ノート:船上城/過去ログ1
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富山城の高山右近縄張り説について
[編集]富山城の高山右近縄張り説にこだわる方がいるようですが、本文に書くのは場違いだと思いますので、こちらでその出所や信憑性などについて少々。
さて、富山城右近縄張り説の嚆矢は、戦前に出版された郷土史家・増山安太郎氏による『高岡古城志』(1939)において、富山城も右近の縄張りと言われているとしたのが、もっとも古い出版事例だと思われますが、同書においてはその出典が示されておらず、その論拠は不明なのですが、戦後に同氏が編纂委員として参加した『高岡市史 上巻』(1959)において同氏の上記著作の内容が大幅に引用されており、富山城右近縄張り説もまた出典を明記しないまま断定的に事実として記述され、さらには後年の伝聞史料しか存在しない高岡城右近縄張り説を補強するために用いられています。
そして、高岡市史と前後して編纂された『富山市史 第一巻』(1960)においても、慶長十年に利長が富山城改修を行った際の記事において、「この時家臣高山長房に命じて城の測量をなさしめ」という記述が全く出典が示されないままなされています。この富山市史は、編年の記事を記載し、その後にその元となった史料を原文で付す資料性の高い体裁を採っているためこの箇所に関してはいかにも不自然な印象があります。また、それとは逆に、利長が先立つ同年三月に富山城の設計書を披見したとする記述の出典として上げてある加賀藩史料『国初遺文』にその提出者として連名で記されているのは高山右近の名ではありません。
近年の富山城高山右近縄張り説を採る書籍などは、この両市史の記述をふまえてのものであると思われます。しかしながら、高山右近が富山城の縄張りに関与したことを具体的に示す史料というのは現在のところ全く知られていません。私の知る限り、唯一、関連記述が見られるのは、加賀藩士・富田景周が江戸後期にまとめた加賀藩の歴史・地理書である『越登賀三州志』(1819)において、富山城について「或る説にこの時縄張を高山南坊に命ずるか、金城の三の丸台高岡城の縄に似ると云う」という一文のみであり、江戸後期の時点では、右近が富山城の縄張りを行ったという文書も伝承も存在せず、単に、金沢城の三の丸や高岡城の縄張りに似ているので右近の縄張りではないか?と推測している説があったというにすぎません。もし、増山氏の出典がこの三州志の一文であったのなら、あまりに根拠薄弱と言えるでしょう。
『日本城郭大系』にも、この両市史を下敷きにした右近縄張り説の記述(七巻/金沢城研究ノート)は見られますが、同書においても、地元研究者執筆による当の富山城の項では右近縄張り説については全く言及されておらず、また、現在富山城の発掘調査に当たっている富山市埋蔵文化財センターにおいても右近縄張り説については否定的です。
実証的には現在のところ、富山城高山右近縄張り説は、昭和になってから広まった史料の裏付けのない巷説でしかないと言えるでしょう。
それにしても、こちらが史料(一次資料)がないと要約欄に示しているにも関わらず、高岡・富山両市史の子引き孫引きでしかない『日本城郭大系』を持ち出されて書き戻されてもな~というのが正直なところです。 Jinzuu 2009年3月12日 (木) 11:01 (UTC)
- コメント上記文面に「本文に書くのは場違い」と記載されておりますが、Wikipedia:検証可能性によりますと「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」が問題視されます。同ページ内に「個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません」と記載されていますように、個人的見解はWikipedia:独自研究は載せないという指針にも反しています。「昭和になってから広まった史料の裏付けのない巷説でしかないと言えるでしょう」とありますが、「言える」と記載されている以上、個人的見解を指しているのではないでしょうか?但し『日本城郭大系』説を否定しているWikipedia:信頼できる情報源、もしくは最近の研究結果で『日本城郭大系』説が古いとされるWikipedia:信頼できる情報源、さらに「昭和になってから広まった史料の裏付けのない巷説でしかない」とするWikipedia:信頼できる情報源があるならば、Wikipedia:出典を明記するしその記載内容に沿った加筆は歓迎されます。--ブレイズマン 2009年3月14日 (土) 18:37 (UTC)
- ”場違い”というのはそもそも現記事にある右近の事跡や後半生については、城郭記事である当記事に記載すべきものではなく、高山右近当人の記事に記載すべきものだろうということです。 また、出典の真偽や信憑性を問わないというWikipediaローカルのルールについては承知していますので、無理に本文を書き戻そうとはしてない訳です。 ただ、世間一般の常識では、主張を裏付ける史料(一次資料)が無いと指摘されたのであれば、それを証明する史料を提示するべきでしょうね。(本件でそんなものが出てこれば富山城研究の上での大発見ですが) それに、史料が”有る”証明は出来ても、”無い”証明は出来ませんから。(悪魔の証明というやつですね) Jinzuu 2009年3月15日 (日) 03:54 (UTC)
- コメント「場違い」という事ですが、この記述は「船上城」の節の文献(日本城郭大系)の中に記載があり、また文量も膨大という程でもありませんので、この程度は問題ないのではと思います。後「無理に本文を書き戻そうとはしてない訳です」としている点に関しましては、了解しました。上記指摘を基に『日本城郭大系』説を否定する文献がどこかにあるかもしれませんので、そのような文献が見つかりましたら私自身でも加筆や変更させて頂きます。個人的な見解ではなくWikipedia:検証可能性での加筆を行いたいと思います。--ブレイズマン 2009年3月15日 (日) 05:05 (UTC)
- ”場違い”というのはそもそも現記事にある右近の事跡や後半生については、城郭記事である当記事に記載すべきものではなく、高山右近当人の記事に記載すべきものだろうということです。 また、出典の真偽や信憑性を問わないというWikipediaローカルのルールについては承知していますので、無理に本文を書き戻そうとはしてない訳です。 ただ、世間一般の常識では、主張を裏付ける史料(一次資料)が無いと指摘されたのであれば、それを証明する史料を提示するべきでしょうね。(本件でそんなものが出てこれば富山城研究の上での大発見ですが) それに、史料が”有る”証明は出来ても、”無い”証明は出来ませんから。(悪魔の証明というやつですね) Jinzuu 2009年3月15日 (日) 03:54 (UTC)