ノート:矢立峠
鉄道の欄について
[編集]本来の地理的な「峠」の記事よりも、鉄道の歴史の方に偏りすぎています。また内容があまりにも過剰に加筆されていて、かつ本文の脚注と()書きが多すぎて非常に読みにくいと思います。脚注もほかの本文より長いのはいかがなものでしょう。いわゆる「てっちゃん」には、重要な記事なのかもしれませんが、もっと簡潔になりませんか。もしくは鉄道の歴史関連のページに移動などはできないものでしょうか。私は鉄道について詳しくありませんので、内容はとても整理などできませんでした。--フォット 2011年3月19日 (土) 13:32 (UTC)
本文(2013年12月9日 05:36 (UTC)の版から転記)
[編集]改善なきまま3年が過ぎましたので、鉄道節を主たる記述だけ残し、ノートに転記します。出典を元に復帰されることを妨げるものではありません。(むしろ歓迎したいところです) 以下転記部分。--フォット(会話) 2014年4月4日 (金) 04:23 (UTC)
[[蒸気機関車]]の全盛期には陣場駅 - [[碇ケ関駅]]間などで[[国鉄D51形蒸気機関車|D51]][[三重連]]牽引の[[貨物列車]]や[[補助機関車|補機]]を連結した[[旅客列車]]([[客車]]列車)などが運転された。補機は、主に[[大館運輸区|大館機関区]]と[[弘前運輸区|弘前機関区]]に配置されたD51(1950年代中期頃までは、[[国鉄D50形蒸気機関車|D50]]も補機や貨物列車の本務機として使用されていた)が使用され、陣場駅と碇ケ関駅の両駅、ならびに、大鰐駅(現・[[大鰐温泉駅]])には、補機の待機用の[[側線]]、ならびに、給炭水設備や駐泊施設などが設置されていた<ref>なお、[[急行列車]]や急行貨物列車などのような一部の列車の補機については、[[大館駅]] - 碇ケ関駅・大鰐駅・[[弘前駅]]間、あるいは、陣場駅 - 大鰐駅・弘前駅間などでの通し運用もあった。ただし、秋田県側の陣場駅、青森県側の碇ケ関駅・大鰐駅には、いずれも補機の駐泊施設などが設置されていたものの、[[転車台]]がなかったため、下り列車、上り列車ともに、D51が後部補機として連結された場合には、逆向き後部補機となる場合もあり、また、長大編成の列車や荷重の重い貨物列車などの場合には、後部補機(D51)が背中合わせ([[炭水車|炭水車(テンダー)]]同士で連結される形)の[[重連]]となることも多かった。</ref>。 [[SLブーム]]の頃の[[1960年代]]中期から1970年までは、補機を連結して峠越えで奮闘するD51や[[国鉄C61形蒸気機関車|C61]]([[1968年]]10月のダイヤ改正(いわゆる“[[ヨン・サン・トオ]]”のダイヤ改正)前のころまでは、[[国鉄C60形蒸気機関車|C60]]も旅客列車の牽引に活躍。また、1960年代初期ころまでは、[[国鉄C57形蒸気機関車|C57]]や[[国鉄C55形蒸気機関車|C55]]、[[国鉄C51形蒸気機関車|C51]]なども旅客列車の牽引に活躍していた)をはじめとする蒸気機関車などの雄姿を撮影するために、全国各地から集まった[[鉄道ファン]]で賑わった。 なお、[[青森機関区]]配置のC60、またはC61が牽引を担当した旅客列車([[普通列車]])のうち、下りの朝一番の普通列車となる大館発・青森行きの623レ(※[[1965年]]10月のダイヤ改正以降の[[列車番号]]。同ダイヤ改正までの列車番号は613レ。始発駅である大館駅の発車時刻は午前5時台)のみは、(矢立峠越えの区間である[[陣場駅|陣場]] - 碇ケ関間をはさんだ大館 - 弘前間では)客車5両前後の編成で運転されていたため、単機牽引(補機なし)であった(※[[1967年]]10月のダイヤ改正時の[[日本国有鉄道|国鉄]][[秋田鉄道管理局]]発行の同鉄道管理局管内の奥羽本線の[[秋田駅|秋田]] - 青森間のダイヤ表などによる)。 新線切り替え直前の1970年9月21日には、[[日本放送協会|NHK]]テレビの紀行ドキュメンタリー番組『[[新日本紀行]]』において、'''「三重連の峠〜秋田・青森県境 矢立峠〜」'''のタイトルで、矢立峠越えのD51三重連がテーマとして取り上げられた<ref>この「三重連の峠〜秋田・青森県境 矢立峠〜」の回は、同年(1970年)8月下旬(8月23日と30日)に運転された、矢立峠越えの区間の新線への切り替え直前の旧線のお別れ記念のD51三重連(前部3両の三重連)の特別運転(碇ヶ関 - 大館間)の模様のドキュメンタリー(メインとなるのは、当時、青森機関区に配置されていた'''D51 1号機'''(現在、[[京都市]]の[[梅小路蒸気機関車館]]にて静態保存)を先頭とする三重連の映像など)として撮影・収録されたものである。なお、この「三重連の峠〜秋田・青森県境 矢立峠〜」の回は、[[1995年]]から[[1996年]]にかけて発売された『新日本紀行』の傑作選のビデオソフト全60巻の(第1期発売分の)第6巻としてリリースされたほか、のちにデジタル補正版が『[[NHKアーカイブス]]』枠でリバイバル放送されている。また、映像の一部(デジタル補正済み映像の一部)は、NHKの[[フィラー]]番組『昭和のSL映像館 新日本紀行編』に再収録されている。</ref><ref>矢立峠越えの区間の新線への切り替え後、奥羽本線の秋田 - 青森間の電化完成直前の1971年8月22日にも、秋田 - 青森間の電化完成と同区間での蒸気機関車の引退の記念として、D51の三重連(前部3両の三重連)の特別運転が、弘前 - 大館間で実施されている。また、1970年11月の新線への切り替えの前日には、矢立峠越えの旧線区間における蒸気機関車牽引の最後の旅客列車として、青森発・[[院内駅|院内]]行きの上り普通列車444レが、碇ヶ関 - 大館間を前部補機D51+本務機C61の重連で運転され、途中の津軽湯の沢駅ではお別れセレモニーが開催された。</ref>。 また、1960年代初期からは、[[秋田機関区]]に配置された[[国鉄DF50形ディーゼル機関車|DF50]]が、秋田 - 青森間の一部の旅客列車(急行列車などの[[優等列車]])や貨物列車の牽引機、ならびに、矢立峠越えの区間での補機として使用され(1970年秋までに全機が西日本各地の非電化地方幹線の機関区に転属)、その後、1960年代中期頃からは、秋田機関区や[[青森機関区]]に配置された[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51]]も、矢立峠越えの区間を含む秋田 - 青森間での一部の旅客列車(主に優等列車)の牽引機として使用された<ref>優等列車のうち、1968年10月のダイヤ改正(ヨン・サン・トオ)で新設された大阪 - 青森間(日本海縦貫線経由)の[[寝台特急]]「[[日本海 (列車)|日本海]]」については、運転開始当初は電源荷物車と[[食堂車]]を含めた客車([[国鉄20系客車|20系客車]])9両編成であったため、[[糸魚川駅|糸魚川]] - 秋田間(翌[[1969年]]10月のダイヤ改正で、[[北陸本線]]、ならびに、[[信越本線]]の“[[海線]]”区間の全線電化が完成してからは[[新津駅|新津]] - 秋田間=[[羽越本線]]の全区間。以上、[[東新潟機関区]]配置のDD51が牽引を担当)と同じように、矢立峠越えの区間をはさんだ秋田 - 青森間では、秋田機関区配置のDD51の単機牽引で運転されたが、翌1969年10月のダイヤ改正において、客車が増結され、電源荷物車と食堂車を含めて13両編成となったことから、同ダイヤ改正時からは、矢立峠越えの区間をはさんだ秋田 - 青森間では(秋田機関区配置の)DD51の[[重連]]で牽引されるようになった。</ref><ref>また、1970年7月に新設された[[上野駅|上野]] - 青森間の寝台特急「[[あけぼの (列車)|あけぼの]]」(運転開始当初は、上野 - 秋田間の[[臨時列車]]として運転)については、秋田 - 青森間では電源荷物車と食堂車を含めた基本編成のみ(20系客車編成)で運転されたため、秋田機関区配置のDD51の単機牽引で矢立峠を越えていた。ただし、「あけぼの」が上野 - 青森間の定期列車となったのは1970年10月のダイヤ改正時からであり、ダイヤ改正から約1か月後に矢立峠越えの区間が新線に切り替えられたため、「あけぼの」が旧線経由で矢立峠を越えていた期間は非常に短かった。</ref>。 なお、この矢立峠越えの区間が現在の新線に切り替えられた翌年の[[1971年]](昭和46年)8月25日に、奥羽本線の秋田 - 青森間は電化が完成している(正式な電化開業は同年10月のダイヤ改正時から)。ダイヤ改正時直前までの間に、矢立峠越えの区間を含めて、大館駅 - [[長峰駅]](青森県[[大鰐町]])間の区間は、複線化を完了している(最初に複線化された区間は、1968年9月に複線化された大館 - 白沢間)。C61やD51の活躍は、奥羽本線の秋田 - 青森間の電化開業にともなう1971年10月のダイヤ改正の前日(定期運用としては同ダイヤ改正直前の同年9月26日)まで続いたが、上述したように、前年(1970年)の11月5日に矢立峠越えの区間(陣場 - 碇ヶ関間)が新線に切り替えられて<ref>新線に切り替えられた当初は、全長3,180mの矢立トンネルがある陣場 - 津軽湯の沢間が複線で、津軽湯の沢 - 碇ヶ関間については単線(津軽湯の沢 - 碇ヶ関間は、旧線の線路の横に腹付けする形で、複線規格の新たな線路用地を造成した上で、緩やかな勾配の新線を設置。1971年10月のダイヤ改正・電化正式開業時直前までに複線化)であった。</ref>からは、C61牽引の旅客列車(普通列車)や[[荷物列車]](※大阪 - 青森間(日本海縦貫線経由)の1往復=下りは2047レ・上りは2048レ。のちに4047レ・4048レとなった)については、大部分の列車が、基本的に補機なしの単機牽引で運転されていた<ref>ただし、1971年3月のダイヤ改正当時のC61牽引の普通列車のうち、大館駅を17時台に発車していた、新津発・青森行きの下りの長距離普通列車833レのみは、矢立峠越えの区間が新線に切り替えられてからも、上り貨物列車の後部補機として大館駅まで運用されてきたD51(弘前機関区、または青森機関区の配置機)の配置機関区への回送のために、大館 - 弘前間では、時々、そのD51を回送後部補機として連結して運転していた。</ref>。一方、D51牽引の貨物列車などには、長い編成で荷重の重い列車を中心に、引き続き、D51の補機(主として後部補機)が連結されていた(編成の短い貨物列車については、D51の単機牽引・補機なしで運転されていた)。ただし、補機の連結区間は、完全に大館駅 - 弘前駅間の通し運用に変更された<ref>これは、移転して新駅となった陣場駅には補機の待機用の側線などがなく、碇ケ関駅と大鰐駅の補機の待機用の側線なども実質的に使用されなくなったためであり、また、大館駅と弘前駅の両駅には、矢立峠越えの区間での補機として運用されたD51が配置されていた機関区と転車台などがあったことから、大館 - 弘前間の通し運用に変更されたものである。</ref>。 日景温泉入り口付近、矢立温泉付近や道の駅やたて峠付近、相乗温泉付近などの国道7号沿いには、新線への切り替えにより放棄された旧線跡の遺構(旧赤湯沢川鉄橋をはじめとする橋梁の橋脚や橋台、レンガ積み・石積みのトンネルなど)が、現在でも点在している<ref>日景温泉入り口付近にあった旧第一下内川橋梁の遺構などは、2006年12月下旬に完成して供用を開始した国道7号のバイパスの建設によって解体・消滅している。</ref>。また、陣場駅の近くにも、国道7号と並行する形で旧第二下内川鉄橋の遺構が現存している。さらに、旧陣場駅跡には、峠越えをする蒸気機関車(本務機、補機とも)に補給する石炭を貯蔵していたコンクリート製の貯炭槽などの遺構が残っている。津軽湯の沢駅の近くには、国道7号を跨ぐ形で建設された旧線のコンクリート高架橋なども残っている(旧駅時代の津軽湯の沢駅付近の国道7号と交差する部分の旧線が一部分だけ高架橋化されたのは、1960年代前半から1965年頃にかけて、国道7号の改良工事が実施された時である)。
以上、転記部分。 --フォット(会話) 2014年4月4日 (金) 04:23 (UTC)