ノート:立たせる
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全般的にPOVで書かれており、個人的な見解以外の何物でもない。「立たせる」を近代、正確には20世紀後半以後の解釈でしか述べていない。歴史の記述が欠如している。世界中で広く存在した刑罰としての「晒し者」の観点が抜け落ちている。Revth 2005年1月11日 (火) 05:38 (UTC)
第一稿執筆者からの回答
[編集]「立たせる」項目の最初期バージョンの執筆者です。寄せられた批評や寄せられていない批評(2ちゃんねる教育板)を拝読しましたが、今のところ説得力がありません。批評は大別して次の2つに分類できるでしょう。
- 近代以前が考慮されていない
- 「個人的見解」「私的感情」に過ぎない
1については、近代以降の教育的場面に限定する旨最初に宣言していますから、無問題です。立たせることは近代的な<教室>の成立や全員一斉授業の成立と不即不離の関係にありますから、安易に近代以前の現象と同一視することには慎重になる必要があります。必要だと思う方は別の項目を立てるなり、同じページ内に別のパラグラフ(?)を設けてそこで解説する方が自然だと思います。また教育的場面に見られる営みについて解説しているのであって「刑罰」の説明をしているわけではありません。「晒し者」は「立たせる」と類似している側面も当然ありますが、異なる側面の方が多い。(文字通りの)「晒す」ことをしなくても「立たせる」ことは成立しますし、かつて行われた刑罰としての「晒し者」がすべて「立たせて」いたわけでもありますまい。また仮に立たせて行うという手続きが典型的なものだったとしても、わたしたちはそれを「立たせる」とは呼ばず「晒す」「晒し者」と呼ぶのではないでしょうか。「晒し者」に固有の文脈・使用法というのが直感されているからです。ただし類似点も当然あるわけですから、「晒し者」などの項目をどなたかが執筆してくだされば、そのこと自体は歓迎すべきことだと思われます。ぜひ参考にさせていただきたいと思います。
2について。私の記述の多くは事実命題の形式をとっていますので、「私的感情」云々は文字通りには誤りです。また私の記述が「感情的」だと思う方は、私が中立的に用いている概念(例:権力)にご自分の方が感情移入して読んでいるのではないでしょうか。まあ、しかしこういうことをおっしゃる方が言いたいのはそういうことではありますまい。私の記述は「こういう事実もある ゆえに…」というタイプのものが多い。ところがその基になる事実の選択が体系的に偏っている(視野狭窄・「党派的」である)、とこういうことが言いたいのだと思われます。しかしそれは逆なのです。立たせることが行われているとき、それを苦痛や損害と捉える人もいるしそうでない人もいる。立たせるときに反省や更正を意図して立たせる教員もいるしそうでない教員もいる。ならばそうでないケースにも該当する記述でなければならないのです。肝心なのは「苦痛・損害」と捉えられなくても、「更正・反省」を意図していなくても、この営みは成り立ってしまう、という厳然たる事実ではないでしょうか。それらは中核的な構成要素ではないのです。一般的な記述を目指した結果なのです。そこを勘違いしないでもらいたいです。また非表示措置が取られた部分も含めて、最終的には「立たせる」がどのようなカテゴリーの下位分類になり、どのようなカテゴリーの下位分類にはならないか、語の分類という辞書編纂的な関心に的は絞られています。完結していないため(にもかかわらず非表示措置が取られたためよけいに)執筆意図が通じにくいかもしれませんが、そういうことです。
なお、一部でこの項目の記述を「体罰」項目ページに移管するという案も出ているようですが、その意見には私はまったく賛成できません。なぜなら「体罰」でなくても成立するのが「立たせる」という営みだからです(そしてほとんどのケースは実際にそうです)。また一定数以上の教員がむしろ体罰を回避するために立たせることを行っている・来た、という明らかな事実にも抵触します。それはあまりにも明らかに間違っているのでぜひやめていただきたい。61.192.164.39 2005年1月12日 (水) 11:42 (UTC)近代教育研究会
- ウィキマークアップに変更しました。なお、署名(チルダ4つ、~~~~)をお願いします。しるふぃ(おはなし)2005年1月12日 (水) 11:26 (UTC)
第一執筆者からの補足
[編集]なお「批評」には説得力がない、と申しましたが、直接には批評していないこのコメントのラストの一文は、私とまったく同見解であると思います(おそらく)。61.192.164.39 2005年1月12日 (水) 11:42 (UTC)近代教育研究会
- 2チャンネルの先生・教育板のwikipediaスレで当該メッセージの投稿を行った者です。「立たせる」の体罰的な側面とそれ以外の側面、教育的な利点と欠点等々については、興味深い話題と考えます。ただ、私的な感想を申し上げますと、現状が執筆途中であるためか、記事中の文意が適切に閲覧者に伝わりにくい面も有していると思われます。今後も文章の推敲などをしていただいて、多くの人に理解しやすい記事になっていくことを私としては希望しております。
- なお、ウィペディアでは、個々の記事についても多くの執筆者の共同執筆を経ることで、より多様な視点と内容を記事に織り込むことが指向されています。したがいまして、加筆・追記についても多くの人に門戸を開くという意味で、各節(記事内のセクション)の名称などについても端的かつ事実の摘示であるような命名をしていただけると助かります。このような節名になっていますと、各節に多様な視点を織り込むことも可能になります。
- いろいろ申し上げましたが、基本的に私は、この項目が、百科事典にふさわしい記事として育っていくことを期待しております。失礼となることを申し上げてしまったかもしれませんが、ご容赦ください。なお、私の書いたことについて疑問点がある場合は、質問等をいただければお答え申し上げたく考えておりますので、もしありましたらどうぞお願いします。--YuTanaka 2005年1月12日 (水) 12:05 (UTC)
- 同じく2チャンネルの先生・教育板でいくつか意見を挙げた者です。執筆のスタンス、理解いたしました(理解したつもりです)。いくつか適切でない批評をした点、失礼いたしました。
- その上で、改めて意見を挙げたいと思います。
- 執筆途中ということですが、コメントアウト部を解除したとしても、やはり読み手に文意が伝わりにくいように感じます。
- 改めて現在コメントアウトされている部分を読み直しましたが、「高度な次元で服従している学習者、それに対して、見せしめとして立たせ、権力を見せ付けようとしている教員」もっと端的に「従順な学習者とサディスティックな教員」のようにも読み取れます。しかし、おそらくそのような執筆方針ではないのだと理解します。ただ、読者がそのように解釈してしまう可能性があること、また、ゆえに「恣意的」だという読み取られ方になってしまうところもあります。
- それから、節の見出しについてですが、節における視点が明確となるような見出しにしていただければ、閲覧の上でも、記事の理解への一助となります。
- YuTanakaさんも同様のことを書かれていますが、文章の推敲や節の名前を変えるなど、多くの人が理解しやすい記事にしていただきたく思います。表現方法や体裁などについては、他の記事やWikipedia:編集の仕方なども参考にしていただければと思います。
- 一時は「体罰」への移動も考えましたが、「執筆方針に反する」とのご意見ですし、また私も現在はそのように思います。この項目が百科事典としてよりよい記事になるよう願っております。--Num 2005年1月12日 (水) 15:58 (UTC)