ノート:笑わぬ二十日鼠
この記事は2007年9月20日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、削除となりました。 |
問題提起
[編集]確たる出典を示さずに「~として有名である」などと述べるのは無責任な態度であり、Wikipedia:検証可能性の観点から言って問題があります。「印象を与える」「全く感じさせることはない」「古典的な印象を与え聴きやすい」などの記述も所詮個人の感想に過ぎません。Wikipediaは感想文を書き連ねる場ではありませんので、この記事をもし残すとすれば全面的な改稿が必要ではないでしょうか。--Number 2007年9月20日 (木) 13:15 (UTC)
題名をめぐって
[編集]追記ですが、「笑わぬ二十日鼠」という作品名自体、この日本語で本当に定着しているのでしょうか。まだ定訳のない作品名の邦題を勝手にでっち上げて記事名にするのはWikipedia:記事名の付け方の「小説・詩・映画・舞台・音楽・絵画など芸術作品のタイトル」の項に違反しています。「邦題がまだつけられておらず原題しか無い場合(この場合、後に邦題が付けられたらそれに移行する)、および邦題もまた外来語である場合には#日本語を使うことにならい、発音をカナで表記して記事名とする」という方針が明記されていますね。なおGoogleでの"笑わぬ二十日鼠"の検索結果はただの1件であり、しかもそれはWikipedia:削除依頼/Category:ドナトーニの楽曲での利用者:Ump(会話 / 投稿記録 / 記録)さんの発言に過ぎませんでした。--Number 2007年9月20日 (木) 13:44 (UTC)
グーグルを判断基準にしないこと。だからといって「笑わないハツカネズミ」や原語表記の仮名にするのは、単純な個人攻撃の域を出ません。ドナトーニの作曲技法については桐朋学園で行われた本人の講義とレッスンを参考にしています。--AMP 2007年9月20日 (木) 14:03 (UTC)
Google以外の検索エンジンで調べても"笑わぬ二十日鼠"という邦題が定着していないことには変わりがありません。なおYahooではヒット件数ゼロでした。「微笑みなき鼠」と訳している人もいますが([1])、この訳も定着していない点では同じです。「単純な個人攻撃の域を出ません」という発言はどういう意味でしょうか。もし仮に「俺がせっかく作り上げた訳語を採用しないのは怪しからん」という意味で言っているのなら低次元の一言に尽きますね。なお「桐朋学園で行われた本人の講義とレッスンを参考に」なさったとのことですが、Wikipedia:独自研究は載せないの「一次資料を直接ウィキペディアで公表すること、たとえば投稿者自身の体験の記述や、投稿者が行ったアンケートやインタビューなどを掲載する事は独自研究にあたり許されません」というくだりを参照していただきたく存じます。要するに「俺が会ったとき、あの先生はこう言ってたよ」というのは一次資料であり、検証可能性を満たす情報源とは認められないのです。--Number 2007年9月20日 (木) 4:28 (UTC)
となると、あなたの「所詮個人の感想に過ぎない」という文章も「検証可能性を満たす情報源」とは言えませんね。この曲はドナトーニ後期の傑作中の傑作として語られる作品の一つですが、こういう美辞麗句だけはやめています。しかしながらスロニムスキー・エンサイクロペディアには「傑出した」という用語が頻繁に使われていますが、こういう使い方をした本は百科事典とは認められないのですね?ウィキペディアがどれだけ偉いのか知りませんが、改稿できる人間もいないのに無駄なあがきはやめましょう。投稿者自身の記述ではなく、サンドロ・ゴルリら直弟子の供述(もっと調べれば彼らがドナトーニについて述べた文章などすぐ見つかる)なのですが?--Senff 2007年9月20日 (木) 15:10 (UTC)
- "La souris sans sourire" というのは、「微笑みのないネズミ」にすぎないのであって、そのネズミは微笑を浮かべないかもしれないが、だからといって「笑わない」とまで訳出してしまうのは、やりすぎなのではありませんか?--間久部緑郎 2007年9月20日 (木) 16:24 (UTC)
- この題の由来を知らないからそんなことがいえるのですよ。童話ですよこれ。--Senff 2007年9月20日 (木) 16:35 (UTC)
- 「マザーグース」的な語感から、たぶんそんなところが由来だろうと見当はついておりました。しかし由来はどうあれ、「駄洒落を直訳して、意味が取れたとするのはかえってナンセンスなのではないか」という下記の指摘は変わりません。--間久部緑郎 2007年9月20日 (木) 17:53 (UTC)
- この題の由来を知らないからそんなことがいえるのですよ。童話ですよこれ。--Senff 2007年9月20日 (木) 16:35 (UTC)
- さて、一方でこのフランス語の題名(ラ・スーリー・サン・スーリール)は、「蒲団が吹っ飛んだ」式の駄洒落であって、だとするならば、ことさら訳するのは野暮と申しましょうか、かえってナンセンスなのではないでしょうか?--間久部緑郎 2007年9月20日 (木) 16:24 (UTC)
- そういって、項目を移動してポイントを稼ぐのがあなたの仕事なのでしょうね。--Senff 2007年9月20日 (木) 16:35 (UTC)
- 「仕事」とは、何を言っているのか理解できません。--間久部緑郎 2007年9月20日 (木) 17:53 (UTC)
- そういって、項目を移動してポイントを稼ぐのがあなたの仕事なのでしょうね。--Senff 2007年9月20日 (木) 16:35 (UTC)
- 「所詮個人の感想に過ぎない」というNumberさんの文章は、指摘なのであって、どう読めば「情報源」になるのか理解に苦しみます。利用者:Noda,Kentaro(会話 / 投稿記録 / 記録)の正気を疑います。--間久部緑郎 2007年9月20日 (木) 16:24 (UTC)
- 成りすまし連係プレイは見ていて腹が痛いのですが。--Senff 2007年9月20日 (木) 16:35 (UTC)
出典と文献について
[編集]Wikipedia:検証可能性の「出典を示す責任は掲載を希望する側に」を確認すると良いでしょう。個人の感想を記事中に書き連ねたいならば、その感想の普遍性を立証する責任があるのはあなたであって私ではありません。なお出典の示し方についてですが、ページ数を明記した上で「スロニムスキー・エンサイクロペディアでは『傑出した作品』と評されている」「ゴルリは『×××』の第何巻何ページでこのように発言した」と述べるのであればどこからもクレームはつきません。しかしあなたの流儀はそうではないようですね。あなたは参考文献としてDonatoni a cura di Enzo Restagno (Edition EDT, 1990)やFranco Donatoni (Edizioni Suvini Zerboni, 1982)を挙げている以上これらの書物を通読したものと思われますが(まさかit:Franco Donatoniから適当にコピーして貼りつけただけではないですよね)それではこれらの書物の何ページにあなたの記述を裏付ける文章が載っているのか教えていただきましょう。--Number 2007年9月20日 (木) 15:36 (UTC)
数列云々は後期ドナトーニについて書かれた文章なら「全て」の文献に見られます。著名な音楽事典なら載ってます。「出典を示す責任は掲載を希望する側に」というのなら、「タグを貼る責任は項目について何の知識も有さない側でも一切問われる事はない」のですか?それは単なる記事破壊です。全面的に改稿が必要と言うのなら、改稿できる執筆者を連れてくる可能性があるかないかも、よく考えていただくように。可能性があることを望みます。--Senff 2007年9月20日 (木) 15:47 (UTC)
- では、その「全ての文献」と「著名な音楽事典」とやらを提示していただきましょう。そう言えば利用者:Noda,Kentaro(会話 / 投稿記録 / 記録)は、Occhanikov氏などがMGGやニューグローヴ音楽大事典に依拠していることにも何かのサイトで言いがかりをつけて「これらの音楽事典にも間違いはある(だから音楽事典は資料としては当てにならない)」といった主張をしていましたが[3]、そんな貴方が「著名な音楽事典なら載ってます」と言い出すとは、まさに矛盾であって、笑止千万ですね。--間久部緑郎 2007年9月20日 (木) 16:24 (UTC)
「印象を与える」「全く感じさせることはない」「古典的な印象を与え聴きやすい」などの記述の具体的出典をお願いします。それが「すぐ見つかる」と言いながら一つも出て来ないのはなぜですか。これは知識の有無の問題ではなく、Wikipediaを個人的感想や独自研究の発表媒体と捉えるか否かの問題です。なお要出典タグは記事を改善するために貼るものであって破壊するために貼るものではありません。それを「記事破壊」だの「個人攻撃」だのと曲解するのは、とりもなおさずあなたがご自分の個人的自尊心を百科事典プロジェクトよりも上に置いているからではないでしょうか。誤解がないように申し上げておきますが、私は「個人的感想の類は書くな」と言っているのではないのです。そういうことはご自分のブログなりホームページなり他所でおやり下さいと申し上げているのですが、ご理解いただけませんか。--Number 2007年9月20日 (木) 16:19 (UTC)
いや、ですから「あなたの主張」に出典が見つからないのですよ?「改稿が必要だ」といいながら、改稿できない点。「邦題が定着していない」といって、原語表記で無理やり書きたがる点。この行為に踏み切る「出典」はどこですか?ドナトーニ後期について書かれたこの項目全体を「否定する」出典があれば、それでいいんじゃないでしょうか?また間久部緑郎君が登場したようですが、彼はこの作品を聞いているのでしょうかね?--Senff 2007年9月20日 (木) 16:35 (UTC)
- 第三者に改稿ができないのは、野田憲太郎先生の記事がそれだけ完璧だからというわけではなく、単にこの作品がまだ世間一般に広く認知された作品ではないから、というだけのことでしょう。--間久部緑郎 2007年9月20日 (木) 17:54 (UTC)
提案
[編集]- (削除)ウィキペディア日本語版について侮辱を繰り返す人間が、自己顕示欲に駆られて初版を投稿した記事。不要。--間久部緑郎 2007年9月20日 (木) 17:55 (UTC)
- (コメント)[4]こんなの見つけちゃったんですけど、これほどいい加減な項目こそ削除してほしいですね。なにが翻訳中ですか。--Norton crit 2007年9月21日 (金) 09:51 (UTC)
- ならば改訳してはいかがですか?あなたは他人の訳にケチをつけてばかりいますが、自分がきちんと他国語版から訳したことはないですね。できないのでしょう?--間久部緑郎 2007年9月27日 (木) 14:50 (UTC)
- この人が訳せなかった本当の理由。ラッヘンマンやミュライユの該当曲を聴いたことがないので、うっかりミスを防ぐために翻訳せずそのままになりました。図星だろう?--Nice Boat ! 2007年9月27日 (木) 21:16 (UTC)
- Nice Boatさん貴方がここでしている事は議論じゃなく中傷ですね?違いますか野田さん?--Emil Sinclair 2007年9月28日 (金) 04:40 (UTC)
- Nice Boatではありません。Nice Boat !です。--Nice Boat ! 2007年10月1日 (月) 20:02 (UTC)