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ノート:諏訪原城

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「牧野城改名の理由」復活について

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出典不明とのことで、Dgftrewq7788899さんが全文削除されましたが、出典は『寛政重修諸家譜』(巻第三百六十四・清和源氏支流、牧野)の牧野康成の項の本文中に、「(天正三年)八月諏訪原の城をせめたまひ・・・」とあり、「ここにをいて康成おほせを蒙り忠次とゝもにこの城を守る。・・・また諏訪原をあらため、牧野城と号したまふ。」と明記。由来も同条で、「これ昔周の武王殷の紂王をやぶりしためしをもつて、このとき忠次を周防守となづけ、城をも牧野とあらためたまふとなり」と記されています。

『松平家忠日記』には明記されていないかも知れませんが、江戸幕府公式編纂系譜集の『寛政重修諸家譜』にめいきされているのですから、わたしの記述は復活の妥当性があると考えられますが、どうでしょう?--故城一片之月 2008年1月28日 (月) 14:54 (UTC)[返信]

現地の案内看板に諏訪原城とあるようですけど、家忠日記で、松平家忠が、牧野城と呼称しており、諏訪原城という呼称はないため、別名とするのは、諏訪原城と判断しました。

ご理解できませんか?明らかな誤りであるので、合意は必要ないと思い、記事名移動をしました。

また、三河国の牧野城の呼称も出典不明でしたので、区別の必要があろうかと。--Bbxx6570 2008年1月28日 (月) 15:39 (UTC)[返信]

タイトルの差し戻し;「牧野城(遠江国)」→「諏訪原城」

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このページは合意形成の手続きを経ず移動されましたので、新タイトルの「牧野城(遠江国)」→原タイトルのページ:「諏訪原城」に差し戻しました。また、新タイトルにて全角括弧が使用されたようですが、即時削除のおそれがありますので括弧使用際は半角を使用し、かつ括弧の前には半角スペースを入れて下さい。

なお、改名合意形成のため、改名提案後に1週間の告知期間をあけて、合意形成もしくは意義無きときは改名実施して下さい。なお、手続き詳細はWikipedia:ページの改名を参照下さい。--故城一片之月 2008年1月28日 (月) 15:43 (UTC)[返信]


移動にひとまず反対しておきます。根拠は以下の通り。
  • 国の史跡指定はあくまで「諏訪原城」跡としてなされている(現地の看板はこのため)。
  • 『日本城郭体系』『中世城郭事典』いずれも「諏訪原城」を採用している。
⇒上記二点により、一般的な知名度は「諏訪原城」が圧倒的に高い。また、相応の根拠があって「諏訪原城」を採用している可能性が高い。
  • 『家忠日記』のみが諏訪原城に言及した史料ではない。『日本城郭体系』によると『甲陽軍艦』『武徳編年集成』『高天神城記』『三河物語』にも諏訪原城の記載がみられるそうだが、これらと比較する必要がある(この場合は、『甲陽軍艦』も17世紀初頭の史料ということで価値を持ってきますね)。
以上の事項について、きちんと調査、反駁してみてください。回答次第では移動に同意なさる方が出てくると思いますよAboshi 2008年1月28日 (月) 16:07 (UTC)[返信]

あの観光施設としてなら、今の時代の役所が、諏訪原城として宣伝されても仕方がないです。

が、この記事を史実の解説と捉えるなら、城主で普請者の家忠自身が、牧野城、牧野原城、と呼称しているのですよ。改名した事実の記載もありません。

甲陽軍艦(これ、山本勘介の件とか、疑惑の書ですよね?)武功雑記に甲陽軍鑑の正体が暴露されてますよ。

武徳編年集成(後世の編纂物ですね。)

高天神城記(検索したが、見つからない。不明。)

三河物語(原文を確認して、報告します。)--Bbxx6570 2008年1月28日 (月) 16:44 (UTC)[返信]


あらためて意見陳述します(競合編集になったようです)。 私は改名については、中立(多数意見に従う。ただし本文内容に両方の城名記述は必須と考えます)です。

  • 改名についての記述は『寛政重修諸家譜』の巻第364の牧野康成・同巻第373の松平康親(松井忠次)の各項に詳しい。あるいはタイトル名に括弧付きで併記も一案かと。
  • ただし、改名の根拠を『家忠日記』とするのは疑問です。いかに信頼性あるとしても家忠日記は原本の欠失部分があり、現在残っている部分は天正5年(1577年)10月14日(旧暦)以降、文禄3年9月23日まで(後部に若干日付不明の残欠部の記述あり)のため、城名改名後となり、「諏訪原城」→「牧野城」があったとされる天正3年8月の出来事を証明(あるいは説明)するには有効性が乏しい(適当ではない)と考えられます。--故城一片之月 2008年1月28日 (月) 17:14 (UTC)[返信]


三河物語、天正3年の項目、確認しましたが記載ありません。二俣城、小山城はありましたが。日本城郭体系の出典おかしいですね。

これで、家忠日記および三河物語の徳川氏の同時代史料に、諏訪原城の呼称が確認できないことは証明しました。

※甲陽軍艦は、武田氏の同時代史料ではなく、山本勘介の息子が、武田の軍師に祭り上げてつくった偽書(つくりもの)と、武功雑記(大名の松浦鎮信が作成)で切り捨てています。

築城者の武田氏の同時代史料で確認できるものはないということです。

常山紀談にも、諏訪原の城(諏訪原城)とありますが、家忠日記の、二俣諏訪原小山等の城を攻め、を諏訪原城として解釈したものです。家忠日記では、牧野城、高天神城、浜松城というように、の城、という用例はなく、城名ではありません。

結論;家忠日記では、牧野城、牧野原城、となっており、これが史実である。常山紀談の話しも家忠日記の記述をなぞっている。

役所が、現存の城名(観光施設)としての、諏訪原城という呼称で売り出すのを、史実は防ぐことはできない

家忠日記は、序文が、天正3年から、記述されています。毎日の感想(日記)の部分が、天正5年からなんですよ。牧野城の呼称も天正3年からですよ。原文を読みましょう。--Bbxx6570 2008年1月28日 (月) 17:26 (UTC)[返信]


故城一片之月さん、国立国会図書館近代デジタルライブラリー、家忠日記で検索してください。原文読めます。天正3年~、5月~、始まっています。

それから、みなさん、出典の資料名ではなく、出典の原文をご提示ください。こちらが、全部調べるのは大変ですよ。--Bbxx6570 2008年1月28日 (月) 17:32 (UTC)[返信]

『武徳編年集成』は、江戸時代の編纂史料であり、天文十一年(一五四二)から元和元年(一六一六)までの家康の伝記である。つまり歴史学の常識からいえば、信頼性の低い史料と言うことになる。あるえらい方から「史料価値が低いので証明にならない」みたいなことを言われた。 http://red.ap.teacup.com/katayann/52.html

『廿四日、諏訪原の城兵諸賀、小泉、海野、遠山終に防ぎ守ることを得ず、今夜密かに是を避て小山城に走る』(武徳編年集成)。

ここでも、諏訪原の城、となっていますね。家忠日記の、二俣諏訪原小山等の城を攻め、を諏訪原城として解釈したんでしょう。--Bbxx6570 2008年1月28日 (月) 18:15 (UTC)[返信]

甲陽軍鑑(こうようぐんかん)は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。全59品。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。

評価 本書は他の中世甲斐国に関する同時代の史料(『勝山記』など)と対照すると明らかな誤り(合戦の年月など)があることが江戸時代にも指摘されていた。明治時代以降、歴史学者の田中義成らによって徹底的に批判され、史料的価値は低くみなされ、学術論文に引用することはタブーとさえ言われてきた。近年は書誌学的検討から史料的価値の再評価も試みられている。別史料により事実が確認されたものもあり、その内容については逐一検討が必要である。

特に武田勝頼とその周辺に対しては不当に貶められており、例えば長坂光堅は勝頼をたぶらかし、武田氏滅亡時には真っ先に勝頼を見捨てた奸臣であると記述されているが、実際には勝頼を最後まで守って天目山で没している。

松浦鎮信の武功雑記による偽書説 元禄年間作成の松浦鎮信の武功雑記によると、山本勘介の子供が、学のある僧であり、わが親の山本勘介の話しをつくり、高坂弾正の作と偽って、甲陽軍鑑と名付けたつくりものと断じている。など、早くから、その存在が疑われていた。

WIKIの記事ですが、甲陽軍鑑の記事を引用する時は、相当注意が必要です。なんせ、日時に誤りがあるのですから。さらに、史実にない話しでいっぱいです。--Bbxx6570 2008年1月28日 (月) 18:25 (UTC)[返信]

それから、困ったことに、記事名を諏訪原城とした時、三河国の牧野城が、牧野城とされてしまう恐れがあるのです。同時代史料で、牧野城といえば、遠江国牧野城のことです。

三河国の牧野城は、牧野氏の城という意味で、同時代史料で、三河牧野城という呼称は確認できません。三河牧野城のほうが、別名に変更してもらえませんかね?

牧野城の記事名を是とする理由、おわかりでしょうか。--Bbxx6570 2008年1月28日 (月) 18:31 (UTC)[返信]

諏訪原城って、近くに諏訪神社がありますね。そこからでしょうか?--Bbxx6570 2008年1月28日 (月) 18:42 (UTC)[返信]


島田市HP検索、広報の記述。甲陽軍鑑の記述を引用。1659年版本とあります。家忠日記の紹介ありません。

よって、家忠日記の成立より、ずいぶん後ということです。

史実を重視すれば、牧野城です。諏訪原城はないです。

が、島田市が諏訪原城として登録しているので、牧野城跡地が諏訪原城なんです。

こればっかりは、どうしようもないですね。

オリジナルの家忠日記が否定されて、あやしげな甲陽軍鑑を信用しているわけで。

諏訪原城を牧野城に改名という話しの初出は、常山紀談です。

どうしても、諏訪原城の記事名にしたい場合、牧野城としている城主の松平家忠の日記の説明は必要かと。

知名度の低い諏訪原城の城名で、こんなに揉めるとは残念です。さらに、地方自治体によって、誤った史実が伝えられているし。--Bbxx6570 2008年1月29日 (火) 06:16 (UTC)[返信]


  • 『家忠日記』の追加情報です。
国会図書館近代デジタルライブラリーにて、『家忠日記』を確認しました。この本は明治30年11月25日に東京帝国大学文科大学(文科大学は今日の文学部に相当する)を版元として発行されている。正式名称は『文科大学史誌叢書・家忠日記』である。
その緒言によれば、文学博士の坪井九馬三と日下 寛の手により、華族・松平忠和秘蔵の原書を底本に2種類の写本を用いて校訂したもので、さらに『寛政重修諸家譜』(松平家忠の譜)により事績を掲げ、略系図を作製して 其の人の梗概(こうがい=あらまし)を知らしむとしている。
つまり、「弘治元年深溝に生まれ、天正三年吉田の町口のたたかひに父とともにしたがひたてまつり・・・」からはじまる部分は『家忠日記』ではなく、校訂者坪井博士等が『寛政重修諸家譜』からつけ加えたものです。つまり、本文は天正5年10月17日の条からになってますので、天正3年8月の牧野城改名の時期が『家忠日記』の範囲に含まれていないことに変わりはないです。
  • 次に「諏訪原城」を記す同時代史料の情報。
内閣文庫の蔵本に天正3年(1575年)に今川氏真の詠んだ和歌集『今川氏真詠草』があり、この中の351首目に「七月中旬より諏訪原取出対陣」と題され、「朝霧やふしのねの・・・」と詠んでいる。また、380首目には、「八月廿四日諏訪原新城降参」と注記され、397首目にも「於諏訪原折々書留之」と記されています。
(なお、刊本では『今川氏と観泉寺』(観泉寺史編纂刊行委員会編・吉川弘文館)の723頁から725頁に該当部分が所載されています。)
  • 続いて「牧野城」の同時代史料情報。
『新編岡崎市史・史料編6』の1076頁に収載の天正四年三月十七日付けの、松平甚太郎(家忠)・同周防守(康親)宛・徳川家康判物。この文書に「一、今度氏真就駿河入国、牧野城番、其方相添依申付・・・」とあり。
(なお、この文書の原本は埼玉県川越市の光西寺所蔵文書です。)


これらの史料により、武田方「諏訪原城」は 天正3年(1575年)8月24日に落城し、同年9月13日まで「諏訪原城」と今川氏真が呼んでいた事実がわかる。 一方、天正4年(1576年)3月17日には徳川家康自身がこの城を「牧野城」と呼んでおり、この間に城名が改称されたと判断され、『寛政重修諸家譜』の牧野康成・松平康親の項目に記される、「諏訪原城」→「牧野城」改名の記述は事実と認定できます。

なお、ページ諏訪原城の改名提案を2008年1月29日 (火)00:09(UTC)で出してありますので2008年2月05日 (火)00:08 (UTC)を目途に議論をまとめたいので、皆様のご協力を御願いいたします。--故城一片之月 2008年1月29日 (火) 13:12 (UTC)[返信]

※とりあえず、今川氏真詠草は、同時代史料ではないのでは?

天保9年写本とありますけど。--Bbxx6570 2008年1月29日 (火) 13:52 (UTC)[返信]

あの、寛政重修諸家譜の部分の松平家忠譜のとこですけど、坪井九馬三と日下 寛が、書いたものではありません。二人の生没年見ればわかるように、寛政重修諸家譜は、1812年完成です。

※家忠日記を複数の写本、家忠日記増補追加、などを併せて収録して、校訂しているだけです。 大幅に原本をいじっているわけではありません。

松平家忠の家譜は、寛政重修諸家譜から突如、付け加えられたものではありません。

家忠の事跡寛永寛政の両譜に詳なりと、~と記載されています。

寛永諸家系図伝 江戸幕府が編纂(へんさん)した最初の大名・旗本の系図集。186巻。若年寄太田資宗が奉行となり、林羅山・林鵝峰らが編纂に従事。寛永20年(1643)完成。

寛永諸家系図伝を継承する形で、寛政重修諸家譜が出来てます。

家忠が直接執筆していない家譜の部分も、寛永諸家系図伝や、家忠の子孫の保有する書物の情報に基づいているわけで、坪井九馬三と日下 寛による新たな執筆編集部分など発生しようがないのでは?家忠日記ではなくなりますよね?--Bbxx6570 2008年1月29日 (火) 14:29 (UTC)[返信]

「寛政重修諸家譜」の松平家忠譜を坪井九馬三博士等が書いた等とは言ってませんよ、参考用に掲げた(載せた)と言ってるのです。 読者のために「今寛政重修家譜に遽り、其の事績を掲げ略系も製して其人の梗概を知らしむ」とそう緒言に書いてありますよ。「寛政重修諸家譜」が江戸幕府編纂なのは百も承知のことです。

それから、作為の少ない写本は2次史料でしょうが、原本の写しですから、この場合の内容は同時代史料として扱われます(原本と異なる内容を書けば創作物になってしまう)。近代デジタルライブラリーの検索本もいわば近代(明治期)の写しですから。これを信頼しないで自筆本のみ信用するのですか?そうしたら、「家忠日記」も「三河物語」も自筆本を読まなければ何も論じられないし、語れないでのではないですか?--故城一片之月 2008年1月29日 (火) 15:08 (UTC)[返信]

反対者がいる以上、現存名が諏訪原城である以上、こちらもムリに、記事名を牧野城とすることはしませんので、ご安心を。ただ、牧野城、牧野原城の呼称についての解説が不十分だったので。

ただ、本文中では、判明した事柄について、随時、訂正して、より正しい記述にこころがけ、誤りを発見した場合、即座に修正します。--Bbxx6570 2008年1月29日 (火) 15:58 (UTC)[返信]


ここまでの議論の要約・まとめ

提案発議者:Bbxx6570氏より、当ページ名を「諏訪原城」→「牧野城 (遠江国)」とする改名提案発議。

  • 改名・移動提案理由:史料「家忠日記」では当城の天正6年に城普請と城番を勤めた松平家忠が、「牧野城」・「牧野原城」と 記しているので、「牧野城」の確認はできるが、「諏訪原城」の呼称の存在を示す信頼できる史料がないということ。

改名・移動反対意見:Aboshi氏。

  • 反対理由:一般的知名度が「諏訪原城」の方が高いためとする(根拠→1.現在、城跡が「諏訪原城」跡で国の史跡指定がなされている。2.史料的には『日本城郭体系』・『中世城郭事典』で「諏訪原城」を採用し、『日本城郭体系』には『甲陽軍艦』『武徳編年集成』『高天神城記』『三河物語』に記載あり要検討とする)。

改名・移動反対意見:からからからぼりぼりぼり氏。

  • 反対理由:「諏訪原城」跡で国の史跡指定がなされていることを重視。別名(「牧野城」など)は本文中に説明でよい。

意見陳述(中立):故城一片之月より。

  • 意見陳述:史料『寛政重修諸家譜』では、徳川方として当城占領後に守将となった松平康親・牧野康成の譜の中に天正3年8月に落城せしめ、家康の命による「諏訪原城」→「牧野城」改名の記述とその由来故実が説明されているので、どちらもページ名として有り得るという意味で中立意見。但し、『家忠日記』は天正5年10月以降の記述であり(日記という性格上)、天正3年の落城・城名改称の時期を含まないので城名「諏訪原城」の存在否定の根拠にならないとする。
  • 関連情報提供:天正3年(1575年)に今川氏真が記述とされる『今川氏真詠草』に同年8月24日「諏訪原新城降参」等の記述があること。一方、天正4年(1576年)3月17日付けの徳川家康判物に「牧野城番」の記述があり、どちらの城名も同時代史料に存在し、また両事実によりこの期間に城名変更がなされたと認定できるとの情報提示。


ページ改名・移動反対意見受け容れ(改名提案取り下げ):Bbxx6570氏(発議者)。

  • 以上の議論推移を受けて提案者より、ページ改名・移動反対意見を受け入れる意志が表明されました。 


まとめ

よって、当ページ名「諏訪原城」は変更せず、現状のままとなります。ただし、徳川氏による城名変更が史実であり、城跡を含む地域の「牧ノ原」の地名由来になったことからも、本文中に「牧野城」は別名として城名を記述、その由来も示すものとしますが、いかがでしょうか。なお、議論終了後は長いので、この要約・まとめ部分以前は過去ログ化することも同時に了承されることを関係各位様に御願い致します。 --故城一片之月 2008年1月30日 (水) 14:56 (UTC)[返信]

いや、だから、今川氏真詠草が、同時代史料とする根拠は、何なんですか?提示されていないですけど。諏訪原城の記事名のままでいいですけど。今川氏真詠草を同時代史料として出典引用している事例はないのでは?

諏訪原城所持者の島田市が、城名を諏訪原にしたのは、甲陽軍鑑支持者の小和田哲男によるんですよ。

あなたのいう内閣文庫の蔵本って、これですよ?

国立公文書館デジタルアーカイブ・システム

1 今川氏真詠草 内閣文庫>和書>和書(多聞櫓文書を除く)>賜蘆拾葉 [請求番号] 217-0011 [冊次] 72 [書誌事項] 写本 公開

書名 賜蘆拾葉 請求番号 217-0011 人名 編者:新見正路 数量 95冊 書誌事項 写本

※新見正路 =幕末の人の編纂です。幕臣。

2 今川氏真詠草 内閣文庫>和書>和書(多聞櫓文書を除く) [請求番号] 201-0600 [数量] 1冊 [書誌事項] 写本 ,天保09年 , 伴直方 [旧蔵者] 昌平坂学問所

※天保09年の写本で、これも幕末。

書名 甲陽軍鑑 請求番号 170-0225 人名 著者:高坂昌信 数量 23冊 書誌事項 刊本 ,元和 ~ 刊本 ,寛永/ 印年 ,明暦02年 旧蔵者 林家(大学頭)

※例えば、甲陽軍鑑だと、 刊本で、元和,寛永,明暦と、江戸初期とわかり、同時代史料の可能性があることがわかる。--Bbxx6570 2008年1月31日 (木) 11:37 (UTC)[返信]

それから、諏訪原取出対陣=諏訪原砦?諏訪原にある砦?諏訪原城のこと?

諏訪原新城降参=諏訪原にある新城?諏訪原城?

いずれも、諏訪原城とストレートに読んでいないなど、不審な点がある。今川氏真詠草の所持者は、江戸幕府であり、徳川方でも、武田氏時代の城名に困っている様子が伺える。--Bbxx6570 2008年1月31日 (木) 12:04 (UTC)[返信]

こんにちは。私は平日は仕事なので手が出せずにいましたが、いろんなお話があるようですね。気がついたところを二点ほどよろしいでしょうか。
  • 『家忠日記』「二俣諏訪原小山等の城を攻め」
「二俣・諏訪原・小山」のうち、二俣、小山は当時武田領で徳川領との境目近くにあった城の名前で、もう一つの諏訪原も城と解するのはごく自然な解釈でしょうね。
  • 「諏訪原城所持者の島田市が、城名を諏訪原にしたのは、甲陽軍鑑支持者の小和田哲男によるんですよ」(Bbxx6570氏)
本当ですか?1954年の県の史跡指定、1975年の国の史跡指定、さらに1980年の『日本城郭大系』、1987年の『図説 中世城郭事典』、また現在の発掘に到るまで、すべて「諏訪原城」です。小和田氏一人の影響でこんなに一貫してしまうものでしょうか。また、前掲書には城の名前についての疑義や問題視は特になされておりません。Bbxx6570さんのおっしゃりようはさも「牧野城」論を主張している研究者がいるような感じですが、もし論文など発表なさっているのでしたら確かに再検討の価値がありますので、提示してください。もし、Bbxx6570さんご自身のお考えでしかない場合は、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触してしまうので、この城名に関する議論はここまでになります。残念ですが、これはウィキペディアのルールですのでご理解ください。Aboshi 2008年1月31日 (木) 14:53 (UTC)[返信]
横から大変恐縮ですが、「今川氏真詠草」の自筆本・写本云々の件はもう、ページ名議論から離れますのでBbxx6570さんの会話ページに書きました。御覧下さい(興味ある方も)。
それと、ページ名の件は「諏訪原城」維持で、もう決着ついたんじゃないかと思ってましたが。--故城一片之月 2008年1月31日 (木) 15:29 (UTC)[返信]
ページ名は維持で了承されていますので、改名提案のテンプレートは、はずしました。しかし、議論で一部未回答の質問が残っているようなので、それらの質疑応答を妨げるものではありません。新たに議論の項目をたてるか、利用者の会話ノートでの継続を推奨します。--故城一片之月 2008年2月1日 (金) 15:07 (UTC)[返信]