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ノート:碑文谷

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本当なら、記事を書き換えてしまえば速いんでしょうが、いまいちその気力が起きないのでノートに書いておきます。

まず、「碑文谷」という記事名なのですから、その地名の由来や歴史に関する記述が欲しいところです。碑文谷の由来については諸説有るようです。歴史的観点から見ると、明治以降だけ見ても、碑文谷村、碑衾村大字碑文谷としての歴史を持つ地名ですから、かなりの内容が書けるでしょう。

また、地域のランドマークとしてダイエー碑文谷店だけが触れられているのはなんか変ですね。いくらでかくて知名度があるといっても、ただのスーパーマーケットですよ。少なくともカトリック碑文谷教会碑文谷八幡宮円融寺 (東京都目黒区)碑文谷公園あたりへの言及は無いとおかしい。あと、碑文谷警察署や碑文谷保険センターなどにも触れられるかもしれませんね。歴史と絡めて「東急碑文谷工場」に触れるのも、結構面白いかもしれませんよ。

あと、些細な、というよりどうでもよい点ですが、公共交通機関に関して、目黒駅方面へのバスの便が非常に良いというのは良いのですが、一方で最寄の鉄道駅へのアクセスは、特に1~4丁目に関しては、この記事の内容から受ける印象ほどには良くはないと思います。具体的には、現在碑文谷と呼ばれている地域内に鉄道駅は一つも無く、学芸大学駅、都立大学駅、西小山駅等地域内のほとんどの場所からは、徒歩で10分から20分程度かかる駅を利用することになります。まあ、これを「交通の便が悪い」というのはあたらないでしょうし、東京都区部の平均的な状況からすれば、むしろ「良い」部類に入るのかも知れませんが、学芸大学や都立大学の駅をして非常に発達した公共交通機関の例とされると違和感が残ります。というか5~6丁目及び4丁目の都立大学駅より限定のPOVではないかと。現在碑文谷という住所で呼ばれる地域も、そんなに狭いわけではないのですよ。一丁目の東よりからは西小山のほうが近かったりします。東横線の駅が目黒通りや環七の向こう側にあたる地域の住人にとっては、学芸大学や都立大学は実際の距離以上に遠く感じますしね。yhr 2007年6月8日 (金) 14:36 (UTC)[返信]

別に私がわかる範囲で書いただけで、それを書いていないのは単に私が知らないだけです。5歳のころまですんでいた土地ですから、それくらいしかしらないというだけです。加筆可能ならどんどん加筆してください。-- 2007年6月8日 (金) 14:41 (UTC)[返信]
えーと、上記の僕の発言は、最後の長い蛇足を除けば単に加筆の可能性を列挙したに過ぎないわけです。現時点では、加筆に必要な調査等を行う気力は無いので、単に思いつきをノートに列挙しておいたというわけです。僕の書いた取りとめもない情報が、記事を書く人の参考になればよいと思います。
ただ、現在の記事に対する不満はもっといろいろ有るわけで、例えば、今の記述には、住宅街なのか商業地区なのか、それとも工業や農業が盛んな地域なのかといった事さえかかれていません。大雑把に言えば目黒通り沿い、環七沿いを除けば純粋な住宅街といってよいと思いますが、分譲マンションと賃貸のアパートと一戸建ての比率なども資料にあたって書くべきでしょう。目黒通り沿いに関しては、自動車販売店が多いのが特徴的かなという気がしますが、あのクラスの幹線道路としては普通なのでしょうか?思いつくかぎりでもホンダ、日産、ヤナセ、プジョー、ボルボといった感じです。環七のほうにはスバルがあるくらいですから印象としては目黒通りのほうが格段に多い感じなのですけど。
地形的特長もかかれておらず、例えば立会川のことが一言も出てきません。環七は立会川と呑川の間の一番高いところを通っているので、碑文谷のなかで結構高低差があるのですね。
それから、すずめのお宿の竹林もこの地域に大変に特徴的なモノの一つかもしれません。荏原から碑文谷にかけての一帯は、かつて竹の子の一大産地として栄えていたわけで、すずめのお宿の竹林こそは、その当時の面影を現代に伝えるものなのですね。ところで、碑文谷が現在のように宅地化されたのはいつ頃からなのでしょうか。
最後に、前回書き漏らしたバス路線についての疑問を一つ。都立大学駅を基点とするバスについて言及されていますけど、碑文谷にとって特に重要といえるだけの根拠があるんでしょうか。都立大学駅を基点とする路線というと都立01系統の事かと思いますが、現在の住居表示で言う碑文谷の中を通ってるわけじゃないですし、あれが重要というなら渋71系統や反11系統も同様に重要で有る気がします。yhr 2007年6月9日 (土) 04:24 (UTC)[返信]