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ノート:石狩丸 (初代)

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H型船は外洋航海に備え、船首部フレアーを小さくして凌波性の向上を図ったが、その分車両甲板の船首部の幅が狭くなり、W型に比べ積載車両数が44両から42両に減りました。ここまでは確かな話です。 船尾扉の件については、青函連絡船栄光の航跡p63 JR北海道1988 に、“船尾は閉鎖できるようにし、(中略)青函への転用にあたり、船尾閉鎖装置を省いて(後略)”との記述がありますが、私としてはどうも信じられません。 その理由は、洞爺丸事件のときの国鉄は、船尾開口部から大量の海水が入ってくるなんて全く【想定外】と言っていたし、(設計図上の話ではありますが)船尾扉を省略しただけの船だったのなら、洞爺丸事件の後、沈没を免れた石狩丸や渡島丸では、すぐにでも大型の船尾扉を設置できたはず。 しかし、この2隻でも、沈没後引き揚げられ、船体の上半分を新造した十勝丸でも、結局終航まで船尾扉は装備されず(檜山丸タイプの放水口設置)。結局、1年後に新造された2隻では、檜山丸では当初予定の大型船尾扉は中止、空知丸では風雨密のふた、3年後の十和田丸でようやく単線幅の小型水密扉、4年後に、それもW型の第6青函丸でようやく大型船尾扉装備。  要するに、戦時中から昭和30年頃までの鉄道省、運輸通信省、運輸省、国鉄は、鉄道車両渡船の安全に寄与するような船尾扉のノウハウは持ち合わせていなかった。そのため大型の船尾扉完成までに4年もかかってしまったのではないでしょうか。 石狩丸に言及したあちこちのHPでも、H型は【船尾扉あり設計を青函転用時にやめた】という内容の記載が見受けられますが、出典は何なんでしょうか? なお上記の 青函連絡船栄光の航跡p63 JR北海道1988 には出典記載はありません。 この件についてご存知の方 いらっしゃいましたらご教示頂ければ幸いです。Akoihsin 2012年2月26日 (日) 14:48 (UTC)[返信]

鉄道技術発達史 第6篇(船舶)日本国有鉄道1958.3.のp25にありました。 【第二次大戦初期から博多釜山間の貨車航送が計画され、船内軌道を広軌とするか狭軌とするか種々議論されたが、結局狭軌として釜山で積替えすることとした。航送船としてはW型の船首をファインとして、船尾開口を閉鎖し得る装置を持ち、汽缶を6缶にするH型が計画された。H型は船尾閉鎖装置を省略して、そのまま青函に当てられた。】とのことで、「船尾閉鎖装置」と表現されていることから、青函連絡船栄光の航跡p63 JR北海道1988 の記載の出典はココの可能性が高いです。

第三青函丸以降W型H型の車両渡船は新造時、車両格納所は船尾だけでなく、両側面の高い位置にも通風採光用の大きな開口部がありますので、あのまま船尾だけ完全閉鎖できる蓋?を取り付けるのもアンバランスです。

これは、あくまで私の個人的見解ですが、せいぜい高さ3m位までの頑丈な防波板でも設置するつもりだったのでないかと。それなら当時でも装備できたかもしれません。ところが、洞爺丸事件や、その前年のイギリスのカーフェリー、プリンセスビクトリア号事件で、中途半端な船尾扉はかえって危険ということが分かり、中途半端な船尾扉(水密でない、強度が十和田丸より若干低い)は急遽建造した空知丸だけにして、放水口設置という極めてシンプルな対策方法も見つかったため、その後じっくりと完璧な船尾水密扉を作っていった。ということであれば、わからない話でもないように思われます。--Akoihsin会話2013年12月15日 (日) 13:52 (UTC)[返信]