ノート:笠懸

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笠懸項について[編集]

小笠懸の的の寸法に要出典を着けさせていただいたのは、古事類苑で様々な故実書の記述を調べてみても四寸としか書いてなかったからです。御編集後に拝見しましたが、甲州和式馬術探求会の資料でも四寸となっていますが五寸との記述はどちらでしょうか? 小笠原流HPの五寸との記述ですが、小笠原流の故実書でも四寸となっていたのでちょっと不思議です。香取神宮のページは調査不足で知りませんでしたが、八寸は誤植でなく実際その寸法に見えますね。ただ奥の遠笠懸の的は一尺八寸には見えないので、古式の笠懸とは寸法を変えて行っているのでしょうか?(もしかすると吉宗復興時に寸法が変ったのかなぁ…) いずれにしろ(管見では)古い故実書は四寸としているので、「本来は四寸が規定だが、現在ではそれ以外の寸法の的が使用される場合もある。」といった記述にするのはどうでしょうか。

--MizunoH 2007年7月28日 (土) 16:46 (UTC)[返信]

甲州和式馬術探求会の「五寸」ですが、私の取り違いでした、申し訳ございません。

武田流弓場道にあるように『五寸の串に的を挟み〜』という記述もあるのでひょっとしたら誤記かな?と思っていたのですが、小笠原流(と他でも見た記憶が…)のHPにありましたので書いておきました。小笠懸の的として一番多く見られるのが、やはり四寸四方ですが、先述の武田流HPには『直径12センチの小的を射るのを小笠懸と呼んでいます。』ともあり、四寸の円形的のようです。遠笠懸の的もやはり色々と見つかり、かさがけ蘭には綿でなく藁・毛をアンコにしているというようなものも見られます。緩衝剤になればなんでも良いのでしょうか、どうやら矢が中るとそこが凹んで矢所が解るという造りのようです。遠笠懸の的までの矢道も色々と取り決めがあるようです モンゴリアン‾。一貫流の「常射之巻 鵠之部」では遠笠懸の的は円物の起こりであると言っています。

>ただ奥の遠笠懸の的は一尺八寸には見えないので、古式の笠懸とは寸法を変えて行っているのでしょうか?

さらに的表面は真っ平ら、距離は埒際から精々5〜6mくらいでしょうか。道寸祭りでは(スペース事情からか)馬場にコーナーが設けられており、右写真の射手脇には小笠懸の的と思しき板(八寸?)が両側に立ててあります。荒井浜海岸での遠笠懸?の霞的もどきはどう見ても直径1mはありそうです。

故実を紐解いて「正式」を言えば矢道の造りや的を吊るす紐縄の色まで色々出て来ますが、思うに作法の手軽さから、笠懸は半ば土着文化として地方で独自の発展をしたという側面もあるのではなかろうか、と編集時に調べていて思いました(落ち武者なんかが遊びでやりそうですし或は騎射で遊んでたら次第に笠懸“みたいに”なっていったとか)。吉宗以降に改変された可能性もありますし、正直故実・武田・小笠原でここまで差があっては何を正式として良いやら。「鬮的文書」にも何やら記されているようですが、詳細は解りません。今の所は「*〜項は流派や地域により多少の差異が見られるため、参考程度として〜」と書いてありますが、馬場、的の多彩さを説明するのに「故実では○○を定寸としていたが(○○の事情により)現在ではそれ以外の寸法が使用・伝承されるている場合もある。」とするのが今の所考えられる限界です。

--福太郎 2007年7月28日 (土) 22:55 (UTC)[返信]

色々と情報ありがとうございます。調査不足の部分があったので勉強になりました。さて、

武田流HPには『直径12センチの小的を射るのを小笠懸と呼んでいます。』ともあり、四寸の円形的のようです。 直径というのは武田流の勘違いか誤記だと思います。実際道寸祭りの的は方形でした。本朝軍器考に「小笠懸の的は其形方也、方なる径四寸…」とあり、こういった表記で径四寸を直径と誤解したのではないでしょうか。(直前の記述でも的までの距離は109mと、馬場の長さと勘違いするなど、信憑性に難があります…。)騎射の的は方形、歩射は円形というのが故実とのことなので(出典失念)それに照らしてもおかしいかと(遠笠懸の円形的は例外ですが笠を模したためでしょう)。小笠原流HPの五寸説ですが、(実際に五寸を使っているからあのような記述にしたのかもしれませんが…)おちついて現代弓道講座三巻の斎藤直芳の小笠懸についての記述を調べ直したところ、四寸とあるので吉宗復興時変更説はないですね。小笠原流HPは小笠原流(関係者による)書籍との齟齬もいくつか見られるので、私としては書籍を信じています。

的までの距離も色々資料がありますね。どう情報を提示するか悩ましい所ですが、いずれにしろ情報の検討と出典を明示していく方向を取れば良いでしょうか。遠笠懸の的は円物の起こりであるというのは私もいくつもの資料で見たことがあるので確実でしょう。小笠原流HPには「円物は本来騎射の式で、笠懸と同じように行われたものでした。」とありますね。

荒井浜海岸での笠懸風景のページ拝見しました。ちょっとびっくりしたのですが、今年の道寸祭りでは遠笠懸の的は流鏑馬と同様の方形板的を使っていました。武田流としては試行錯誤中なのかな?それとも見栄えと音優先なのでしょうか(割れた板的を記念品として販売しているのを見ると勘ぐってしまいますが…)。小笠懸の的はどう見ても四寸より大きかったです。

諸説ある情報をどう記述するかにはついては同感です。

ところで「礼射」の正確な定義はなんぞやと思っています。射礼の言い間違えの例も多いのでよくわからなくなり教本を読み直したのですが、一巻には(見落として無ければ)見当たりません。三巻の富田範士が使っていましたが、全弓連としてはどのような定義なのでしょうか。ご存じでしたらご教示頂ければと思います。本多利実の文章が最も納得のいく説明でしたが、いつ頃から使われている語かは不明です。数多くの国語事典にあたりましたが、礼射は見当たりませんでした。--MizunoH 2007年7月29日 (日) 15:10 (UTC)[返信]

どうも笠懸は方々で作法にルーズな感がありますね。故実を正確に乗っ取った笠懸を見つけられなかったので、むしろそれこそが客観的に実情を観察した上での笠懸の特徴、と見る事も出来るかもしれません。的板販売諸々の取捨選択は考えなければならないですが。考えてみれば武田HP、ひょっとしたら小笠原HPも内容はWeb制作業者の手によるものでしょうから誤記はあって当然と言えば当然かもしれません。
馬場や矢道、的の多様さは、単にバリエーションの列記と出典の列記では内容が煩雑になって読み難くなってしまうので、代表的な文献・出典の欄を作ってそれぞれで馬場・矢道を説明、最終的に「従って多様である、一様ではない」という結論に着地出来るような組み立て方が必要かと思います。
歩射の『円物』起源については笠懸に記載して良いかもしれません。初期の初期はただ矢所を知る為の初心者用だったようで、騎射式でもなんでもなかったようです。的は直径八寸、笠懸用も同じか不明ですが、小笠原・武田で造りは変わらず。後に射礼として成立するも故実は失われたとか。これも一貫流常射之巻 鵠之部からですが、内容的には武用弁略などを全否定し、小笠原は正当であるかのようなニュアンスが微かに読み取れます。由緒正しくなくても骨太の歴史を持つ笠懸を説明する上で有効ではと考えますが、例えば「元来は矢所(的中位置)を知る為の稽古道具の1つであったが、後に歩射に転用され『円物式』に、笠懸では遠笠懸で用いられるようになった」と、こんな感じはどうでしょうか。
「礼射」の定義ーすみません、先の投稿で特に考えなく礼射と書いてしまいました。「射礼」と「礼射」、「会議」と「議会」みたいなものでしょうか。或は「自動車」と「乗用車」、「どうぶつ」と「いきもの」。賭弓や巻藁射礼など具体的な式を通称して射礼、それらをカテゴライズする語が礼射と何となく理解しています。
  • 一貫流勧善之巻『(割り膝は)當世禮射ナトノ時、或的或巻藁ナト射時ナス事ナリ』
    • 『(尻を立てない割り膝)ハ躰ヨク居モノナレトモ當時禮射等ニ用サル風俗ナリ』
  • 弓之部『故實ハトモアレ其時變ニ應シテ禮射ニハ兔角其禮義ヲ失フヘカラス』
  • 的場之部『今當ハ巻藁前ト名付ケ其射禮アリテ古昔ヨリ行レタル禮射ノヤウニ心得タル者モ少カラスト雖皆近キ世ノ好事ノ弓家物流ノ所爲ニテ故實ナト伝事ハアルヘカラス』
  • 伊東靜雄拾遺詩篇『そこの弓場に、ひとりの少年が、額を青白ませて最後の禮射をしてゐた[1]
とあります。「禮射」と旧字で検索かけると結構出てきますよ。「射禮」「賭弓」は新年を現す季語のようです。そもそも全弓連は古来の「射礼」は「認めるから頑張って保存して」という立場ではないでしょうか。あまり解答にはなっていないですが、知る限りはこんな所です。--福太郎 2007年7月30日 (月) 15:35 (UTC)[返信]
色々とありがとうございます。>代表的な文献・出典の欄を作ってそれぞれで馬場・矢道を説明、最終的に「従って多様である、一様ではない」という結論に着地~  そうですね基本的に賛成です。ちょっと色々情報があって混乱しておりましたが、情報の重みも含めて記述しないと単なる引用集となって訳がわからなくなってしまいますからね。
円物については今手元に資料がないので確かなことは言えないのですが、一貫流の資料(ですよね?)だけでは心許ない気がします(あまり大きな流派ではないですし…)。メジャーな情報源で確認できないことは出典とともに脚注か、本文で異説として補説すればいいかなとは思います

--MizunoH 2007年8月1日 (水) 17:26 (UTC)[返信]

>一貫流の資料だけでは心許ない気がします

はい、一貫流の書物自体は当然と言えば当然ですが一貫流視点で物を見ていますし、古代の事情は様々な文献からの推測で述べている箇所もあります。ただし『円物は初心者用』説は「射鏡」なる書物から引用を引いています。総じて一貫流書はややナショナリズム色強く反面出典に頼り過ぎな点もあるが一応マジメに研究されている、という印象です(個人的には)。情報源としては確かに心許ないですが、高忠聞書(の解読本)、出来れば法量物(小笠原持長著)があればもう少し詳しく解るかもしれませんが、書店にはないでしょうね、、。「禮射」と「射禮」自体の違いは見る限り言及してはいませんが(多分他の書で言及していると思います)、他の名称の違いや起源にはかなり神経質に解説しています。一貫流は武射中の武歩であり所謂小笠原・武田の「礼射」からは一歩引いた立場にある、という所でしょうか。

--福太郎 2007年8月3日 (金) 10:23 (UTC)[返信]