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ノート:聖徳記念絵画館

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設計者は?

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  • 着工: 1919年(大正8年)3月5日
  • 竣工: 1926年(大正15年)10月22日
  • 設計原案: 小林正紹(公募による選定)
  • 実施設計: 高橋貞太郎小林政一  (本文より抜粋)

 

  • 1917年(T6)5月 古市公威に設計及び工事顧問、伊東忠太らに設計及び工事委員を嘱託(外苑工事全体について)
  • 同9月 佐野利器らを委員に追加(同月、高橋貞太郎が明治神宮造営局技師)
  • 同10月30日 委員より、工事概算書、参考図等を明治神宮造営局に提出   (『明治神宮外苑志』p11)
  • 1918年(T7)年6月 絵画館設計コンペの公募。9月が締切り、結果発表は10月上旬。
コンペに際しては、参考の平面図が示されており、応募者はこれに沿って設計した(ファサードデザインコンテストに近い)。
1等当選の小林正紹は実施設計に関わっていない。
  • 1919年(T8)3月 絵画館敷地の土盛りが始まる。6月完了。(『明治神宮外苑志』p147)
  • 同年7月 小林政一が造営局嘱託となる(10月には技師に就任)。(『近代日本建築人名総覧』)
  • 同年8月 絵画館設計案がまとまる(「造営局(略)建築係にては研究して大正八年(=1919年)八月成案を得、同局参与会に附議し遂に決定案を得たり」『明治神宮外苑志』p137)
  • 同年10月 基礎工事に着手。翌年7月完成。
  • 1920年(T9)5月 高橋は造営局を休職(公文書)、6月にアメリカ出張(建築雑誌404、1920.8会員動静)
1920年、「聖徳記念絵画館設計工事の進捗にさしかかった頃」高橋はアメリカに出張。これは佐野の差配と言われる(砂本氏INAX REPORT)
帰国の時期はよくわからないが、翌21年8月まで休職し、8月に高橋は宮内省内匠寮技師に就任している。(『近代日本建築人名総覧』)*内匠寮は10月就任との説もあり。
高橋の後任を小林政一が務める(『建築人国雑記』p55)
『職員録』大正9年版(1920年7月調)で(内務省)神宮造営局に高橋の名はなく、小林が技師。
  • 1921年(T10)6月 主体工事に着手。同年10月定礎祭。
基礎工事完成から主体工事着手の間が1年近く空いている。小林が「第1次世界大戦の影響で物価賃金が高騰したため工事が中断した」と書いているのはこのことであろう(ただし、日付が少し合わない?小林によればT9.2~T10.3に工事の進行を停止、と)。

これらから考えると、コンペ案を修正し、設計案をまとめた時点(1919.8)で、高橋貞太郎が責任者である。後任の小林が工事を完成させた、といったことになるだろう。 (『土木建築工事画報』の説明文は小林が書いている)  --2018年5月9日 (水) 14:02 (UTC) --2018年5月10日 (木) 15:46 (UTC) --2018年5月11日 (金) 14:11 (UTC) --2018年5月14日 (月) 14:50 (UTC) --2018年5月15日 (火) 11:56 (UTC) --2018年5月16日 (水) 13:04 (UTC)(一部修正)--2018年5月20日 (日) 12:36 (UTC)(時系列に整理) --忠太会話2022年2月16日 (水) 11:20 (UTC)(人名総覧により訂正)[返信]

増田泰良・西澤英和・藤岡洋保「明治神宮外苑聖徳記念絵画館の鉄筋コンクリート造ドームの構造設計」(学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠、2003-07)

大正11.3付のドーム関係の図面(平面・立面、RC造の配筋)が2枚ある。佐野、小林のサインあり、と。  --忠太会話2018年5月12日 (土) 15:59 (UTC)[返信]

古市公威が設計者の1人に加えられることがある。定礎に「設計及工事顧問(略)古市公威」と名前が入っている(佐野、小林らの名は入っていない)ことによるらしいが、実際に設計した訳ではないだろう。 --忠太会話2018年5月14日 (月) 14:50 (UTC)[返信]