ノート:西郷菊次郎
記事修正について
[編集]記事修正について1
[修正前]
「1911年(明治44年)、右足後遺症の余病を理由に京都市長を辞職した。その多大な功績により慰労金を京都市の申し出により受け取ることになるが[2]、それを元手に京都市へ寄付したり[3]、人材育成や地域貢献のための活動資金とした。市長辞任後、鹿児島県に帰郷し、その後島津家管理の山ケ野金山鉱業館長になったものの健康が回復せず1920年(大正9年)に辞職。」
この部分に関して独自見解が多いので、本文のように修正した。理由は、辞職直前に喀血入院しており、右足後遺症の余病だけとは限らない。慰労金を元手に京都市に寄付したりというのは事実誤認。山ケ野金山は菊次郎時代は永野金山である。健康が回復せずという表現は8年間勤めているので確かなことではない。以上。
記事訂正について2
[修正前]
「京都市長時代の邸宅は、聖護院門跡内にあったことが2003年に確認されている[4]。2018年3月、京都市長時代に撮影された菊次郎の家族写真に妹の菊草が写っているとの報道があった[5]。しかし奄美には当該女性の老年期の写真が残されており[6]、47歳で死去した菊草ではないことが明らかである。」
この部分に関しては大野盛郁の日記には「聖護院内ノ西郷氏邸」とあるのみで、聖護院が聖護院町をさすのか聖護院境内の内を指すのか必ずしも明らかではなかった。佐野論文では国立公文書館所蔵の菊次郎が市長に再任する際の履歴書の番地記載を聖護院境内の内にあった手がかりとして考察が進められている。また、原田良子論文(「西郷菊次郎の京都邸宅(菊草の終焉地)について『敬天愛人』第36号2018年、西郷南洲顕彰会刊)でも当時の電話帳に京都市長西郷菊次郎宅電話番号住所欄に「聖護院町聖護院内」とあるところから、聖護院内とは聖護院境内の内を指すことは間違いないと判断し、それを手がかりに考察が進められている。いずれの論文でも大野日記で聖護院内に確認されたとはしていないので、修正前の記述は誤りである。
龍郷町の株式会社「あいかな」HPに掲載される写真は大正末年か昭和初年ごろのもので、明治に死去した菊草が写っていないことは明らかであるが、聖護院北殿前の「菊草」と報道された女性と、この写真の菊次郎右横にすわる女性が同一人物と公式に指摘されたことはない。よって修正前の原文の断定は誤りである。
テンプレート整理
[編集]テンプレートの「称号・勲章」を整理しました。従五位の人物が下位の正六位や従六位を叙されているのは当たり前なのでテンプレートに書くことではありません。外国勲章の勲二等太極章より日本の勲章の方が優先されるので外国勲章を下に移しました。昭和3年11月27日時点で従五位勲四等となったので、勲六等瑞宝章より上位の勲四等を表示しました。--代言人(話/歴) 2021年9月25日 (土) 10:09 (UTC)