ノート:論理哲学論考

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。


「正確性」を貼ったのは2006年1月7日 (土) 14:59の版において、Titsshi氏の編集による。要約欄には「論評の内容は個人的価値判断が満ちており正確性に乏しい」とある。また、「ウィトゲンシュタイン自身の意図は、『論考』がそれを示唆したように(以下略)」の文章の前に、(この項の内容は必ずしも一般的な論評ではありません) と付け加えた。 --忠太 2006年3月23日 (木) 16:06 (UTC)[返信]

編集してみました。問題の論評部分は前段はやや怪しいものの、後段はいちおう異論の少ない事実なので存置。なお、本文に特定の執筆者に言及するのはあんまり望ましくないと思います。なお、論考について記述するのであれば、最低限、語ると示すの違い、写像理論(像としての言語観)について記述が必要だと思いますが、ちょっといまそこまで準備ができていないので。Clinamen 2006年3月23日 (木) 18:25 (UTC)[返信]

加筆ありがとうございました。 --忠太 2006年3月24日 (金) 14:28 (UTC)[返信]

翻訳について少し[編集]

The final passages argue that logic and mathematics express only tautologies and are transcendental, i.e. they lie outside of the metaphysical subject’s world. の訳がちょっと自信ありません。外延的な指示によって意味を与えることができず、それゆえに『論考』の視座では擬似命題の位置を与えられるものを指していると思うのですが、それが形而上学の主題の世界の外部にある、というのは変なような。トートロジーや数学は形而上学の主題の外部なのか、形而上学の主題なのか、そのへんで訳がちょっとあやふやです。詳しい方ご意見、修正ください。--Clinamen 2006年3月26日 (日) 10:07 (UTC)[返信]

形而上学的主体の意味にとって、それでも通じにくい部分を加筆しました。--Clinamen 2006年3月27日 (月) 10:03 (UTC)[返信]