コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:鈴木重意

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

重意の子らについて

[編集]

鈴木重秀鈴木重朝らが重意(佐大夫)の子であるとする根拠は俗説ではなく、明確な資料が何かあるのでしょうか?ちなみに水戸藩に仕えた重朝の方は、「水府系簒」という藩士の系譜をまとめた資料によると「紀州の出自で穂積氏と称し、歴代鈴木を苗字としてきたが、先祖の事はよくわからない」と記されているようです。当時の知名度の高さから重朝が重秀の血縁者なら、ここで重秀との繋がりを強調しないのは不自然であると指摘する史家の方もいらっしゃるようなので、何を以って重秀・重朝が重意の子であるとしたのか補記・出典をお願いします。--ポテンシャル0 2009年8月3日 (月) 20:51 (UTC)[返信]

また重意本人の事績についても、伝承などを除けば、信頼に足る情報源は無かったように思います。雑賀衆に鈴木佐大夫とか、重意なる人物が存在した「らしい」程度の事しか判明していないはず。(重意と佐大夫が同一人物かどうかも怪しい)現在の項目に記されている石山合戦などの華々しい活躍は、所謂「鈴木孫一」や雑賀衆の伝承を当てはめているだけで、重意なる人物個人の事績と特定できるとは思えないのですが、その辺の信憑性とかソース源とかもどうなのでしょうか?--ポテンシャル0 2009年8月5日 (水) 02:30 (UTC)[返信]
追記。「紀州征伐の際に、鈴木左大夫が粉河寺にて藤堂高虎によって謀殺された」という記述について。これは「紀伊続風土記」などに記述があるそうですが、同時代の他の資料に類似の記述が一切ない事、秀吉の紀州攻めにおいて鈴木氏の多くは秀吉方に属しており殺す必然性が無い事、紀州攻めの後、多くの鈴木氏の一族(鈴木重秀、鈴木重朝など)が秀吉の家臣となっている事、舞台となっている粉河寺は紀州攻めの際に灰燼に帰しており、謀殺する舞台がなかった事、司馬遼太郎氏の小説「尻啖え孫市」にて孫市が粉河寺で死んだ事になっているので、これに影響されたのではないか?などという見解から否定する向きも多いようです。また、「重意」という諱も「畠山記」という書物に一部名前が登場するだけで他の資料にはまったく出てこない模様。(参考資料・紀州雑賀衆 鈴木一族 著・鈴木真哉)--ポテンシャル0 2009年8月6日 (木) 05:40 (UTC) [返信]