ノート:賈龍
この記事は2007年12月31日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、削除となりました。 |
「劉焉に抗した賈龍等益州豪族達は、その地を守ろうとした漢の忠臣であったと考える事ができるであろう」とありますが、これは王世貞の言葉でしょうか。それとも別の研究者による評価でしょうか。事情をご存じの方、ご教授下さい。(対象への評価を行う記述には、特に意識して出典をつけるようお願い致します)--Arawodas 2008年9月24日 (水) 07:15 (UTC)一部修正。--Arawodas 2008年9月24日 (水) 07:26 (UTC)
どうも初版編集者です。「劉焉に抗した賈龍等益州豪族達は、その地を守ろうとした漢の忠臣であったと考える事ができるであろう」というところですが、私の後で編集された方が、「・・・漢の忠臣であったと考える事ができるであろうか」のかを編集で消されはったので、何やら私が結論を導き出したかのような文脈になっており、あまり良い気分がしません。しかしだからと言って、説明責任を私の後で編集された方に擦り付けるつもりはありません。
王世貞の言葉は、「・・・劉焉に抗した賈龍等益州豪族達は、その地を守ろうとした漢の忠臣であったと考える事ができるであろう」というこの文の段落の、上の段落までであって、ご指摘の文章は、私が王世貞の評論から考えることのできる一つの可能性として、記載したということです。
また、Wikipedia:削除依頼/三国検索からの転載を参照させていただいたのですが、私が記載した内容に非常によく似た文脈があるのには、驚きました。はっきりいって私は転載をしたつもりはなく、偶然重なったということだと思います。
以上でページを執筆した顛末がご理解いただけたでしょうか?。--219.106.121.67 2008年9月24日 (水) 06:58 (UTC)
- 回答頂きありがとうございます。問題の部分について、王世貞の評論から219.106.121.67さんご自身が発展させたものだとしたら、独自研究に該当してしまうかもしれません。とりあえず要出典をつけた状態で静観しておきます。--Arawodas 2008年10月6日 (月) 12:19 (UTC)
(コメント)王世貞の見解そのものが本項目に載せるには不向きと考えます。
>王世貞は、劉焉は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、後に子たる劉璋が劉備に攻められることになった事は、正当化されるべき事であると論じている。
とは王世貞『読書後』巻2・「書蘇子瞻諸葛亮論後」の要約であると思われますが、「書蘇子瞻諸葛亮論後」の内容はおおよそ以下の通りです(原文を直ちには参照できないため止むを得ず[1]から孫引きしています)。
- 蘇子瞻以仁義詐力雜用而取天下,為孔明之所以失。(中略)凡蘇子之持論甚至而事甚美。雖然,吾以為蘇子書生也,不識理勢,且又不讀書,不考其時事。夫荊州用武之地,孔明之初見昭烈已言之。(中略)昭烈之不忍 (取荊州)故仁也,而孔明之計非不義也。當陽之敗,幸而夏口尚有歸,又幸而孫氏不與曹氏合耳。不然,昭烈之首已懸之許昌矣。吾故曰蘇子不曉理勢也。昭烈之入蜀,劉璋逆之,欲破張魯,孔明不在行也,其即會而欲掩劉璋者,龐統、法正也,而昭烈不忍也。既劉璋微覺之,而不給軍食,所至以兵守關隘,昭烈欲歸荊州,而跋尾之不能,且立槁矣。劉璋焉子也,焉不卹宗室之阽危而據險自固,朝貢倶廢,又擅造郊祀、乘輿法物,非叛臣而何? 璋之立,未請命也,曹氏之拜官,曹氏與國而已,義以討之,夫誰曰不宜!吾故曰蘇子不讀書,又不考其時事。(中略)吾故曰,蘇子一妄庸人囈語也。
この王世貞の意見は蘇軾の『諸葛亮論』における孔明批判に対する反論であって蘇軾の見解とワンセットで提示されるのが本筋であり、王の意見のみを本項目に抜き書きする事は偏頗であるように思われます。そして、そもそも蘇軾・王世貞の両者とも孔明の戦略の正当性のみを論じているのであって、益州豪族が漢の忠臣か否かは問題としていません(厳密には原文を確認する必要がありますが)。従って、王世貞の意見を根拠として益州豪族が漢の忠臣であるとする事はできないと考えます。
王世貞の見解を根拠として「劉焉に抗した賈龍等益州豪族達は、その地を守ろうとした漢の忠臣であったと考える事ができるであろうか」とお考えになった事はむろん尊重されるべきです。しかし、このご意見が例え推測にとどまるものであろうとも、確実な根拠に基づかない限りこれを記事に載せる事はやはり独自研究の発表に該当すると考えられます。本項目では『三国志』・『後漢書』にみえる賈竜の事跡を載せる事で必要十分ではないでしょうか。従って現状の最終段落は不要と考えますが、これを削除するか否かは他の皆さんのご判断にお任せします。--Сорасоуё 2008年10月12日 (日) 09:08 (UTC)
(追記)
『後漢書』劉焉伝により、賈竜の没年は初平2年(191年)である事がわかります。また、劉焉の専行に対する賈竜の激怒や益州豪族がこぞって劉焉に叛いたという構図を『三国志』・『後漢書』の該当箇所や『華陽国志』公孫述劉二牧志といった史料から読み取ることはできません。
むしろ『蜀書』劉焉伝・裴注所引『英雄記』は、劉焉が董卓討伐に参加せず自衛していたところ、董卓が司徒・趙謙を遣って賈竜に劉焉を討つよう説かせた旨述べています。
これによれば賈竜が劉焉に叛いた直接の動機が『三国志』本文にいうように王咸・李権らが殺された事のみか疑問に思われます。さらに、献帝を傀儡としていた董卓が賈竜に造反を唆したとされる点からすれば、賈竜が劉焉に叛いた一事をもって漢の忠臣であるとはますます言い難くなると思われます。
以上を根拠として本項目を編集させて頂きました。本文にタッチしない旨の前言を翻した点につきご了承頂ければ幸いです。--Сорасоуё 2008年10月18日 (土) 09:30 (UTC)
改名提案
[編集]「龍」の字は使えない文字ではないのに、なぜページ名がカタカナ表記なのでしょうか。「賈龍」への移動を提案します。なお、移動の残骸はリダイレクトとして残さず削除依頼に出すのが妥当と考えます。--Arawodas 2008年9月24日 (水) 06:58 (UTC)
- 改名しました。--Arawodas 2008年10月6日 (月) 12:19 (UTC)