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ノート:織田敏定

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 この「織田敏定」に限らず、Wikipediaにおける一連の(信長以前の)織田氏に関する記事において、伊勢守系と大和守系について混乱というか誤謬が見受けられるように思います。つまり、敏定を伊勢守として、その子備後守敏信(弾正忠良信の後身であるという説が併記されているのは評価します)の後に伊勢守信安・信賢親子をつなげています。武功夜話の影響でしょうか? 一方、伊勢守郷広の子、敏広を逆に大和守とし、その後に五郎達定(大和守)以下の系譜をつなげています。

 しかも、本文中の引用では「和州刺史織田敏定」と明記されており、矛盾がみられます。和州は大和のことですね。また「「犬追物記」によると「文明十三年十月二十九日、三十二歳、伊勢守敏定」の署名が有り」、と記載されていますが、下記の著作などには同じ「犬追物記」から「生年卅二歳 大和守敏定」と引用さており、Wikipediaでは敏定が伊勢守であるという確信のもとにわざわざ大和守を伊勢守に書き換えたのではないか?と思われる箇所が見受けられます。

 「織田信長の系譜/信秀の生涯を追って」など一連の横山住雄氏の著書には出典(一次史料)を明記しつつ信長以前の織田氏について論考がなされており、参考になるのではないでしょうか? もちろん、これ以外の史書を見ても、敏定、五郎寛定(近江守)、六郎寛村、五郎達定、達勝、彦五郎(諸系図では信友)に至る家系が清洲城主・大和守とし、伊勢守敏広、兵庫頭寛広(千代夜叉丸)、そして間に不明の数代を経て伊勢守信安に至る家系が岩倉城主・伊勢守とされています。  また「戦國織田氏年表(信長以前)」(http://www.bekkoame.ne.jp/~h.ishi/history/odanen1.txt)というHPには出典を明記(梅花無盡藏、蔭涼軒日録、犬追物記、大乘院寺社雜事記、舟田戰記など)した上で史料上にあらわれる織田氏の姿が年代順に列挙されています。

 私自身には本文を修正するだけの知識、能力がないので、あえて疑問を呈すると言う形にさせてもらいます。この件に関して諸兄のご意見を賜りたいです。 --70.251.24.223 2007年8月20日 (月) 01:37 (UTC)[返信]

外部リンクは[1]ですね。十分な知識をお持ちのようですので、ご自分で存分に修正してみてはいかがでしょうか。--Kangoshiyouichi 2007年8月21日 (火) 02:25 (UTC)[返信]