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ノート:細川政元/過去ログ1

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山名煕貴の女は細川勝元の正室だが、政元の母ではない。 尊卑分脈、寛政重修諸家譜、系図簒要いずれも政元の母は記載されていない。以上の署名の無いコメントは、218.225.106.238(会話履歴)氏によるものです。-- トホホ川 2006年7月2日 (日) 00:15 (UTC)

どちらかというと勝元に側室がいたかどうかが明らかでない事からの推測では?--220.211.248.101 2005年10月18日 (火) 06:28 (UTC)

もし政元の母が山名氏であったなら、それほど重要な情報を上記の主要諸系図が記していないとは思えないので、やはり側室の子ではないかと。 正室(山名氏)がいつ嫁いだのかは不明ですが、少なくとも享徳三年(1454)に宗全が将軍義政の勘気を蒙って攻められそうになったとき、それを止めたのが勝元で、その理由が「山名の婿だから」と『嘉吉記』にあるので、それ以前のはず。で、政元が生まれたのが1466年なので、もし彼女が母ならば嫁入り後12年以上も子が無かったのに突然生まれたことになり、かなり不自然かと思います以上の署名の無いコメントは、210.196.147.7(会話履歴)氏によるものです。-- トホホ川 2006年7月2日 (日) 00:15 (UTC)

細川政元には姉妹として赤松家に嫁いだ洞松院尼がいますが、この人物、年齢不詳なので政元の姉なのか妹なのか分かりません(嫁ぐ前に尼をやっていたらしいので姉という説の方が多そうですが)。ただし、1493年に政元の意向により政略結婚しているのであまり年の離れた姉とも思えません。(かなり下の弟に政略結婚を指示されるというのも変だし) 彼女が嫁いだ1493年に政元は28。それより上とすれば当時としては相当な晩婚といえます。また彼女が尼をしていた竜安寺も政元が再興したものなので、姉というより妹と考えた方がよさそうな気もします(姉だとしてもそれほど歳は離れていないはず)。で、彼女が政元と同母姉妹なのかどうかは不明ですが、同母だとしても、政元が生まれた1466年±数年なので上記210.196.147.7さんの言うように1454年以前に結婚したのであれば、やはり長いこと子が無かったのに1466年前後(言うまでもなく舅と対立した応仁の乱勃発前後)に立て続けに2人生まれたことになり、不自然ではあります。220.211.248.101さんの言うとおり他に側室がいたかどうかも分からないので他に子がいるのかどうか、洞松院と政元は同母なのかは分かりませんでした。トホホ川 2006年7月2日 (日) 00:15 (UTC)

同母かどうかは分かりませんが、とりあえず洞松院の年齢は判明しました。大乗院寺社雑事記によれば嫁いだ明応2年に31歳なので政元よりも三歳年上ということになります。勝元が正室の山名氏と婚姻したのは1447年(『建内記』文安4年2月20日)のようです。--トホホ川 2008年7月5日 (土) 09:13 (UTC)

勝俣鎮夫氏の『戦国時代論』では、政元が山名氏の外孫であったために山名・細川双方に和解の機運が醸成されたという見解が取られています。念のため。--水野白楓 2007年5月7日 (月) 18:56 (UTC)