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ノート:芙苑晶

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これからの編集方針について提案

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一例として挙げますが、現在の版(2009年5月6日 (水) 03:59に校正された版)においては、全体に根拠不明な改竄で、結果的に、ニュアンスはおろか、意味さえも変質してしまっています。

今回に限らず、新版に校正するのであれば、芙苑晶氏の場合、早くから海外在住で、なおかつ前衛的な仕事をしている作曲家であり、世界初といわれる仕事もいくつかある特殊なアーティストなのだから、執筆者は、まずはその専門分野の勉強(J.S.バッハに始まるクラシック、現代音楽、前衛音楽から、プログレッシブ・ロック、さらに、テクノ、アンビエント、トランスに至るまでの音楽史と、例えばかつてのフランク・ザッパやジャン・ミッシェル・ジャール等における音楽ジャンルのクロスオーバー実験、現代音楽における前衛の時代以後の折衷主義、ポスト・モダンの芸術観といったもの)を全てきちんと研究した上で、なおかつ、作品もしっかり聴き、英語をはじめとする外国語圏のサイトも全部調べてから、責任をもって、なおかつデリケートに執筆すべきであると考えます。

前述の版がどのような意図をもって改竄がなされたのか、詳らかにしませんが、しかし、理由の如何を問わず、今回のように表層的な言葉の羅列と組み合わせだけで粗雑な改竄をすると、ニュアンスが崩れ、知らない第三者が見た場合、誤解さえ生みかねません。生かじりの知識によるイージーな改竄はそのまま改悪につながることを、執筆者は自覚すべきであると思います。

また、最近では日本語圏のサイトにおいて、例えば「レイヴ聖典 Rave Scriptureの「eメール書簡集」に見られるようなブログ的な活動もあるようですが、本来作曲家なのだから、そういった(本来の活動から言えば、やや通俗的とも言えるような)活動から作家性を判断すべきではないと思います。とくにこの人の場合、ソロアルバムの作品世界の独創性・発明性に関する評価は重要と思われます。

作家の作品の作風や個性を表記するのは「クジャク用語」などではないし、以前にもPR的であるなどという異論があったようですが、これについてもほぼ同様のことが言えます。例えば、ギュスターヴ・モローの絵を幻想的・耽美的と形容するのが「クジャク用語」でしょうか。「中立的な観点」には賛成ですが、必ずしも具象的・散文的な「意味」や「史実」だけが読者に伝わればいいのではなく、作品世界の構築とその表現をむしろ客観的に伝えるにおいて、精妙なニュアンスが必要な項目もあることを、まず大前提としてご理解いただきたいと思います。とくに芙苑晶のようなアーティストの場合、そう言えると思います。

よって、同様に、文脈・文意、ならびに文章のリズム感というものがあるのだから、文章の流れにおいて「繰り返し」的に見える内容もまた必要は場合があると思います。(これでもかなり要約して書いています。ほんとうはもっと複雑かつ精妙だと思います)

また、前述の版においては「検証不能」とありますが、当然ながら、「検証」もいくらでも可能です。ただしこの場合、英語を読める必要はありそうですが。その根拠となる注釈を最新版(2009年5月12日校正の版)において追加しています。

今後、校正をする執筆者は、すくなくとも音楽(とりわけ、クラシックにおける組曲形式、とくに交響詩、前衛派の現代音楽~プログレッシブ・ロック~テクノ、とりわけ、いわゆるクラブ・ミュージックとしてのテクノよりは、いわゆるBerlin School系のヨーロッパの電子音楽等とその歴史的流れに対する理解は絶対必須)にかなり専門的に精通していること(なおかつ出来れば英語に堪能な執筆者であること)が、公の場での執筆者の必要最低限の資格として要求されると思います。

また、これまでどちらかと言えば海外での評価が先行してきた「逆輸入的」な作家であるし、ある点では今もなおそうであるし、それだけに、個別の事項の検証に関しては、すくなくとも執筆者は英語版のWikipedia等の資料をきちんと読んでからに、慎重かつデリケートに執筆していただきたいと思います。

また、かかる一連の意味において、「日本の」という言葉は不要です。日本人であることは名前を見れば誰でもわかるし、経歴の項目を見てもわかるとおり、「日本人」ではあっても、早くからすでに「日本の(国内でのローカルな活動を主体とする)」作家ではないからです(あえて書くとすれば「カナダの」とでもすべきでしょうが、これはおかしいので、末尾に「カナダ在住」としました)。

また、冒頭の部分に関しては、あきらかにおかしい文章なので、元に戻しました。「電子楽器やシンセサイザー」という並べ方は形容矛盾で、「服やTシャツ」と言っているのと同じであり、電子音楽をちょっとでも知っている人が見れば、これは誰が見ても変ですし、また、「シンセサイザー音楽」や「テクノ」や「クラシック」などと初手から断定するのも、日本語圏においては危険な偏った誤解がありそうに思われます(音楽ジャンルの語義とニュアンスは、国と文化圏によってズレるため)。作家の作品世界のニュアンスからいって、あえて公式な表現として言い切るならばむしろ「トランス」のほうがずっと近いのではないかと思います(Yahoo Japan の登録カテゴリにも依拠)。

そこで、考慮の上、前の版ではあえて、「電子音楽、トランス」と書いたのです。「電子音楽」の中に、すでに「現代音楽」つまり「現代のクラシック」が含まれています。なおかつ、冒頭の要約には、「現在の仕事」に近い内容をメインに書くべきであるから、公式サイト芙苑晶公式サイトや公認ファンサイト芙苑晶幻想音楽大鑑におけるプロフィールを参照しつつ、やはり元の版に戻したうえで、さらに新しい情報を加筆しました。

「過剰リンク」との指摘がありましたが、他のページと比べてとくに多いとは思われません。ただし、それ以前にすでに「PR的」表現に見えるのではないかとの指摘があったようなので、その時点で根拠を示す意味もあって、あえて細かくリンクを貼っています。誰もが知っているような語彙は少ないからです。

また、評価の根拠に関しては、英語圏のYahoo等で検索すると、専門の音楽サイトでのCDのレビューやインタビュー等で、Jean Michel Jarre、Mike Oldfield、Vangelisといった一流どころのシンセサイザー音楽家たちと並んでその革新性・独創性・クロスオーバー性が評価されていることも明らかです[1]。公式な資料と思われる海外サイトの一例として「[http://www.pugachov.ru/eem/an.html Encyclopedia of Electronic Music」を挙げておきます。海外Amazon等のサイトにおけるアルバムの公式レビューの中に引用された90年代以前の評価等にも、同類の評価がしばしば見られます。

こういうアーティスト(西洋のクラシック音楽、とりわけシンフォニーの理論と美学に依拠し、組曲スタイルでテクノ寄りの電子音楽を創る)は日本人では稀で、私の知る限り日本人の音楽家としては史上初ではないかと思われます。以上が、インターナショナルな評価を指摘する根拠です。

また、シンフォニック・テクノ(英語版Wikipedia > Symphonic Techno)等の新ジャンルや新手法の発明に至っては、現在のところWikipediaは英語版だけしか存在せず、長らく日本語版自体まだないほどです(現在研究中です)。他にもそういうもので、日本語圏であまり知られていない語彙がいくつか存在します。革新性を指摘する根拠がここにあります。

外国語が読めない方は、日本語圏では公認ファンサイト芙苑晶幻想音楽大鑑があります。現在のところ、日本語圏ではこれが最も信憑性の高いと思われる資料であるので、併せてそちらを参照されるとよいかと思います。

--faun (1970年代以後のGerman Electronic Music を主体に、ポスト・モダン・ミュージックとしてのテクノ、電子音楽、ならびに前衛音楽を研究しています。かつて音楽学・芸術学専攻、以後、前衛派のロック音楽雑誌での執筆経験、海外在住の経験あり。いずれまたプロフィールを書くつもりです。)

(2009年5月12日)

出典

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  1. ^ Encyclopedia of Electronic Music > AQi Fzono


こんにちは。当記事に対するfaunさんの情熱は十分に理解いたしました。しかし、ウィキペディアは百科事典を作るプロジェクトであって、宣伝をしたり、演説をするための場ではありません。現状の表現ですと百科事典というよりもあなた自身の主観に近い内容になってしまわれているのではないでしょうか。主観的な内容ですと、数万人のウィキペディアンがそれぞれの個人的主観や憶測を加筆できる状態になってしまい、百科事典的ではなくなってしまいます。当記事を百科事典的に充実させるためにWikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:素晴らしい記事を書くにはWikipedia:大言壮語をしないWikipedia:中立的な観点をご参照下さい。また、音楽家の伝記についての表記スタイルについてはWikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家Wikipedia:ウィキプロジェクト 人物伝をあわせてご参照下さい。なお、私などは音楽的知識においてとてもfaunさんのレベルには及ばないようですので、これ以上この記事の執筆、修正は致しません。しかし、内容が百科事典的に整理されるまでテンプレートを貼付させていただいた上、継続してウォッチしていく所存です。それではご理解とご協力をよろしくお願いします。--オクラ煎餅 2009年5月12日 (火) 03:35 (UTC)


ご意見有難く拝読いたしました。

しかしながら、「主観に近い内容」とか「宣伝的」等々とのことですが、結論から申しますが、どこが問題なのか、正直言ってよくわかりませんでした。すでに「これからの編集方針について提案」の中でも説明しましたとおり、英語版Wikipediaにおいてすでに充実した記事も書かれており(現時点で日本語版より充実している)、海外でもその他の公式なレビューや評論サイトに評価が出ているアーティストであって、「主観」ではないことを充分説明したつもりですが、それをご理解いただいたうえでのタグ貼付でしょうか。

たとえば今回のヴァージョンで、具体的にどこが問題でしょうか。表現の仕方でしょうか。たとえば「国際的」とかそういう部分でしょうか。

たとえば、そのような語彙に関して申しますと、「百科事典的な内容」の意味は私も充分理解しているつもりですが、しかしすでに述べたように、英語版Wikipediaの同ページにおいて、「international following」「groundbreaking musical methodologies」等々と出ていますし、他にも根拠や出典を列挙して説明したとおりで、とくに「誇張」などではなく「事実」だと思いますし、私自身はとくに問題があるとは思えませんでした。

念のため申し上げますが、芙苑晶氏は私の興味ある研究対象の項目のひとつではありますが、広告宣伝などというつもりは毛頭ありません。むしろ逆です。

「これからの編集方針について提案」の中でも説明したとおり、作品の多層的な解釈が可能な作家であること、また、逆輸入的であったがために、散文的にすぎる書き方はかえって誤解を招くと言いたかったのです。もしそうなった場合、どちらが最終的に「客観的」と言えるか、という問題もあるかと思います。

かつては、海外での活動が主体であったため、日本での「一般的」知名度はそれほどなかったと思ったので、控えめな表現にしていましたが、当時と比べて今は知名度も上がってきていると思います。なので、とくに問題があるとは思えませんでした。

なので私自身はどうも納得が行かないテンプレート貼付ですが、ここはいったん「中立的な観点」を取るべきかとも考えます。

具体的にどの部分が問題なのかは不明ですが、誇張表現に(見る人の知識にもよると思いますが)「見られかねない」と思われる部分を可能な限り削除したヴァージョンを作成し、アップロードいたします。

基準としましては、前の大幅に改訂されたヴァージョンにおいてご指摘がありました、「有名」等々の語彙を削除もしくは変更しています。また、エピソード的なものをいくつか削除しています。

そのうえで、今のままだとイメージが悪いかと思いますので、いったんテンプレートは削除させていただきます。これでいかがでしょうか。

前版とよく比較の上、慎重にご検討願います。私自身も、貴重なご意見として拝聴しまして、次回からは執筆者の一人としてより客観的に臨みたい意向です。 しかし、次にテンプレートを貼付される前に、まずは、「どこが問題なのか」を、具体的に指摘していただけますか。ご指摘がありましたら、この版の主たる執筆者である私の責任において、その語を変更もしくは削除する方向で検討することは可能です。そのうえで、現在の版を基準に「中立」の方向へ持って行くことで、ご指摘の「百科事典的な」内容へと移行していくのがベストかと存じます。

(私はこれでとくに問題ないかと思います)


--faun (2009年5月12日、夕方)

2009年5月12日の追記(2)

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追記(2)

「百科事典的な」とのご指摘がありましたので、よりその方向で再検討したうえ、さらに校正したヴァージョンをアップロードしています。

前々回ご指摘のあった「クジャク用語」と判断されたかもしれない部分として、例えば、本文中「作品世界」の中の「幻想的」や「壮大なヴィジョン」などの語彙に関しては、作家の作品の作風を形容する語彙に過ぎないと私は考えました。

作風とその評価に関しましては、これもすでに「これからの編集方針についての提案」においてすでに説明していますが、芙苑晶氏の場合で言うと、やはり英語版Wikipediaにおいて、その作風の形容として、「vast-scaled」(「壮大な」)と記されていたり、日本においてもファンサイト等のページを参照しても、そのような評価がよく見られるようです。なので、繰り返しますが、けっして私個人の主観としてあのように書いたわけではありません。

むろん、これすらも、見ようによっては、「誇張表現」であるかのように受け取られる方も、中にはおられるかもしれません。そこで今回、同傾向と評されることの多いと思われるシンセサイザー音楽作家(ジャン・ミッシェル・ジャール、ヴァンゲリス、クラウス・シュルツ、ピート・ナムルック、その他)の、日本語版Wikipediaのページを参照しつつ、「作品世界 (ソロアルバム)」を、より客観的、より精妙な表現へと移行してみました。これでいかがでしょうか。

今後の編集方針としては、いずれ、「作品世界 (ソロアルバム)」の項目は消したほうがいいかもしれません。その代わりに、たとえば、「経歴」のあとにつづける形で「音楽性とその国際的評価」(日本語版Wikipediaで言うと、たとえばヴァンゲリスのページなどに見られるスタイル)といった項目を設置し、そこで、より「百科事典的」かつ、より精妙な文章表現を心がけつつ、なおかつ、今回ご指摘のあった部分に関し、専門用語による記述を主体として、より「客観的に」解説し、これまでの記述が私個人の「主観的意見」ではないことも併せて証明してゆきたい所存です。

以上、よろしくお願いします。

--faun (2009年5月12日追記)

当記事の2009年5月12日 (火) 11:18版を拝見いたしました。以前よりは百科事典的になってきましたが、まだ修正の余地はあります。例えば芙苑晶の作品が「幻想的大作」であることを記述したいのであれば、「音楽評論家○○は芙苑のアルバム『○○』を幻想的大作であると評した[1]。」であれば何の問題もありません。faunさんにおかれましては「ある人にとっては幻想的に聞こえるかもしれないが、他の人には幻想的に聞こえない可能性がある」という事を今一度念頭に入れていただいた上、中立的な観点に留意して執筆していただきたく存じます。なお、文頭のテンプレート(タグ)をはがす行為はWikipedia:荒らし#論争タグの不適当な使用に当たります。再び貼付しておきますので、「十分に百科事典的記述である」という合意が形成されるまではがさないで下さい。十分に百科事典的記述になったかどうかはWikipedia:コメント依頼で第三者に確認してもらうことが出来ます。あわせてご参照下さい。--オクラ煎餅 2009年5月13日 (水) 05:08 (UTC)

脚注

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  1. ^ 『○○マガジン』200X年○月号、○○出版、○○ページ

2009年5月13日の追記

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2009年5月13日の追記

私としてはすでに、最初の「これからの編集方針について提案」ならびに、「2009年5月12日の追記(2)」において、再三申し上げたとおりですが、もう一度最初からご説明します。

現在の版において書かれている項目は、すでに申し上げたとおりで、すべて、公式な出典や根拠が存在します。私個人の「主観的記述」によるものは、一つもないと言っても過言ではありません。

すでに申し上げたとおり、ありていに言って、英語版のWikipedia、海外サイト(FM放送局等)でのインタビュー、ならびに日本語圏におきましては芙苑晶公式サイト、公認ファンサイト等々にあるプロフィール、バイオグラフィ等々を叩き台にし、それを日本語版にまとめただけ、のようなものです。

たとえば、いちいち説明するときりがないので、今回例に挙げられました、「幻想的大作」なる語彙を例にとって説明してみましょう。

これもすでに申し上げたとおりで、英語版Wikipediaにおいて、「his spacey and vast-scaled instrumental Electronic music album series that project a visual atmosphere has an international following」と明記されています。これが基本となる出典のひとつです。

その他、日本語圏においては、それほど多くはありませんが、公式サイト、公認ファンサイトをはじめ、いくつかの関連サイトにおいて、同様の記述が見られます。

すでにリンクを貼ったEncyclopedia of Electronic Music > AQi Fzonoは、公式なレビューサイト(というより百科事典)とであると思いますし、ここにもすでに、「This Japanese artist fuses several styles together and mostly creates rather pompous and over-the-top compositions where one can hear influences of symphonic music, Progressive Rock, melodic Electronic Music of artists like Jean-Michel Jarre and Trance / Dance music. I am sure at least some of it will appeal to fans of Jarre and Oldfield.」とあります。

他にもいくつかありますが、パブリックなものとしては以上のような例が挙げられます。

つまり、ありていに言って、すでに現在の時点で、ある程度公式な評価として定着していると見られる語彙をそのまま表記としただけであって、それすらも「中立的な観点」からは外れるとお考えでしょうか。この点、まずはご回答いただきたく存じます。

また、おっしゃるとおり、「ある人にとっては幻想的に聞こえるかもしれないが、他の人には幻想的に聞こえない可能性がある」というようなことは、当然ありうるでしょう。しかしそんなことを言い出せば、他の記事、とりわけ、音楽家や芸術家の作品の作風について書かれた表記は、どうなるでしょうか。他のページを例にとって説明します。

たとえばですが、

アモン・デュールの、「アモン・デュールI」における、「寂寥感が漂っている

アラン・パーソンズ・プロジェクトの、「プログレッシブ・ロックを彷彿とさせる壮大なスケールのサウンドと、ポップで聴きやすい音楽」

ピート・ナムルックの、「壮大な作品も多い

これらには、とくに脚注さえ付いていませんし、「大言壮語」タグなども貼られていませんが、どうお考えになるでしょうか。オクラ煎餅さんなら、これらのページにも同じタグを貼られますでしょうか。

私が引用した記事と、芙苑晶の記事とのちがいは、Wikipediaのページのトップの見出しに来ているかどうかということがあります。それを問題にされているのでしょうか。

あるいは、説明に繰り返し的記述があるといった点でしょうか。ただ、これもご説明申し上げたとおり、作品の多層的・多義的な解釈が可能な作家であるという点で、丁重な解説がなかった場合、むしろ即物的になってしまい、それがとくに日本語圏にあっては誤解を招くであろうと判断したため、あえてこのようにしたということもすでにご説明しました。

しかし今回再び「大言壮語」タグが貼られましたね。となりますと、これ以上私が説明しても、水掛け論のようになりそうです。

なので、私自身は依然、納得がいかないものがありますが、しかしながら、とりあえず、ご指摘のあった部分ならびに、それに類すると思われる部分を外したヴァージョンを、アップロードしてみました。これでよろしいでしょうか。もし他にも問題点があると思われるなら、ご指摘ください。

--faun (2009年5月13日追記)

2009年5月13日の追記(2)

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さらにのち、本文全体にわたって数度にわたる校正を試み、私の考えられうる限りシンプルにしてみましたが、これでいかがでしょうか。

なお、現時点でアップロードされたものを見てみましたが、おそらく誰が見てもこれでは「広告宣伝」とか「大言壮語」とは言えない内容になっていると思われます。しかしながら、ご指摘にしたがい、「大言壮語」タグは外さず、そのまま残してあります。

すると、知らない第三者が見た場合、これも逆に奇妙な状態ですね。私もご指摘にしたがい、なるだけ早急に対応しました。タグを貼られたのはそちら様ですので、なるだけ早急に対応していただけますよう、お願い致します。

--faun (2009年5月13日追記)

faunさん、ご返答ありがとうございます。一つ一つ回答させていただきます。まず、faunさんの主張は理解しておりますので説明の繰り返しはしていただかなくて結構ですよ。また、当方は当方とfaunさんの主張が平行線をたどっているとも認識しておりません。当記事はfaunさんの精力的な編集により、より素晴らしい記事に近づきつつあり、それはfaunさんが当方の主張を理解していただいたからであります。改めて感謝申し上げます。しかし、ただ一点見解の相違があります。Wikipediaにおける記事は「英語版のWikipedia、海外サイト(FM放送局等)でのインタビュー、ならびに公式サイト、公認ファンサイト等々にあるプロフィール、バイオグラフィ等々を叩き台にし、それを日本語版にまとめただけ、のようなもの」では十分ではないのです。どこかのサイトや著作物の丸写しということであれば著作権ルール違反による削除の方針に該当しますし、英語版から翻訳する際も、Wikipedia:翻訳のガイドラインに従わなくてはなりません。また、「幻想的大作」はそれだけだと個人的な「意見」とみなされてしまう可能性がある事を否定できない表現ですが、「誰々は幻想的大作だと評した」であれば、それは「事実」になります。ですから、「作曲家・武満徹は、高校生だった芙苑晶に会っているが、当時武満は芙苑晶を「たぐい稀な、悪魔的な天才・・・」と評した」部分のように書き換えていただければ全然OKなのです。ですから、現状の問題部分「しばしば映画制作にも例えられる」は「音楽専門誌『○○』において評論家○○はこの作品の壮大さを映画制作になぞらえた。」であればOKですし、「一部で天才少年と評価されていた。」も「武満は彼を天才少年と評価した」であればOKであります。後は細かい話で恐縮ですが{main}テンプレートの位置などWikipedia:スタイルマニュアルにのっとり微修正すべき点があります。
また、アモン・デュールアラン・パーソンズ・プロジェクトなども当然修正の必要がありますね。また、タグについては、当ノートページにおいて「この記事は宣伝や大言壮語ではない」という合意が形成され次第はがすことができます。当方とfaunさん二人だけでは当然ながら合意形成も適わないので、十分な修正を行っていただいた後Wikipedia:コメント依頼で広く第三者にコメントを求めましょう。それではfaunさんの精力的な執筆活動に期待しつつ一旦筆をおかせていただきます。--オクラ煎餅 2009年5月13日 (水) 10:10 (UTC)

2009年5月13日の追記(3)

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「見解の相違」とされた部分に関し、理解いたしました。要は、意味内容そのものよりは、「Wikipediaの書き方」の原則に反する、とのご指摘ですね。そのご指摘にしたがい、今回再び校正を試みました。これでいかがでしょうか。

今回ご指摘の点について、一つ申し上げますと、前述のとおり、僭越ながら私は音楽のある分野については専門家に等しい知識を持っていると自負しておりますし、過去にプロの執筆者としての経験もあるため、文章構成等それ自体は問題ないかと思っております。

しかしながら、おっしゃっている各種「Wikipediaのルール」のようなことそれ自体に精通しているわけではなく、これに関しては目下勉強中です。とくに、「合意形成」ならびに「コメント依頼」に関しては、私は未経験です。この点では逆に、オクラ煎餅さんのほうがはるかに慣れておられるようですし、また、元々は、私の執筆した版を大幅に校正され、タグを貼られたのもオクラ煎餅さんでしたので、「合意形成」ならびに「コメント依頼」のほうをお願いし、これにて解決の方向としたいと思いますが、よろしいでしょうか。

--faun (2009年5月13日追記)

了解いたしました。では当方が合意形成のためコメント依頼に出しておきます。--オクラ煎餅 2009年5月13日 (水) 17:41 (UTC)
諒解しました。--faun 2009年5月14日 (木)

広告宣伝活動および、大言壮語タグ除去について

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2009年5月12日 (火) 02:16版では広告宣伝活動的、大言壮語的でありタグを貼付しましたが、数回の編集を経て徐々に記述が整理されてきました。よってタグ除去の是非について合意を形成したいと思います。タグをはがしてよいと判断される方は 賛成 票を、まだはがすべきではないと判断される方は 反対 票を投じて下さい。また、その際に理由も書き加えていただくとありがたいです。1週間程度の審議期間を想定しておりますのでよろしくお願いいたします。なお審議期間中に反対票が寄せられなければ当案は承認(黙認)されたとみなし、タグを除去します。また、こうした議題ではしばしば議論が白熱することがありますのでWikipedia:礼儀を忘れないを心の片隅に留めおかれますよう重ねてお願いいたします。--オクラ煎餅 2009年5月14日 (木) 03:47 (UTC)

賛成 コメント依頼より参りました。タグ貼付当時にあった「~といった評価を得ている」などの出典の明記されていない評価に関する記述がほとんど削除され、客観的な事実と思われる内容や表現で構成されているように見受けられますので、タグの除去に賛成致します。--Decrux 2009年5月15日 (金) 02:45 (UTC)[返信]
チェック 1週間の審議機関を経て反対意見が寄せられなかったためタグを除去しました。--オクラ煎餅 2009年5月21日 (木) 17:33 (UTC)