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ノート:自尊心/過去ログ1

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読み返してみると、笑える説明だ。月臣くにひと 08:38 2004年2月10日 (UTC)

Johncapistranoさん、はじめまして♪修正ありがとうございます。オラはずかちい。良い意味の自尊心と、悪い意味の自惚れの境界はムズカシく、「自尊心」の一語で話題が盛り上がりそうですね♪これからもよろしくお願いします★月臣くにひと 08:53 2004年2月10日 (UTC)

いえいえ、自尊感情は大切だと思っていますが、なかなか上手く行かないですね。Johncapistrano 09:11 2004年2月10日 (UTC)

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「日本人論と自尊心」の節はかなり多くの部分にわたって出典が必要なように思われます。 最低限、「…論調も見られる」「…も報じられている」といった部分に対しては、具体的な記事への参照が望まれます。 また、以下の点もぼくから見ると個人的な独断に思えますので、できればもう少し詳しい資料を示していただければ幸いです:

  • 「現代でも様々なスタイルの自尊心が見られる。」…どのようなスタイルか? 具体的に。
  • 「一般に弱点を晒す人間は、自尊心が無いといわれることもあるが、必ずしもそうとばかりは言えない人も見られる。」…一般論としては同意しますが、この場合は具体的な統計資料が必要でしょう。(心理学の調査や新聞のアンケートなど)

--euske 2007年5月13日 (日) 21:50 (UTC)

該当部分記述者です。一つ目は、自尊心という情動に目を向けてそれらの類型を一々列挙していたら切が無いので割愛しました。例えば特定事象のみ着眼し、尊大な言動で衆目を集めた堀江貴文氏の語録辺りを引用してもいいのでしょうが、逆に特定現象のみに縛られる論の矮小化を招き不適切であると考えられます。まして自尊心を発揮していると考えられる各々の事象を並べ立てる事も不毛ですし。二つ目の後者は一般論以上ではなく、統計とか何とかという調査でもあれば僥倖というほかありません。してその調査も汎社会的な調査ではなくローカルな現象のみを扱ったものであった場合には、やはり論の矮小化を招く事も危惧されます。
うーん。どうも問題は「自尊心」という抽象名詞を、あたかも具体的なもののように扱っている書き方にあるのかもしれません。「スタイル」などという言葉を使うと、まるで自尊心はファッションのように写真なぞで提示できるものであるかのように受けとれます。重箱の隅のような議論ですが、ここでは「スタイル」などのような単語は避けたほうが無難ではないでしょうか。--euske 2007年5月14日 (月) 05:33 (UTC)
んー…スタイルってぇのを「外見」とかなんかの辞書に於ける第一義のみで捉えるとそうなっちゃいますかね。小生としては哲学ってぇか方針というか、外見(ファッションなど)の源流にある思想を内包する概念という意味で使いましたが、第一義のみで見られるという可能性からすれば「様々な『ポリシー』なり『矜持』に基く自尊心(云々)」とでも言い換えても良いかもしれませんね。語の原義や内包する概念を包括的に扱わないと、どんな表現を使っても一緒かもしれませんが。--夜飛/ 2007年5月14日 (月) 10:59 (UTC)
一方で、根性論がらみの現象としては、比較的近年のものとしては2005年10月の「京都田辺硬式野球部」(同少年野球チーム名は一意なので、検索すれば同事件の詳細がわかると思います)の事例もあるのですが、背景に類似性の見られる事件は挙げ立てれば限がなく、加えて特定事象のみを挙げれば論の矮小化、幾つか挙げてもそういう現象のみを収集することで論説の偏りを助長させる危険性があります。例えば管理教育では、特定地域のみの問題事例ばかりを列挙しており、また体罰のように体罰本来から逸脱した暴行行為(事件として社会問題視されたケース)の列挙にしかならず、中立性に難点が見られます。
またこういった特定事象のみを羅列することは、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかで問題視される速報的記述の列挙を招き易く、スタイルガイドラインWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないのように「後々に残される記事」として考慮すべきだとするものもあるだけに、「現在(2007年現在)辺りの現象」のみに偏った記事になることは避けた方が良さそうです。
これらの部分に関しては、以上のような理由もあって、ある程度は読者に妥当性の判断を求めるために、特定事象のみを列挙して記事の論説を自己正当化させないような「ぬるさ」を残しておくのも良いと思い、特定事象のみの列挙は避けた次第です。ではでは。--夜飛/ 2007年5月14日 (月) 03:55 (UTC)
これは考え方の違いだと思いますが、Yatobiさんはおそらく適切な出典が示せなくても、ご自分が正しい (= 世間一般の人々とのあいだでほぼ合意できている) と思う言説であれば書くべきだとお考えなのでしょう。ぼくは、そのような場合は言説を書くべきではないと考えます。なぜなら、たとえこの場合は Yatobi さんが正しいとしても、具体的な支持がなければ他のトンデモ言説と区別がつかないからです。ここでいう「支持」に相当するものが Wikipediaでは「出典を書く」ということであり、このプロセスをスキップしてしまったらいかなる記事でも事実上削除できなくなってしまいます。ぼくは現時点で Yatobi さんの書かれたものを削除したいとは思っていませんが、このような危惧を抱いている人間もいることを知っておいていただければ幸いです。--euske 2007年5月14日 (月) 05:33 (UTC)
おそらく「百科事典」という存在に対する認識の違いでしょう。小生の知る所として百科事典は事象に関する情報を網羅して、様々な情報や概念との連結性や位置付けを説明するものであり、それは教科書ないし専門の学術書とは違ってその各々に対する研究を紹介したりデータを提供して論文を書いたりするときの参考にするためのものではないと考えています。同時に、偏った視点からの論説を切々と紹介して(特定の視野から以外の考察を妨害する)啓蒙書でもないと考えます。その点で、普遍的な複数の情報源から妥当性の確認可能な情報を「常識」として扱うことは妥当だと思う一方、単一の出典のみを掲げて出典元著作者の視点のみに依存して中立性を損なうことには害があると思います。
なお本項に於いては一般論のみに限定されているため、トンデモかどうかは「日々ニュースを見たり社会に属したりする(日常生活を送る)ことで検証可能」なレベルであり、一方で記述内容が支持されるかどうかなんていうのは読者が判断することで、ついでWikipedia上ではあからさまに間違っていれば削られるだけで、出典を挙げれば良いという事とは別の問題だと考えます。その辺りは2ちゃんねる辺りで自らの論説ないし内在する情報に自信のない連中が、自分の発言を正当化するためにソースを付与したがる(大抵はソースの選び方や読み方が成ってないけど)ような過ちを、Wikipedia上で繰り返す必要も無いと思います。ちょっと熱がある最中なんで、脱線転覆申し訳ない--夜飛/ 2007年5月14日 (月) 10:59 (UTC)
はっきりいうと、wikipediaは一般的な「百科事典」ではないと思います。少なくとも「あからさまに間違っていれば削られるだけ」というのは (Wikipedia上のルールに則して言えば) 正しくありません。Wikipediaではどんなトンデモ言説でも、まともな出典 (ここでいう「まとも」とは、内容ではなくて、書籍などの「形式的にまともな」という意味) さえあれば削るわけにはいかないんですよ (これは包摂主義の考え方ですけど)。そういう意味で、wikipedia上の事実というのはコモンセンスよりも (出典の数および量という) 単なるポピュリズムによって決定されるものとぼくは考えています。こうした方法はひどく機械的だし、嫌う人も多いでしょう。しかしこれが現在合意されている wikipedia のルールであると理解しています。つまんないヤツだと思われたくないんで、これをあんまりしつこく要求する気はありませんけれども。-- euske 2007年5月14日 (月) 11:40 (UTC)
Wikipediaが百科事典で無いとしたら、それはWikipediaですらない気もしないでもないけど…それはさておき、出典の体裁さえ揃えば記述が削除されないなんてことはないかと。例えばアドルフ・ヒトラーの項で『わが闘争』(小生は読んだこと無いけど)を掲げて彼(A.ヒトラー)の思想を紹介するのはアリでも、ユダヤ人の項で「ユダヤ人は排除されるべき」と記述する事は出来ませんし。出典はあくまでも検証可能性を捕捉補足するものであり、トンデモな記述を其処に書く理由(妥当性)には成らんと思います。--夜飛/ 2007年5月14日 (月) 12:05 (UTC)
いいえ、削除されません。Wikipedia:中立的な観点#有害な考えを広めてしまうのではないかをお読みになりましたか。「ユダヤ人は排除されるべき」とは書けませんが、適切な出典があれば「(ヒトラーらによる)ユダヤ人を排除すべきという意見もあった。」と書くことはまったくもってオッケーですし、むしろ出典が無視できないほど大きければ書く必要があるのです。また、ある事柄について対立する複数の意見がある場合は、(出典があるかぎり) すべての論を (それがどんなトンデモであっても) 併記しなければならないと決められています。たとえば英語版の中絶の是非に関する議論 en:Abortion_debate などはよく書けています。極論すれば、Wikipediaに書かれているすべての事柄は単なる引用の寄せ集めであり、編集者はなにひとつ自分の意見を加えることはできません (究極的には、ですが)。ですから Wikipedia執筆者の仕事というのは、いろいろな出典を取ってきて、それをわかりやすい方法で提示する、ということになると思います。
話を日本人の自尊心に戻しますが、現在の Yatobi さんの書き方だと、人によってはこれらの記述が「意見のひとつ」ではなく、「Wikipediaの共通した見解」であるかのような印象を与えてしまいます。繰り返しますが Wikipedia の編集者自身はなんの意見も表明しないことになっているので (編集方針に関する「メタ意見」はともかく)、このような状況はまずい、と思うわけです。-- euske 2007年5月14日 (月) 17:20 (UTC)
追記。ひとつの方法としてWikipedia:中立的な観点#ひとつの帰結:敵のために書くというものがあります。これはぼくがとっているやり方です。なるべくYatobiさんご自身が共感していない事柄を書くようにはできませんか。こうすれば、出典を示さないことには心の平安が保てないので、いやでも出典を示したくなります :)。--euske 2007年5月14日 (月) 17:26 (UTC)
(インデント戻し)中立性の意味を履き違えちゃおりませんかね?Wikipediaにおける中立性は特定の論に依存しない記事を書くことで、議論のある事柄はその各々の意見に対して公平に扱う必要こそあっても、「出典があるかぎりすべての論を併記しなければならない」という性質のものではありません(ナレッジスペースではないので)。常に主要な事柄に関してというバイアスが掛かります。出典を元に記事を書く場合は、引用などの形でその論点を記述することは出来ても、それを論拠にして主張をダラダラ書くことも出来ませんので、故に出典があれば何でもOKとはならないのは、euskeさんにも「ユダヤ人とヒトラーの問題(ユダヤ人排斥論を出典をヒトラーに求めてユダヤ人の項に書き綴ることは出来ない)」でご同意頂いたとおりで、出典はあくまで引用元に過ぎず論拠たりえません。
いえ、その反対です。ぼくはYatobiさんに同意しておらず、「出典は論拠たりうる」といったつもりなんですが…。--euske 2007年5月15日 (火) 16:43 (UTC)
本項では汎社会的な概念を扱っており、その延長で日本人論が出た訳ですが、別段他の方向性を否定している訳でもありません。その辺りは好きに編集した追記したり置き換えたりすることも自由ですし。常識で判ずることができるものである以上、常識で置き換えることも出来るのですから、トンデモかどうかは読者が判ずることで、「トンデモかどうか判らないけど、トンデモだったら大変だ」なんてeuskeさんが危惧する事柄でもないと思いますけどね…有害な考えを広めてしまうのではないかに書いてある通り。--夜飛/ 2007年5月15日 (火) 09:29 (UTC)
ぼくが危惧しているのは「トンデモかどうか」ということではありません。たとえばYatobiさんが書かれた「他人に苦労を強いるために自尊心を振り回すのは問題がある」という部分は、(「ユダヤ人は排除すべし」という主張と同じように) これらに同意する人にとっては常識と思えるかもしれませんが、同意しない人もいるでしょう。なぜならこの部分は「事実」ではないからです。もし別の編集者がこの部分を消して正反対の主張を書いたら、Yatobiさんはどうされますか。「オレのほうがより常識的だ」などと主張するのは不毛な争いですので、将来的にそういうことが起こらない書き方をすべきであると思います。
出典が必要、というのはそういうことなんです。「…問題がある」と言い切ってしまうと、これは正しいかどうかわかりませんが、「他人に苦労を強いるために自尊心を振り回すのは問題がある、という意見を誰々が言っていた。」というふうに書けば、これは検証可能な「事実」であり、現行Wikipediaのルールでは誰にも削除することはできませんし、編集合戦に進展することもありません。--euske 2007年5月15日 (火) 16:43 (UTC)
一周半してようやく主題が見え隠れしてきた感じですが…euskeさんは勝手気侭に小生の人となりを想像し、勝手に編集合戦を危惧している訳ですね。まあ小生としてもeuskeさんがどういう心像を抱こうとeuskeさんの勝手だし、記事に手を入れるのも勝手にやって頂いて構わないとは思ってますが。「どうされますか」なんて仮定に於ける質問がありますので一応答えますが、「気が向いたら妥当性を検証して、妥当と判断できるか事実関係が確認できたら残す方向で、妥当性が緩かったり事実関係が危うかったら補強と文の整理による統合に、妥当性が無く事実関係も皆無であったらとりあえずコメントアウト、妥当性云々以前に事実すらに反していたら程度によってはノートで問題提起(単なる私的メモの落書きレベルだったら除去もするけど)」とかしますがね。小生としても絶対真理が書けるなんて思い上がっちゃおりませんので。こちとら食後で取り急ぎ、ではでは。--夜飛/ 2007年5月16日 (水) 03:38 (UTC)
最初に。お気を悪くされたら申しわけありませんが、べつにYatobiさんが編集合戦をするような人だといっているわけではありません。「…は良い/悪い/問題である」とか、「…べきだ」という記述はどのようなものでも編集合戦に発展する可能性があり、すべての編集者が気を付けなければいけないものです。ぼくはたまたまこのページでそれを発見したから指摘したにすぎません。--euske 2007年5月16日 (水) 13:07 (UTC)
さて、Yatobiさんの誤解は「小生としても絶対真理が書けるなんて思っていない」というあたりにあるように思います。Wikipedia:検証可能性のページにある最初の文にあるように、Wikipediaの目標は「真理」を書くことではなく、「人が『これこれが真理である』と主張しているという事実」のみを書くことです。編集者が、ある記述に関して「これは本当に真実か」などと悩む必要はありません。はっきりいえば、Wikipediaの編集者というのは機械のようなもので、ある記述をある文献から別の文献に書き写すだけの存在に過ぎません (上のほうで「ポピュリズムである」と書いたのはそのためです)。--euske 2007年5月16日 (水) 13:07 (UTC)
さらに言わせてもらえば、ぼくがここまで議論を続けてきたのは、Yatobiさんにご理解いただけるだろうと期待しているからこそです。これがもし匿名ユーザの編集であれば何を言っても無駄ですし、ここまで続けることもなかったでしょう。--euske 2007年5月16日 (水) 13:01 (UTC)

(インデント戻し)えーっと、まずeuskeさんのご意見なのですが、文中(一つの署名で記述された一連の文章)に挿む格好で意見を挿まれると署名が無い部分が出来上がり記述の前後関係が第三者に判り難いので避けて頂きたく。ついで頂いたご意見の内容なのですが、大筋では上の「一周半して(中略)こちとら食後で取り急ぎ、ではでは」を参照してください。ともあれ常識なんてもんは言い換えれば「共通認識という幻想」みたいなもんで、ある程度の揺らぎを含む概念であるため、断言はせず大筋の方向性のみが存在するだけです。「問題がある」という一文がどうとか申されてますが、文章は単語によってのみ意味を持つのでは無く、その前後の単語によって意味が補強されたり弱められたりもします。も少し落ち着いて記述をお読みください。例え微量でも存在すれば「ある」のであり、問題の量が少なければ大きな問題ではないのですから。ともあれ、論というのはその性質上で読者に対する問い掛けであり、その可否に関する判断は読者が下す性質のもので、またそれは出典がどうとか誰が言ったかとは別の話。論であれば当然のことながら別の視点が存在するのも妥当であり、それを否定する所ではありません。--夜飛/ 2007年5月16日 (水) 10:12 (UTC)

この議論を読ませていただきましたが、お二人の粘り強い議論に敬意を表します。さて夜飛さんはeuskeさんの論点を理解されておられないように感じました。「論というのはその性質上で読者に対する問い掛けであり、その可否に関する判断は読者が下す性質のもので、またそれは出典がどうとか誰が言ったかとは別の話。」というような発言がでるところに、それを強く感じます。ウィキペディアの記事は、投稿者が読者に論を問いかけるような性格のものでは、ないです。むしろWP:Vが示すように、誰がいった論であるか文献資料等によって確認できるものを、淡々と並べていくべきものです。これは、記事内容の信頼性を担保するとともに、投稿者独自の「論」とか「読者に対する問いかけ」を排除するための仕掛けでもあります(ウィキペディアは議論のためのフォーラムや掲示板ではない)。失礼ながら、出典が示せないのは、夜飛さんなり他の投稿者なりがご自身の主張を展開するために、ウィキペディアを利用しているから、とかんぐられても仕方ないように思います。

あまりにも常識的なこと(たとえば「徳川家康は日本の近世の武将」)は出典を必ずしも求められるものではありませんが、それは事実関係に限られることであって、論のようなものに関しては、それが百科事典で紹介するに足るかどうかというのは、いった人間の重要性や反響(どれも資料に即してはじめて提示が可能な情報です)を示すほかなく、読者の共感を呼ぶかどうかが持ち出される時点で、夜飛さんがウィキペディアは何でないか|について誤解されているのではないかという危惧をもたざるをえません。誤解であることを希望しますが。--Aphaia 2007年5月16日 (水) 10:22 (UTC)

もちろん、小生としても「ウィキペディアは何でないか」は存じておりますし、それに反するつもりも在りません。ただ、一つの事象を説明するという文章も、それが持論か一般論かという程度の差こそあれ、それは一まとめでなければならず、そこに一つの論が発生すると考えています。何がしかを説明する上では、説明に足る情報を取捨択一しつつ列挙する訳ですが、まずその情報の選択にも一種の主観的な問題を含みます。そこで如何に公平かつ中立的に、妥当な情報源を元に必要十分な範疇でまとめるかという辺りがWikipedia編集参加者に求められるところであり、またWikipediaの楽しさ(ヲイ)な所かと思いますが…「論」という語を用いたことで(語弊や説明不足により)、主観ないし特定視点に立脚したものだと誤解されていたらすみません。単に論は論であり、人間の項では「人間論」が、社会の項では「社会論」がつづられているということを述べているに過ぎません。ではでは。--夜飛/ 2007年5月16日 (水) 11:14 (UTC)
Yatobiさんの「論は論である」という言葉が何を意味しているのかいまいちよくわかりませんが、ぼくが問題としているのは呼び方ではありません。「…は問題である」というような特定の書き方について懸念しています。(上の段落にも書きましたが) 編集者はたとえ「論」をまとめるときにも自分の意見が入らないようにしなければなりません。Wikipediaにおいては編集者の価値判断はつねにご法度なのです。Yatobiさんも、「…問題である」という記述に同意しない人もいるかもしれない、という状況についてはご想像いただけるでしょう。ならば、最初から別の書き方をしたほうが安全です。--euske 2007年5月16日 (水) 13:01 (UTC)
うーん…認識というか、価値観の問題もはらみそうですね。小生としては、論(この場合は「何がしかを順を追って説明した文章」と置き換えていただいて構いません)は他に提示した時点で小生のみの所有物に在らず、他と共有する性質のものであるため、同意できない人がいるならどんどん書き換えて頂いてOKというスタンスです(Wikipediaにせよ、それ以外にせよ)。勿論、変更された後の文章の著作人格権も小生とその書き換えた人の共著であり、例えばその書き換えがあんまりだというなら、小生は小生のみに著作人格権のある部分だけを引っ込めることもしないではありませんが。他の書き方というか表現方法も、何らかのスマートな記述方法があり、そちらが適切だというなら、そのようすることも吝かでは在りません。ただ「ニュースを見ているだけですらそういった現象を問題視する視点がある」という状況に於いて、それを「問題」として存在することを「ある」と表現することに関しては、語弊があるとも思えません。その辺りは例として上に挙げた事件などを書くのも一つの手ですが、こと同種の事件が複数あり、またおそらくは今後も類似する事件が予測される限りに於いて、特定事件のみに限定されるべき視点でもないと考えております。--夜飛/ 2007年5月16日 (水) 13:36 (UTC)
「問題がある」という言い方は、それが話者を提示しない限り価値中立的ではなく、ウィキペディアの記述として不適当です(NPOVに抵触する)。類似の議論がTalk:タウヒードにあるのでご覧ください。そこではイスラム教上の概念を説明するなかで、キリスト教神学上の概念を無記的に「問題である」ということのまさに問題点が取り上げられています。「○○は××を問題であると指摘した」は許されても「××は問題である」はNPOVの観点からも自説を展開しないという観点からもウィキペディアの記述としてふさわしくないのです。--Aphaia 2007年5月16日 (水) 13:50 (UTC)
タウヒードの例は問題の性質がちとずれてるかも。それは宗教に於ける汎社会視点で、属する宗教が違えば、そりゃ視点だって変わってくるし。社会問題という汎社会的視点に基づけば、根性論信奉に基くスポーツ少年の事故死ないし病死などは「社会と根性論で選手をしごく監督」という2つの視点が存在するものの、その双方は対等ですらないし。もっとも小手先の言い替えで宜しければ、手を加える余地はあるかもしれませんね。--夜飛/ 2007年5月16日 (水) 14:20 (UTC)
うーーん。「同意できない人がいるならどんどん書き換えて」というところに誤解があるような気がしますね。YatobiさんはWikipediaを、「みんなで協力して正しい記事を構築していくところ」だと考えているんじゃないですか? 実際には「正しさ」はWikipediaの目標のひとつには入っていません。そんなものを目指したら、行きつくところは必ず編集合戦だからです。Wikipediaの編集者は、本文の主張に不同意だからという理由でそれを書き換えたり消したりすることは許されていません。たしかにぼくは「問題がある」というような書きかたに対して不同意なわけですが、これは書き方についての不同意であって、「問題がある」という主張そのものについてはなんの意見もないんです。たとえ「問題がある」がYatobiさん本人の主張だったとしても、そのような主張を書くことはまったくかまわないし、本文の内容についてYatobiさんと議論したり意見を収束させたりする必要はない。第一すべての編集者と「自尊心とは何か」について合意に達するなんてことは (一般論として) 不可能です。ただ「主張を提示する方法」にWikipedia独自のルールがあり (それが出典を明記するということです)、このルールについては編集者がお互いに同意できるだろう、というか、しなければならない、と思っています。これまでの議論は、そういう目的でやっています。--euske 2007年5月17日 (木) 14:57 (UTC)

おっと、節まるごと削除されちまった。frommさんは削除主義者らしいから仕方ないけど、せめてこの議論が終わるまでは待ってほしかった。--euske 2007年5月18日 (金) 04:20 (UTC)

(>euskeさん・2007年5月17日 (木) 14:57分)小生の書いた文章の部分だけ見て、何か誤解があるようですが…いや、言葉尻に釣られ過ぎとかいうと語弊がありそうなので多くは申しませんが。本項の件の記述にしても、抽象的概念に関連しそうな汎社会的な現象から無作為にピックアップして八百屋の店先みたいに適当に並べただけなんですけど、その品揃えが主張だというなら、まあそうなんでしょうて。euskeさんは小生が常に主観的主張を行っていると主張しておられるようですし、そのことに関して小生としては「別の(小生自身には本来関係の無い)ことを言ってるんだな」って思ってますから別にどうでも良いんですけど。ともあれ、frommさんが(自己肯定感に関してのみの記事にする延長で?)削っちまったのでお開きですかね。--夜飛/ 2007年5月18日 (金) 08:39 (UTC)
「euskeさんは小生が常に主観的主張を行っていると主張しておられる」…べつに「常に」とは思っていませんよ。また (出典さえ書けば) 主観的な意見を書かれてもまったく問題ありません。ただし、この記事における Yatobi さんの書き方では検証可能性や中立性についてのルールが守られていないのではないか、といっています。それもちょっとであれば重箱の隅をつつく気はありませんが (誰しもこの点について完璧になれるとは思ってません)、この記事ではそのような部分が大量にあったので見過ごすことはできないと思ったわけです。場の空気でも同じことを感じましたが、Yatobiさんは他の編集者からみて少々勇み足ととられる記述をする場合があるようなので、もうすこし慎重になっていただけると幸いです。--euske 2007年5月18日 (金) 14:53 (UTC)

記事名について

前半の内容を見ると、「自尊心」ではなく自己肯定感の説明をしたいように思います。また、英語を持ち出した説明が非常に怪しい。self-esteemの和訳は自己肯定感とするのが普通かと思います。 前半のぐだぐだ感と、後半のお説教。。Wikipedia記事としては異質です。--fromm 2007年5月17日 (木) 04:47 (UTC)

英語の境界例(BPD) 系の書籍では、self-esteem(self-confident,self-respectも)という単語が頻繁に登場しますが、これを「自尊心」と訳すのは的はずれでしょう。文脈を判断しつつ「自己肯定感」とするのが普通かと。いずれにせよ訳語論争は不毛なので記載を避けたいところです。--fromm 2007年5月17日 (木) 04:56 (UTC)

手持ちの一般向けの英和辞書では self-esteem は「自尊心」と訳されています。和英でも自尊心は "self-esteem" で対応していますから、一般的にはこれでよいのでは? ただ、心理学に「自己肯定感」という単語があるのだとすれば (ぼくは知りませんでしたが)、そっちの説明を大々的に書けばいいんではないでしょうか。あるいは自己肯定感という別記事をつくって英語の self-esteem から自尊心と自己肯定感のどちらにもリンクする、という手もありますが、個人的にはこのやり方はユーザを混乱させるのであまり好きじゃありません。--euske 2007年5月17日 (木) 15:12 (UTC)
(コメント)自己肯定感は心理学用語か精神医学用語?少なくとも広辞苑第四版にゃ載っていないので、おそらく英語のself-esteemの概念を和訳する上で自尊心と同義ではなかったので後から便宜的に作成された造語っぽくもあり。ニューアンカー和英辞典とか簡単な辞書を引っ張ると「self-respect」か「pride」辺りが自尊心に相当する英語としても出てくるので、内包する概念自体が別物か過不足が在るんだと思います。言語形態が違えば内包する概念にも揺らぎを含み、同時に直訳は必ずしも意訳と同じとは行かないのだし。ちなみに「自尊」で広辞苑を引くと増長みたいなネガティブな意味合いも含まれているので、肯定一辺倒のesteemとも概念的なズレがあるのかもしれません。説明の一部に重複する内容が在ったとしても、自己肯定感は自尊心と平行して記事を存在させた方が良いように思います。--夜飛/ 2007年5月18日 (金) 08:51 (UTC)