ノート:神戸事件
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事件の伝承
[編集]神戸事件については、現在に至るまで、日本側、欧米側それぞれ、別途の歴史認識の系譜がある。【日本側】事件の前半、<西国街道沿いでの備前藩の隊列を横断しようとした欧米人を制止しようとして発生したトラブル>を神戸事件として捉え、続いて生起した後半の<居留地予定地の測量をしていた各国公使一行に対して、小銃の水平射撃を加えた出来事>を過小評価する傾向が、戦前・戦後を通じ日本側の神戸事件に対する歴史叙述に共通する。【欧米側】ミットフォードが一番強く強調しているが、現場にいなかった者が後から、滝善三郎に切腹を強いたのは過大な罰であったと言い出すのに対して強く反論している。実体験した者との間の意見の相違がある。こうした両者それぞれの神戸事件を捉える枠組みの変遷や差異についても、書き加えたほうがいい。--rshiba 2009年5月25日 (月) 04:36 (UTC)
事件発生地は兵庫港か神戸港か
[編集]- この事件の起こった時期は慶応年間の1868年。それまでは、建前的に外国諸国に対して兵庫港開港と公約しており、兵庫開港で通していた経緯がある。神戸港の名称になるのは、1892年の勅命以後。実際の地名の神戸村(当時)と兵庫津は離れた場所にある--Public 2009年5月25日 (月) 15:00 (UTC)
- publicさん。確かに、行政用語として「兵庫港」だったことを、国立公文書館デジタルアーカイブと、アジア歴史資料センターで確認しました。ただ、逆に言うと「兵庫津」の「兵庫港」ではなかったことを註記しないと、百科事典の項目としては不完全だということになりますね。--rshiba 2009年5月25日 (月) 16:22 (UTC)
- 神戸市自身の説明(兵庫港と神戸港)。"1868年1月1日(慶応[けいおう]3年12月7日)には、「兵庫港」という名前で開港し、近代的な港への第一歩をふみ出しました。そして、海外との貿易[ぼうえき]がはじまり、兵庫港は港の整びのため、運上所[うんじょうしょ](税関[ぜいかん])やそうこを建[た]てたり、波止場[はとば]の改修[かいしゅう]などを行いました。開港のときに、「兵庫の津」は、湊川[みなとがわ](兵庫区にある)より西を「兵庫港」、それより東を「神戸港」とよぶようにしました。しかし、この「兵庫港」、「神戸港」の2港時代は1892年(明治[めいじ]25年)までで、これより後は両方の港をいっしょにして「神戸港」とよぶようにしました。"[1] 今日昼間、もう少し調べてみます。--rshiba 2009年5月25日 (月) 22:29 (UTC)
- この件については、神戸港に手を加えましたので、そちらをご参照ください。--rshiba 2009年6月16日 (火) 11:02 (UTC)
2012年8月の編集
[編集]歴史的事実と無関係でかつ、出典が示されていない可能性や個人の憶測が見られましたので修正しておきました。復活させる場合は公刊された出典を明記してください。--Neoairwolf(会話) 2012年8月16日 (木) 08:18 (UTC)
- どうもありがとうございます。わたくしが手を加える以前から残っていた部分がほとんどです。その当時の編集をなさった方で出典を註記できる方は加筆をお願いします。--rshiba(会話) 2012年8月16日 (木) 08:26 (UTC)
- 履歴を拝見すると、私が書いた部分ですね。当時、たしか『歴史と旅』昭和63年4月号(「武士道残酷物語」と題する特集を扱った号)の志茂田景樹先生による記事などを参考にしたと記憶しております。ただ、何分7年前のことで現在同誌も手元にすぐ出せる位置に無く確認いたしかねますし(他にも幾つか参考にしたものがあったと思いますが定かでありません)、出典の書き忘れではやむを得ませんので異論はございません。まだ慣れない頃の編集とはいえ、お騒がせして申し訳ございません。--おきた(会話) 2012年8月16日 (木) 11:27 (UTC)