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ノート:藤原清衡

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義家による奥州戦略

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義家と清原氏についてですが、鎮守将軍府であつた武則のあとを継いだ真衡の専横に姻族の吉彦秀武が出羽で立ち上がり家衡は吉彦側につきましたが、陸奥守の義家は、調停役でなく真衡を助けることにしました。朝廷は義光の援軍を許可しなかったことをみても分かる様に義家が勝手に戦をしたと解釈しました。清衡と家衡についても本来の奥六郡嫡流の家衡よりも清衡に有利に分割し、またまた抗争の火種をつくりました。このことに関して出典を明らかにということですが、私の会話ページに怪蘇さんなどがおっしゃっているように源氏の棟梁としての義家の動きと、全体の歴史の流れから編集しました。従いまして、ろうさんのおっしゃるられるのは、原典の出自をお求めかと存じます。吾妻鏡等は、いわゆる勝者の書です。ここに義家の煽りが書かれていないのは、当然であります。沼柵や金沢柵の戦いのときは、武衡は、家衡側に、吉彦秀武は、義家の勧めで義家軍に参加しています。よって後三年の役は、清原氏の私闘と源氏勢力拡大の争いと位置ずけられています。関東武士に対する恩賞も朝廷ではこれを認めず義家は、自分の土地や金子でまかない、信頼を集めその後の源氏の基盤を作りました。ともあれ、史実から逸脱しているとも思えませんが、ろうさんのご指摘もふまえて表現に工夫をして見る必要はあるのかなとは思います。--papamaruchan22 2006年10月17日 (火) 12:48 (UTC)[返信]

いや、すみません。私の言いたかったことは、「煽った」と断定した書きぶりは如何なものか?ということであり、私の意見も概ねPapamaruchan22さん、怪蘇さんと同じです。ただ、私は乱の初期から煽っていたとは思っていないので、出典を求めた訳です。私の理解では(高橋崇とほぼ同意見だが)乱の初期における義家の行動は、巻き込まれただけのように見えるのです。真衡死後の展開は、ほぼ確実に煽っているとは思いますが。そこで断定を避けつつ、煽りを表現するために、以下のようにしてはどうでしょうか?
清原家には、清衡の異父異母兄になる武貞の長子真衡、清衡、異父弟になる家衡があったうえに、吉彦秀武清原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。秀武が真衡に背くと清衡、家衡はこれに同調したため、真衡は陸奥守であった源義家の支援を受けて清衡、家衡を攻めた。清衡、家衡は大敗して逃走するが、直後に真衡が死亡する。清衡、家衡は義家に降伏し、義家の裁定で清原氏の所領を分割相続する。この裁定は清衡に有利なものであったと推測されており、義家が清原氏弱体化を意図し対立を煽ったとする見解が多数存在している。当然、家衡は裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷属を皆殺しにする。義家は難を逃れた清衡に助力し、家衡を滅ぼした。後三年の役は清原氏の私闘とされ、何の恩賞もなく清衡にも官位の賞与も無かったが一族最後の残存者として勢力者となった。時に寛治元年(1087年)清衡32歳の事である。寛治3年(1089年)には、陸奥押領使となり奥六郡を領する。
この表現でどなたも異存がないようでしたら、編集いたします。--ろう(Law soma) 2006年10月18日 (水) 00:30 (UTC)[返信]
編集よろしくお願いいたします。--papamaruchan22 2006年10月18日 (水) 08:56 (UTC)[返信]
報告 完了しました。--ろう(Law soma) 2006年10月18日 (水) 23:53 (UTC)[返信]