ノート:落ち武者狩り

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「落ち武者狩り」の不明な点[編集]

落ち武者狩りは、歴史研究の進んでいない分野で、専門書1冊なく多くの歴史事典や小学館の百科全書を見ても項目もありません。学術論文を検索してもありません。今回は、清水克行氏と藤木久志氏の歴史書を中心に書いたわけですが、そのため多くのことが不明のままです。研究者の方、調査・研究いただき、新書などで出版していただけないでしょうか。--奈良たかし会話2015年3月30日 (月) 08:00 (UTC)[返信]

  1. 首に懸賞は、かけられたか。関ヶ原の合戦後は石田三成宇喜多秀家島津義弘を捕らえたものは永年貢免除、捕らえられない場合に討ち果しを公認し、金子百枚が賞金にかけられました。それ以外は隠れ場所を通報せよとの触れですが、太閤政策以後ですし、三成だけが通報という形で捕縛されます。
  2. 首は領主側に差し出せたのか。本能寺の変後、光秀の首は、藪の中で百姓に発見され村井清三を通じて支配側となった織田信孝に差し出されました。百姓の直接ではないわけです。また、秀吉は「18日浅野長政宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」「浅野家文書」」としていて、それほど一般的ではなかったようです。
  3. 領主側は取り締まれなかったのか。そういう動きはあったのか。
  4. 各地でかなり膨大になるだろう略奪した装備品の売買ルートはどうしていたか。
  5. 襲撃慣行が無くなっていく過程での惣村内と社会の動き。
  6. 最後の落ち武者狩りはどこか。
  7. ヨーロッパ中世との比較。