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ノート:社会構築主義

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節「日本社会と構築主義の弊害」について

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初版時点の 節「日本社会と構築主義の弊害」について、もし可能なら、出典をお願いできますか?Uryah 2007年2月28日 (水) 13:22 (UTC)[返信]

一週間、回答なしですので、削除します。Uryah 2007年3月7日 (水) 13:05 (UTC)[返信]

社会構築主義とサピア=ウォーフの仮説の関係

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2007年2月28日 (水)に、「社会構築主義」と「サピア=ウォーフの仮説」が関連付けられています。似ているような気もしますが、違うような気もします。詳しい方の検証可能性を満たした加筆をお待ちします。Uryah 2007年3月8日 (木) 15:23 (UTC)[返信]

Uryahさん、お久しぶりです。お世話になっております。私はとても詳しいと言えるような人間ではないのですが、リンクを追加したのは私ですので、自分にわかる範囲のことを書いておきます。まず基本的なこととして、これは関連項目への追加ですので別に両者は「同じ考え」である必要はないでしょうし、また実際にそうではありません。ただ社会学と文化人類学・言語学という分野の違い、そして細かい内容の異同はあれど、両者は大づかみな意味としては同じ方向性を持つ主張ですので、その意味で読む人の参考になるだろう、ということから関連項目に付加しました。ここでサピアとウォーフの仮説について少し引用しておくと
"Human beings do not live in the objective world alone, nor alone in the world of social activity as ordinarily understood, but are very much at the mercy of the particular language which has become the medium of expression for their society. It is quite an illusion to imagine that one adjusts to reality essentially without the use of language and that language is merely an incidental means of solving specific problems of communication or reflection. The fact of the matter is that the 'real world' is to a large extent unconsciously built upon the language habits of the group. No two languages are ever sufficiently similar to be considered as representing the same 'social reality'. The worlds in which different societies live are distinct worlds, not merely the same world with different labels attached... We see and hear and otherwise experience very largely as we do because the language habits of our community predispose certain choices of interpretation." サピア 1929年 'The Status of Linguistics as a Science' [1]より。強調はWas a beeによる。
『ウォーフはこの仮説(注:サピアの仮説のこと)を極端な形で主張した。つまり言語や言語におけるカテゴリーが思考や世界観を形作るというのである。われわれは言語が分類していないものは見ない、見えない、あるいはそれに注意を向けないというのだ。』ドナルド・ブラウン著 『ヒューマン・ユニバーサルズ』 ISBN 4788508125 P46より。注はWas a beeによる。
これだけでも正味 社会構築主義とそのまんまだとも思うのですが、違いを挙げると次のようなものでしょう。(以下私見)社会構築主義が社会現象に対する認識のあり方を、社会的・文化的な状態全般(この中に言語も含まれる)の動的なメカニズムの中に位置づけていくのに対し、サピアとウォーフの仮説は認識のあり方(この中にsocial realityも含まれる)と、言語の静的な状態との間の深い関連性を指摘しているに留まる。つまり社会構築主義の方がより広く包括的で、かつ動的な主張であるのに対し、ウォーフの仮説の方はより具体的で限定的・静的な主張だ、という所に両者の違いがあるでしょう。Was a bee 2007年3月8日 (木) 19:09 (UTC)[返信]
検索していたらSteve Eliason著 "Language and the Social Construction of Reality" という論文を発見しました。まさに「社会構築主義とサピア=ウォーフの仮説の関係」について論じている論文のようですので、ここに記しておきます。Was a bee 2007年3月8日 (木) 19:10 (UTC)[返信]
Was a beeさん、こんにちは、お久しぶりです。
「両者は大づかみな意味としては同じ方向性を持つ主張」かどうか、いまひとつ腑に落ちないので、詳しい方の検証と加筆を希望しました。プラス、検証可能性もお願いしました。
引用していただいた文で、「これだけでも正味 社会構築主義とそのまんま」とは、やはり腑に落ちませんでした。
私が参照したものは下記です。2番目に挙げたものが「社会構築主義についての批判」だとすると、“無名の個人”私がいま頭に思っている「サピア=ウォーフの仮説」と「社会構築主義」は、いまひとつしっくりこないのです。万人が書き合って作る“これで完成”は訪れない百科事典ですので、長い目で加筆を見守るとしましょう(私が書くときは、いちおう、お知らせしましょうか)。Was a beeさんが強く関連を主張しているので、急いで関連項目を削除したりはしません。Uryah 2007年3月9日 (金) 11:52 (UTC)[返信]
  1. 『文化人類学入門』 祖父江孝男 中公新書 ISBN 4-12-190560-1 P112 - 113
  2. 哲学を研究する大学教員の方の個人webページ
  3. Sapir?Whorf hypothesis
  4. Social constructionism
ありがとうございます。いったいUryahさんが何を理由に関連項目からはずそうとしているのか、その理由がわたしには良く分かりません。『いまひとつしっくりこない』という事ですが、何の関係もない概念のように思える、という事でしょうか?この二つの概念の共通点をくくりだせば「どちらも<言語>と<認識>の間の関係に触れていて、相対主義的である。」また「(戸田山が言うところの)独立性テーゼを否定している。」。こうした点から関連の深い概念だとして追加しているのですが、何がしっくりこないでしょうか。Uryahさんの引用してくれたサイトでも
>一言でいってしまうと「言語の外の現実はない」という発想を基本にしている
>文化によって虹の色の見え方が違ってくるという話なんかもあるけれどもね
といった記述が出てきます。(特に虹の見え方の話はウォーフの仮説につらなる研究で、ある言語の持つ色名の数によって、その言語の話者が連続的なグラデーションを切り分ける方法が変わってくるか否か、といった実験が多数なされています。)Uryahさんがいったい何をしっくりさせたいのか、そこを知りたく思います。Was a bee 2007年3月9日 (金) 16:21 (UTC)[返信]
どんぴしゃりの質問と情報をありがとうございます。
  • 私は、サピア=ウォーフの仮説は、言語の語彙によって、個人が持つ語彙によって、事実・社会をどう認識するかは異なる、違う見方で世界を観ている、という説だと理解しています。言語の語彙によって、個人が持つ語彙によって「歴史の見かた」(2)が異なる、「見方の対立がある」(2)という説だと思っています。必要なら、互いの語彙(認識)を摺り合わせる必要がある、という説だと理解しています。私の理解が間違っているのかもしれませんが、考え方として、たとえば、『日本語の文法を考える』 大野晋 岩波書店 ISBN 4004200539 P51 - 72 4 何をとらえて名づけるか をご参照。“「同じものをみている」ということ自体は疑っていない”(2)、持っている語彙によって“それぞれに見え方は違う”(2)というのが言語的相対論だと理解しています。
  • “「社会構築主義」のように言語内的にすべてが構築されるということになると、多様な歴史観が出てきたとき、どっちが正しいかということは結局言えないということになってしまいかねない。”(2)というのが社会構築主義なのなら、“「同じものをみている」ということ自体”を“疑”う(2)というのが社会構築主義なのなら、言葉による把握・理解より前には事実は存在しない、というようなことが社会構築主義なのなら、それはサピア=ウォーフの仮説とは違う概念のように感じるのです。
  • 2で虹の色の見え方の話が出てくるところは、文化(語彙)によって虹の色の捉え方・見え方は異なる場合があるけれども、“「同じものをみている」ということ自体は疑っていない”(2)、疑いようがないよね?という社会構築主義への批判、と読めるのです。
Uryah 2007年3月10日 (土) 08:46 (UTC)[返信]

関連する情報として出していただいたので、1つ質問させてください。独立性テーゼの関連項目に、「人間の認識活動のあり方に依存して世界のあり方が規定されている、という方向性の議論、すなわち独立性テーゼを否定する向きの議論がいくつか知られている。」として、サピア=ウォーフの仮説が挙げられていますが、戸田山和久が何かの本でどこかのwebでそう言っているのですか?知りたいので、教えてください。Uryah 2007年3月10日 (土) 23:40 (UTC)[返信]

独立性テーゼを否定するものとして、直接ウォーフの仮説を例示してはいません。流れ的にバークリーの観念論、そしてカント・ヒュームについて「因果とかは、認識主観の能力が構成して世界に押し付けたものだと考えていた」とざっと説明して、社会構成主義は「社会が変われば自然の区切り方も規則性も秩序も変わる」と考えるとし、さらに科学者を人類学の手法でフィールドワーク的に研究してしまったラトゥールたちの研究まで紹介されています。以上の流れ的に妥当な項目であると考え、私が追加しました。以上お返事です。
あと素朴な疑問として、Uryahさんはえらいウォーフの主張にこだわりがあるようですが、それはどういった趣旨のものでしょうか。こんな極端な相対論が正しいわけがない!というものでしょうか?そうであればその点はまさにその通りです。今はこうした極端な説は否定されています。言語によって違うことも確かにあるが、同時に様々な言語や文化の間で普遍的なものもある、というのが現在の一般的な考えです。以上、ちょっと気になったので。Was a bee 2007年3月11日 (日) 00:34 (UTC)[返信]
>妥当な項目であると考え、私が追加しました。
なるほどです。では、ここで意見交換がある旨向こうのノートに記しておきますね。
>Uryahさんはえらいウォーフの主張にこだわりがあるようですが、それはどういった趣旨のものでしょうか。
下記1を読んでいたら出てきて、関心が向きました。下記2を読んで、さらにもう少し、関心が向きました。事実を知りたい、百科事典をわくわくして読む、という感情です。
  1. 『文化人類学入門』 祖父江孝男 中公新書 ISBN 4-12-190560-1
  2. 『日本語の文法を考える』 大野晋 岩波書店 ISBN 4004200539
>こんな極端な相対論
>正しいわけがない!
いま私はそう思っていません。価値判断としては、ニュートラルです。
>今はこうした極端な説は否定されています
>というのが現在の一般的な考えです
どの学説の記事でも、もし本文に上記の文脈で書くのなら、出典をお願いしたい、と私は思います。
たとえば最近、こういうことがありました。サピア=ウォーフの仮説にこういう記述がされていて、記述した人に質問をしたら応答はないまま、直後に削除されました。そして書いた人は捨てハン、削除した人はその場にだけ現れるIPユーザだったので、ああこれは何かの学説について事実を知りたいという興味で関与しているのではなく、肯定したい・否定したいという欲求によって書かれているのかな、と思いました。世の中に在るどんなことに対しても、人々の間に肯定したい・否定したいという欲求はいつもあり、それ自体は健全なことだと私は思っていますが、賛否が分かれている場合は、百科事典の本文に記述する場合には、「誰がそう言っている」という事実として記述するべきだと思います。分かれていればいるほど。
Uryah 2007年3月11日 (日) 08:28 (UTC)[返信]
で、本題に戻りますと、何をしっくりさせたいのか、そこを知りたいという質問(2007年3月9日 (金) 16:21 (UTC))への答え(2007年3月10日 (土) 08:46 (UTC))に、「ちょっと待って、いま読み直すから」とも「いやそれは違う、これはこうでこれはこうで」ともないということは、「サピア=ウォーフの仮説は独立性テーゼを否定する説ではない(という理解が世の中には在るのだ)」と納得していただいた、と理解することにします。念のためあらためて言うと、
  • “要するにですね、何を言いたいかといいますと……言語を共有していない場合には確認するのにいささか困難はあるかもしれないが、「同じものをみている」ということ自体は疑っていないわけですよね。それぞれに見え方は違うとしても。たとえば文化によって虹の色の見え方が違ってくるという話なんかもあるけれどもね。”(2)という一文は、
  • “言語を共有していない場合には確認するのにいささか困難はあるかもしれないが、”“たとえば文化によって虹の色の見え方が違ってくるという話なんかもあるけれども”“それぞれに見え方は違うとしても”“「同じものをみている」ということ自体は疑っていないわけですよね”(2)として、“一言でいってしまうと「言語の外の現実はない」という発想を基本にしている”(2)社会構築主義 を批判している一文である、と読めるのです。
Uryah 2007年3月12日 (月) 11:31 (UTC)[返信]
返答遅れてしまい申し訳ありません。
>「ちょっと待って、いま読み直すから」とも「いやそれは違う、これはこうでこれはこうで」ともないということは、「サピア=ウォーフの仮説は独立性テーゼを否定する説ではない(という理解が世の中には在るのだ)」と納得していただいた、と理解することにします。
少々お待ちくださいね。そうです、その点へのお答えが抜けていました。何やら文章が修正途中の投稿のようで「どういう意味なのかな」と考えつつ、返答をしていませんでした。上でひいたサピアの文章の強調部の最後の部分を読んでいただきたのですが、
>The worlds in which different societies live are distinct worlds, not merely the same world with different labels attached...
これは訳すと次のような意味です。
>別の社会に住む人々は異なる世界を生きている。(これは)単に同じ世界に対して、(人々が)違ったラベルを貼り付けているということではなく
この最後の一文に示されているように、この仮説はかなり極端な内容です。【「同じものをみている」ということ自体は疑っていないが、単にラベルの貼り方だけは違う】、といった穏当なレベルの主張ではありません。とりあえずこの点についてはこれで。
次にこうした極端なウォーフの仮説が既に否定されたものだと考えられていることについてのソースですが、上にあげた文献『ヒューマン・ユニバーサル』でも細かく述べられていますし、次の文献の書かれている項にも記載があります。
  • 中島秀之ら編著『岩波講座 認知科学 8 思考』「第一章四節 思考に関連のある研究」「d 文化と言語」p39-44 岩波書店 1994年 ISBN 4-00-010618-x
この節の論証を簡単にまとめると、次のようなものです。
  • 言語による思考への影響自体は皆無ではないだろう。しかしウォーフの仮説が主張するような極端な影響というのは、様々な実験の結果から言って、存在するとは考えにくい。もしそうした影響があったとしても、それはウォーフが主張したようなレベルに比べると、ずっと小さい微妙なものである可能性が高い。
この内容は上記の「ヒューマン・ユニバーサルズ」でも同じです。すなわち、言語による影響はあったとしてもウォーフの仮説ほど極端なものはないだろう、というものです。以上、取り急ぎ。Was a bee 2007年3月13日 (火) 01:10 (UTC)[返信]
  • まず、2についてどう思われますか?2007年3月9日 (金) 16:21 (UTC) の読解はどう変わりましたか?教えてください。
  • 直前の文句は representing the same 'social reality' ですよね。ラベルの区切りが違う、ということですよね。その一文で「この最後の一文に示されているように、この仮説はかなり極端な内容です。【「同じものをみている」ということ自体は疑っていないが、単にラベルの貼り方だけは違う】、といった穏当なレベルの主張ではありません」とは私には読めません(「とりあえずこの点についてはこれで」としたいのかもしれませんが)。
  • 下記、少量で済むなら、「簡単にまとめ」ないで、言及部分を教えていただけませんか?
  • 中島秀之ら編著『岩波講座 認知科学 8 思考』「第一章四節 思考に関連のある研究」「d 文化と言語」p39-44 岩波書店 1994年 ISBN 4-00-010618-x
  • 下記、読んでみてください。
  • 『文化人類学入門』 祖父江孝男 中公新書 ISBN 4-12-190560-1 P112 - 113
  • 『日本語の文法を考える』 大野晋 岩波書店 ISBN 4004200539 P51 - 72 4 何をとらえて名づけるか
Uryah 2007年3月13日 (火) 14:58 (UTC)[返信]

(インデント戻します)横槍ですが、失礼します。興味深いやりとりではありますが、正直に申し上げて、そろそろ事典執筆のための議論という枠を超えているように感じます。収束の方向でご検討頂くか、あるいはウィキペディア外に場所を移して続けてはいかがでしょうか。本文にも新たな編集が入っております。ご一考頂けましたら幸いです。--Tmonzenet 2007年3月13日 (火) 15:30 (UTC)[返信]

なるほど。では次のようにここに表記しておく、ということでとりあえず打ち止めにするというのはどうでしょうか?(動議)
2007年3月に、次の文を読んで、下記の2つの理解があった。
  • The fact of the matter is that the 'real world' is to a large extent unconsciously built upon the language habits of the group. No two languages are ever sufficiently similar to be considered as representing the same 'social reality'. The worlds in which different societies live are distinct worlds, not merely the same world with different labels attached... We see and hear and otherwise experience very largely as we do because the language habits of our community predispose certain choices of interpretation
  1. 「同じものをみている」ということ自体は疑っていないが、単にラベルの貼り方だけは違う、といったレベルの主張ではなく、極端な内容の主張である。
  2. 言語(語彙)によって、物事を意識・表現するときのラベルの区切りが違う(虹の色の見え方が違う)、という主張である。
Uryah 2007年3月13日 (火) 15:37 (UTC)[返信]

そうですね。Tmonzenetさん、Uryahさんの動議に賛成です。とりあえず私が追加した関連項目のうち、直接的なソースがつかないものについては全て削除しました。またちゃんと勉強してから、時間のあるときにじっくり吟味したいと思います。Was a bee 2007年3月14日 (水) 02:43 (UTC)[返信]