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ノート:絶対矛盾的自己同一

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大幅な加筆修正を行いました。

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大幅に加筆しましたが、以前の記事のうち以下に関しては、出典が不明、記述された内容が難解、絶対矛盾の自己同一の中で書くのはふさわしくない、という理由で勝手ながら3箇所を削除させていただきました。私なりに出典を追加したり引用を追加したりしてみましたが私には難解過ぎて手におえませんでした。

以下の削除した部分に私のコメントも記載しますので、どなたか出典を明示し記事を充実させてください。もちろん、編集は大胆に行なってください。もちろん私の加筆が全て誤りであるのであれば差し戻していただいくことも歓迎します。

削除した部分1

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「相互否定的な絶対矛盾的自己同一の世界」という表現が『西田幾多郎全集』(岩波書店、1949年初版)第IX巻「絶対矛盾的自己同一」のp.152にあるので[1]それを、「[相互否定的な]絶対矛盾的自己[間の、相互] 同一[背理]の世界」として補って、そのような世界を西田が詳述していると見れば明解である[要出典]。(なお、ここでの「背理」は二律背反の関係に基づくものである。)

削除した理由

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『それを、「[相互否定的な]絶対矛盾的自己[間の、相互] 同一[背理]の世界」として補って、そのような世界を西田が詳述していると見れば明解である』

まず、「それを」のそれが何を指しているのか分かりませんでした。「「[相互否定的な]絶対矛盾的自己[間の、相互] 同一[背理]の世界」として補って、」この部分に関してはそれなりに文献を調べたのですが、該当するような文献を見つけることができませんでしたし何が書かれているのかも西田哲学以上に難解で私には分かりませんでした。。「そのような世界を西田が詳述していると見れば明解である」については前段が不明なため、何が明快なのかが分かりませんでした。「(なお、ここでの「背理」は二律背反の関係に基づくものである。)」これも前段が不明なため背理についての記述の意味が不明であるとともに出典を明らかにすることができませんでした。


削除した部分2

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西田は自己の弁証法を、『西田幾多郎全集』(岩波書店、1949年初版)第XI巻に収められている論文「場所的論理と宗教的世界観」のp399で[2]、誇らしく「絶対弁証法」と呼びながら、ヘーゲルの弁証法を、それが「対象論理的立場を脱していない」として批判している。「対象論理」[3][4]は同一性や無矛盾、排中律、に基づく形式論理のことであり、ここでそれに相対しているものは西田の場所的論理[5][6][7]、背理論理である。

脚注

  1. ^ 西田全集9 1965, p. 152.
  2. ^ 西田全集11 1965, p. 399.
  3. ^ 『だが「考える私」が「考える私」を考えるということは可能なのであろうか。この疑問に対して、西田は「(前略)我々は自覚の事実を否定することは不可能であり、自覚の事実に於て、考へるものを考へると云ふことは、対象論理的に既に自己矛盾である」(西田全集10巻 557頁)と答える。ここで西田が対象論理と呼ぶのは、客観的な対象について記述する論理のことである。主観に対する客観について語る論理であるため、主観そのものについて語ることはできない。それ故、対象論理の立場では「考える自己」について記述することができないのである。』(「自覚の事実とその展開ー後期西田哲学における自覚の問題ー」 白井雅人著 105頁 29行目〜106頁 1行目より引用。)
  4. ^ 白井 2013, p. 105-106.
  5. ^ 『西田の場所的論理は対象論理とその立場を異にする。対象論理が主客相対からなる論理であるとすれば、場所的論理は主客合一からなる論理なのである。』(「西田の場所的論理とカントの対象論理 ー妥当ということー」 岡廣二著 1416頁 上段 7行目〜10行目より引用。)
  6. ^ 『場所の論理は全てのものが純粋経験から成り立ち、直接経験から生成せるものと見る。したがってカテゴリーもその例外ではありえず、純粋経験即ち「意識するということはとにかく範疇的"有"以前になければならぬ」とするのである。』(「西田の場所的論理とカントの対象論理 ー妥当ということー」 岡廣二著 1416頁 下段 10行目〜14行目より引用。)
  7. ^ 岡 2010, p. 1416.

参考文献

  • 岡廣二西田の場所的論理とカントの対象論理 ー妥当ということー」(PDF)『宗教研究』第83巻第4号、日本宗教学会、日本、2010年3月30日、1416-1417頁、doi:10.20716/rsjars.83.4_1416ISSN 0387-32932024年10月15日閲覧 
  • 白井雅人自覚の事実とその展開ー後期西田哲学における自覚の問題ー」(PDF)『国際哲学研究』第2号、東洋大学国際哲学研究センター、日本、2013年7月22日、105-112頁、doi:10.34428/00005279ISSN 218685812024年10月15日閲覧 
  • 西田幾多郎 著、安倍能成天野貞祐; 和辻哲郎 ほか 編『西田幾多郎全集』 9巻(増訂版)、岩波書店、1965年10月26日。 
  • 西田幾多郎 著、安倍能成天野貞祐; 和辻哲郎 ほか 編『西田幾多郎全集』 11巻(増訂版)、岩波書店、1965年12月24日。 


削除した理由

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各々の用語の意味がわかるように色々引用してみましたが、所詮、用語の意味の羅列に過ぎず冒頭の「誇らしく」という文言から拝察するに西田哲学への批判が記述されていることは理解できますが、出典が何なのかが最後まで分かりませんでした。


削除した部分3

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西田はレンマという概念を使っていないが、弟子の山内得立がそれを自著『ロゴスとレンマ』で紹介している。その概念に従えば、絶対矛盾的自己同一における「絶対矛盾」とは四レンマ構成のうちで論理の側をなす第一、第二レンマと、もう一方の(背理の側をなす)第三、第四レンマとの間の矛盾であり、その矛盾を前にしては、自己同一は、それが論理の側のものであるため、安定性を失うというふうに形式化、簡明化できる。

削除した理由

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絶対矛盾の自己同一の中でレンマという概念は使っておらず、山内得立がそれを自著の中で紹介していることは判明しました。この部分は山内得立の項に記述するのが適切であるという判断をして削除しました。ただし、山内得立については資料も乏しく自著の『ロゴスとレンマ』も入手困難です。このため、私の手には負えませんので山内得立への追記加筆は不可能ですので追加加筆はいたしません。--Earthbound1960会話2024年10月25日 (金) 05:58 (UTC)[返信]