ノート:白石会議
白石の読み仮名がしらいしとなっておりますが、宮城県白石市、白石城などは しろいしと読みます。この当時は「しらいし」と読んだか、あるいはこの会議をさすときは「しらいし」と読むのでしょうか?なんらかの出典がありますか?--Stingfield 2011年12月10日 (土) 02:44 (UTC)
- 追記します。4月11日の段階で仙台の呼びかけに応じた藩に越が含まれておりますが、越から参加したのは何藩でしょうか?--Stingfield 2011年12月10日 (土) 03:04 (UTC)
- 上記の質問は単純な誤記です。訂正します。--More blessing 2011年12月16日 (金) 23:44 (UTC)
http://www10.plala.or.jp/yageki/tendou.htm
私、天童藩藩士の子孫ですがこの記述に異論があります。 天童藩二万石は国替え領地替えで天童に拠点を設けた頃には完全に財政逼迫しており 仙台藩60万石の支援を受けてどうにか存在していた貧乏藩でした
わが家は伊達一家十七家の分家で伊達家が天童織田家支援を行う為に 天童藩に送り込んだ一族ですが 戊辰戦争において九条様が天童に入られたことについては 当家が仙台の本家と仙台城に事細かに連日使者を送り伊達家の了解を得た上で 天童藩として行動しておりました
にもかかわずこの仙台領白石においては 仙台藩伊達家を無視して天童藩江戸家老中村大八を寄ってたかって 詰問したあげく切腹に追い込み その直前には天童領内九条通孝様お屋敷を焼き討ち 天童藩陣屋・武家屋敷・周辺農家300戸までを焼き払う暴挙 (九条様はこの直後に仙台領内秋保温泉・我家の本家地行地内に避難)
これで九条様が大人しく退いてくださるわけもなくひたすら激怒させただけで 白石会議の決め事など最初から揉めるように仕向けただけ
本家と仙台藩は庄内藩(事実上は酒田の商人本間家)と会津藩に嵌められただけだったと 供述したと聞いております。 当時の本間家の蔵には米国の南北戦争終結による大量の余剰兵器を仕入れ 東北諸藩に売りつける算段を行っていた記述も散見されます
東北諸藩一丸となってというウソ話ではなく 巻き添えで戦う羽目となったと記述を変えていただきたい 仙台伊達家はじめ誰も明治政府と事を構えるつもりなどなく 大体が財政逼迫窮乏してた諸藩からどうして戦費捻出が可能だったか
庄内藩内の本間家からの高利の借金さらに蔵の米国中古兵器を言値買いさせられる 踏んだりけったりの状況 迷惑そのもでありました。