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ノート:落語協会分裂騒動

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これだけの分量を一人で書いて、参考文献が1つも無いのが不思議。

内容に?

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とても百科事典の一項目といえる代物ではない。 個人研究の類ではないかと思える。 削除すべきだと思う。

「現在でいえば、**を連れて来て戦うと言っているようなものである。」 「普通に多い」 と、問題のある表記があり、私も削除すべきだと考える。--Asiaham 2008年8月1日 (金) 19:15 (UTC)[返信]

昭和の落語界の大きな事件であり、削除する必要はないと思います。が、円生を一方的に非難する記述方法や明らかな事実誤認が多く含まれており、 問題が多い項目だと考えます。文献を引用しつつ訂正をしたいと考えていますが、どうでしょうか。--Tenten0927 2008年11月12日 (水) 11:34 (UTC)[返信]

大幅に訂正・書き直しすることに賛成です。私はこの事件については詳しくないので、事実誤認等についてはよくわかりませんが、個人研究の類でないかとの意見は同感です。
また、騒動を知らない立場からすれば、あまりに枝葉末節の記述が多すぎるように思います。最初に騒動全体の流れをおって、細かいところは別の項として記述するなどしていただければ、分かり易くなるのではないかと思います。とはいえ、この騒動に関しては文献も持っておりませんし、詳しい方に編集をお願いできればありがたいです。--Macotokoh 2009年2月4日 (水) 08:06 (UTC)[返信]

失礼しました、 あまりに間違いが 堂々と掲載されて おり、むきになって 編集してしまい ました。 tatantotanto

編集ルールや書式を守ってください

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Tatantotantoさんの編集なのですが、Wikipediaの書式や編集ルールを全然守ってくれないので、結果的に記事破壊になっています。私とTatantotantoさんは概ね同じ方向性で編集しているはずなのですが、ルールを覚えてくれないTatantotantoさんの尻拭いをするのにうんざりしてきました。

  • ソースでブツブツ改行すると文字と文字の間に変なスペースが空いてしまいます。段落の終わり以外では無闇に改行しないでください。
  • 細かい変更のたびに「更新」ボタンを押すのはやめてください。「プレビュー」ボタンを押して表示を確認しながら編集し、ある程度まとまったところで「更新」ボタンを押すようにしてください。
  • 記述には出典をつけるように心がけてください。また出典のある記述をいきなり除去するようなことはやめてください。
  • 記事に変な編集報告のようなものを書くのはやめてください。言いたいことがあるならここ(ノートページ)でお願いします。

というか、そもそも履歴とかノートページの見方とか知ってますか?--114.48.190.48 2010年5月13日 (木) 15:25 (UTC)[返信]

横から失礼いたします。最近の更新で見かけたもので、ここに来ました。編集内容については、私はこの方面について詳しくないので意見はしません。で、何が言いたいのかと言いますと、このようなコメントはノートページに投稿するよりは、相手方の会話ページに行ってあげた方が親切なのではないかな、と思いました。その方が本人が気が付いてくれる可能性が高まります。ですが、ここで第三者の意見を募るのもいいかもしれませんね。-- (TalkHistory) 2010年5月13日 (木) 15:35 (UTC)[返信]
アドバイス有難うございます。Tatantotantoさんの会話ページの方にも、「ここを見てください」と書いておきました。--114.48.190.48 2010年5月13日 (木) 15:54 (UTC)[返信]

特定(単一)の編集者に向けたメッセージ、なおかつ解決済みのようですので、記事冒頭の「お願い」テンプレ-トは除去しました。--Eros618 2010年8月23日 (月) 19:08 (UTC)[返信]

圓楽一門会に関する記述をここに移しました。

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圓楽一門会に関する記述が過剰に見えましたので、当ノートページに移しました。一律に削除するのも勿体ない様な気がしたので。

以下。---

圓楽は寄席文化の復興を謳い、1985年4月に私財を投じて東京都江東区に寄席若竹を開場させた。しかし弟子達が生活のためもあって余興に専念したことや採算面の問題などから、1989年11月25日に開場から4年余りで閉鎖となり、圓楽は借財を負う羽目になった。若竹閉鎖後、圓楽は寄席復帰を鈴本など各方面に働きかけ続けた(圓楽は騒動前の1971年8月から鈴本演芸場で独演会を行っており、騒動で一旦は中断したが1978年10月から再開し1984年まで続いた)が、事態は動かなかった。その後圓楽は2005年10月に脳梗塞を患い、2007年2月25日の高座をもって引退を表明、2009年10月29日に没している。

引退後も圓楽が一門会に影響力を残していたことに加え、騒動の際に圓楽と共に落語協会を脱退した圓楽の直弟子達(1978年5月の時点で鳳楽(脱退当時は楽松)、圓橘(脱退当時は友楽)、楽太郎が二つ目、楽之介(脱退当時は賀楽太)が前座であった)が健在であることから、落語協会と円楽一門会の対立は現在でも根強く残っている。その一方で、2010年に楽太郎が6代目圓楽を襲名するに当たり、「笑点」で共演する落語芸術協会会長である歌丸や副会長・三遊亭小遊三のラインから落語芸術協会の協力を得て、3月下席に新宿末廣亭、4月上席に浅草演芸ホールで襲名披露興行を行う事が決まるなど、芸協との関係も注目される。この興行には6代目圓楽の襲名披露口上のほか、鳳楽、好楽などの圓楽一門の落語家も交互に出演する予定。

---以上。むしろ、『円楽一門会』のページにお書きになったらどうですか、コレは。 それにしても、他の方もおっしゃっている様にこの記事は全体に枝葉末節の記述、憶測や個人の意見が多すぎると思います。エッセイを書いてるんじゃないんだから。--DY28D35会話2012年6月5日 (火) 08:50 (UTC)[返信]