもしれませんが、原文が「決闘」ではなく「血闘」になっていますので、直さないようにお願いいたします。--Iratume 2008年9月20日 (土) 14:53 (UTC)
ボロデール夫人について
[編集]彼女が助かったのは女性であったからで、顔を確認するため深く被っていた帽子だけを切ったとの記述を見かけたことがあります。鹿児島市内にある県立図書館の蔵書だったか資料センターの黎明館だったか定かでなくてすみません。 また、同書に彼女の乗った馬の尻を刀の棟で叩き、行列から遠ざけた藩士が居たとも載っていました。--櫻井 2009年1月29日 (木) 02:22 (UTC)
- お返事が遅れて申し訳ありません。 ボロデール夫人が無傷だったことについては、その理由がはっきりと書かれた一次史料はないと思います。直接、行列の現場で太刀を振るった者の中で、回想を残しているのは久木村のみです。(海江田は現場に居合わさず、落馬後のリチャードソンを発見しているだけです)。その久木村の回想は、50年後のもので、事実関係が非常にあやしいんです。ある意味、偶発的に起こった事件であり、史料が少なく、事実関係の見極めさえ難しい状態です。自分のブログで考察してみていますが、独自研究になろうかと思います。普通に考えて「女だったから見逃されたのだろう」という推測はできますので、海江田や久木村の発言をもとに、アレンジした記述があるのかもしれませんが、載せるほどのものなのか、と疑問です。--Iratume 2009年7月4日 (土) 07:39 (UTC)
- 付け加えます。一次史料といえば、行列の先を行っていて、事件を知り、引き返した藩士・宮里孫八郎が、事件から十数日後に、薩摩の両親へ書き送った手紙が残っています。宮里は、引き返す途中で、落馬したリチャードソンを見かけながら、果たして介錯していいものかどうなのかわからず、そのままにして引き返します。しかし、後で、こう知ったそうなのです。「ついては一人も残さず打ちはたすべきの處に、たまたま我々共御先に行ながらケ様の事とは存ぜず候につき、無覚をとり残念の至りに存じ奉り候」と。つまり行列の現場ではともかく、事件後には、おそらくは、なんですが、無礼討ちの作法からいって、「一人残らず討ち果たすべきだったのだ」という考えが、藩士の間にひろまっていた、ということのようなのです。一人残らず、なのならば、ボロデール夫人も入ります。現場はともかく、直後にこういう考え方が出ていた、という証拠はあるわけでして、一方、現場の藩士が女だからボロデール夫人を見逃したのだろうという推測はできますが、証拠は残ってないんです。--Iratume 2009年7月25日 (土) 06:48 (UTC)