ノート:色川武大
この記事には、http://www.ronax.net/asada/profile.htm からの転載が含まれていますが、下記のとおり、著作権侵害には該当しませんので、安心して記事を編集してください。Dora 12:28 2003年12月13日 (UTC)
16:46 2003年10月15日の記事の時点で登場した「略歴」と「受賞歴」が、どうやら
http://www.ronax.net/asada/profile.htm
URLの文章の転載なのですが、これはOKでしょうか?略歴やら受賞歴といった内容ですので、著作権などをどう考えるのか、同様の例をみつけられませんでした。Dora 11:41 2003年12月12日 (UTC)
- #何だか今日は覗きに来るたびに著作権関連のネタがひとつ転がっているような感じですが。。^^)
- 略歴関連については、ノート:小泉純一郎がとりあえず、一番突っ込んだ話をしているところだと思います。他にノート:日進市ノート:細川護熙ノート:麻生区ノート:森喜朗ノート:植田佳奈ノート:神奈川中央交通などもあります。(他にもあったかも)小泉純一郎に関してOpponentさんがもらう返事が、単に特定のページに関するものではなくて、他の件一般にも敷延すべき見解のようなものになっていたら、この辺りの削除は大幅見直しもありうるかも知れないと思うので、そこの展開を見守るというがいいんじゃないかと僕は思いました。もっともこの記事の書き込みと外部ページを比較したわけではないのですが。。単に賞を並べただけだったら、ノート:安藤忠雄あたりに問題ないのではないかという話が書いてありませんでしたっけ? (違っていたら済みません ^^;) 取り急ぎ。Tomos 11:58 2003年12月12日 (UTC)
- ありがとうございます。議論を一通り拝見しました。そちらの内容をこのページの場合に当てはめると、
- まるまる同じ文章なので、転載であることは間違いありません。その上で、
- 「受賞歴」 - 機械的なものなのでおそらく問題なし、
- 「略歴」 - 年代順に配列しているわけでもなく、著者にとって印象的なことを取捨選択して人物像を描いており、明らかに独自性が見られるものなので、著作権侵害の可能性ありに相当する内容と思いました。
- ただ、今日になって気づいたのですが、転載元サイトの「連絡先メールアドレス」と、このページに転載された方のハンドルが同じなので、ご本人による書き込みの可能性が高いようです。気づかずに失礼しました。こういうときは、気にせずに、また記事を育てはじめていいでしょうか?Dora 07:57 2003年12月13日 (UTC)
- ありがとうございます。議論を一通り拝見しました。そちらの内容をこのページの場合に当てはめると、
個人的には投稿されたのがRonaさんなら心配いらないと思いますが、誰であれ既にそれなりの期間活動している方であれば、ノートのページに行ってお尋ねするのも手かと思いますがどうでしょう? それでも場合によっては、一応念のため外部サイトの制作者の方にメールを出して確認した方がいいかな、と思うこともありますし、そうしていけない理由などはないと思いますが。Tomos 08:04 2003年12月13日 (UTC)
- なるほど、そういうものですね。ご指摘ありがとうございます。だんだんとそのへんの感覚がつかめてくると思います。サイトに問い合わせしてみようと思います。結果はここに。Dora 09:01 2003年12月13日 (UTC)
どうも、Ronaでございます。ご推察の通り http://www.ronax.net/ 配下のコンテンツは私の著作物です。ウィキペディアへの転載については、著作権者自身によるものであり、私自身もウィキペディアに転載した文章が以後GNU FDLに基づいて取り扱われることを了解していますので問題ありません。
このことをあらかじめノートなどで表明しておくべきでしたね。
書き込んだ当時、身を明かすことになってしまうためちょっと躊躇したのですが、結果的に
みなさまのお手を煩わせることになってしまって申し訳ありません。Rona 10:10 2003年12月13日 (UTC)
- どうも騒いだ当人です。みなさま、私こそお騒がせいたしました。ごめんなさい。一応、ノート:わさびに倣って、ノートのトップに短く告知を出させていただきました。気になることがありましたら告知文の修正お願いいたします。あるいは、ご本人のコメントあるので余分かな?Dora 12:28 2003年12月13日 (UTC)
祖父に関する記述について
[編集]現在、略歴節に「祖父の色川圀士は文部官僚」とあり、典拠として挙がっている飯沢匡著『権力と笑のはざ間で』にも、飯沢の伯父で文部省の役人だった湯本武比古の同僚・色川圀士が武大の祖父だとする記述が確かに見られます。しかし、武大の父で海軍士官だった色川武夫(1885-1981)は実業家・色川誠一(1850-1909)の継嗣であるとする文献が複数ある一方(『贈従五位色川三中翁略伝』15頁、『明治過去帳』1119-1120頁、武石光三郎編『茨城県紳士録』132-133頁)、武夫と圀士との親族関係を裏付ける文献は発見できません。
- ※飯沢以外には、1984年に武大と対談した色川大吉が武大の系譜について“三中-三郎兵衛-圀士-武夫”と述べています。(『色川大吉対談集 あの人ともういちど』所収「イロイロ対談 : 色川武大」)。この対談で武大自身は飯沢の母が祖父・三郎兵衛の妹だと発言しており、祖父の名前が大吉の説明と一致しないのですが、いずれにしても、衆議院議員を務めた実業家・色川三郎兵衛(1842-1905)は色川三中(1801-1855)の養孫であり、彼のもうけたとされる三男三女の中に圀士や武夫の名は見あたらず、また飯沢の母=伊沢多喜男夫人も妹ではなく三女のようです(前掲『贈従五位色川三中翁略伝』15-16頁、永山正「色川三郎兵衛英俊翁小伝」『土浦文学』第23号、同「色川三中以後の色川家の系譜について」同誌第24号)。武大が対談の翌年に発表した「復活」には、「父」が自らの系譜を“御蔭-誠一-自分”だと語るくだりがあり(『色川武大 阿佐田哲也全集2』所収)、大吉もその後、武夫が色川御蔭の孫だと書いている(1992年刊『自分史』117頁)ことから考えても、対談での両者の発言は正確性に疑問があります。
色川圀士(1845-1919)の系譜がつかめないので確たることは言えないのですが、武大の祖父であることを裏付ける文献が提示されなければ、この記述は疑わしいものとしてひとまず除去することが適当と思います。--庚寅五月(会話) 2016年10月31日 (月) 22:00 (UTC)