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ノート:竹鶴政孝

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新川の水で割ったウイスキー

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新川の水で最初に割ったウイスキーの名がブラックニッカになっていますが、ニッカのサイト[1]によればスーパーニッカになっています。もし、根拠がありましたら提示ください。ない場合はこれに準じて直します。Modeha 2005年9月17日 (土) 10:51 (UTC)[返信]

ブラックニッカ説がどこから出てきたのかと思いましたが、こんなのがありました。[2]。言及者の工藤光家は宮城峡蒸留所建設委員で元社員で、実際に現地を案内した本人だそうです。

ただ、この日経のサイトでは竹鶴政孝と工藤の2人しかいなかったように書いてますが、[3]こちらの竹鶴威の記述では、どうも現地に竹鶴威も居合わせたようにも読めます。Modeha 2005年10月4日 (火) 14:42 (UTC)[返信]

上記の指摘の後、ニッカウヰスキーのサイト上で掲載されていた「凛として」第8回にあった、水割りに使ったウイスキーの銘柄が「スーパーニッカ」であったとする部分の記述[4](既にリンク切れ)が「ブラックニッカ」に変更されました[5]。変更されたのは2007年8月17日から2007年9月28日までの間のいずれかの日です。webアーカイブで確認が可能です。Modeha 2009年5月24日 (日) 05:57 (UTC)[返信]

ヒュームの来日と日程

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イギリスのヒューム副首相という言及に疑問符がついていたのでもう一度文献をあたりました。「ウイスキーと私」竹鶴政孝には、確かに昭和37年、イギリスのヒューム副首相が来日という言及があります。ただ、ヒュームが副首相であった時期はなく、来日したのは翌年の1963年、当時の肩書は副首相ではなく外務大臣でした。「ヒゲのウヰスキー誕生す」でも1962年ヒューム副首相という書き方なので、おそらく竹鶴本人の記憶違いがそのままになっているのかと思います。1960年代の一時資料があればそれをあたったほうがはっきり分かるかと思います。Modeha会話2013年1月14日 (月) 14:30 (UTC)[返信]

図書館にある読売新聞データーベース「ヨミダス」でヒューム外相が来日した1963年3月から4月の記事を「ヒューム」で検索したのですが、該当する記事はなく、同じ月の朝日新聞縮刷版で「ヒューム外相来日」関連の記事を見てもやはり出てきません。「ヨミダス」で「昭和戦後」の時期を対象に「竹鶴」で検索してもそれを記した記事はない状況です。池田首相は1962年11月に訪欧してヒュームとも会談しているので、その時期の「ヨミダス」も念のため見てみましたが、ありませんでした。他の新聞を見てみないと何とも言えませんが、少なくとも一般紙でソースを得るのは残念ながらかなり厳しそうです。--Unamu会話2013年5月2日 (木) 10:06 (UTC)[返信]
『外交青書』1963年の該当箇所に、1963年1963年3月28日より4月5日まで、ヒューム「外務大臣」来日の記載があります(「ヒューム英外相の訪日」)。日本滞在中、3月29日には国会を訪問し参議院本会議に臨席したことが、「国会会議録の該当箇所」にも記録されています。その際の肩書も「外務大臣」になっています。--Waitan会話2014年10月5日 (日) 03:10 (UTC)[返信]