ノート:長崎事件
加筆の情報源
[編集]今回の加筆[1]は、二次的なソースに拠っているように見えます。『長崎県警察史 上巻』の記述は、より一次情報である『伊藤博文文書 第34巻 秘書類纂 長崎港清艦水兵喧嘩事件』と一致しています。これに従い手を入れます。--rshiba 2010年8月14日 (土) 10:27 (UTC)
警察官の帯刀禁止
[編集]2011年2月25日の編集[2]において、「事件後、清は日本側に無礼を謝罪するどころか、むしろ圧倒的な海軍力を背景に高圧的な態度に出、日本の警官が今後帯刀することを禁ずべしという要求を日本政府に突き付け、これを飲ませている。(岡崎久彦「明治の外交力 陸奥宗光の蹇蹇録に学ぶ」海竜社2011年)」の語句が加筆されています。これは、同書「はじめに---帝国主義は「過去」ではない」16頁、
壬午、甲申の事件では、事件の経緯からいって日本の方に理が有ったにもかかわらず、清国側の圧倒的な武力の優勢の前に、日本は引き下がっている。また、その直後の明治十九年(一八八六)の定遠、鎮遠の長崎示威訪問の際は、上陸していた中国人兵士が街で乱暴を働いたのに対して、日本側は抵抗できず、警官の帯刀禁止という屈辱的な条件も呑んでいる。軍事力の優越を背景としたあたりかまわない典型的な帝国主義軍隊の態度である。
を根拠としているようです。岡崎さんは、長崎事件以前の「アヘン事件」の際、長崎の警察官が帯刀をしないで警棒を代わりに持つとの条件を呑んだことを、長崎事件の結果、そうなったと誤解しています。この辺、典拠を含めて、そのうちに加筆訂正します。--rshiba 2011年6月24日 (金) 04:14 (UTC)
中文版について
[編集]随分ソフトにぼかして書かれています。 中国語が得意な人は、威圧、権勢のためということや、ことの経緯をもっと詳細に記述戴ければ幸いです。 また英語が得意な人は英語版なども作成戴ければ幸いです。 詳細については、「日清戦争前夜の日本と朝鮮(14)」が詳しと思います。IOP79 2011年7月26日 (火) 04:28 (UTC)
- 威圧のためを来航理由とする把握は、日本語の範囲で見ても、信頼できる研究文献では出てきません。歴史評論や通俗的な歴史記述のなかで繰り返し散見されるものです。一方、中国語版の記述にある三菱長崎造船所で艦艇修理を受けるためという記述は日本の外務省記録とも矛盾しません。東京の三菱史料館に三菱側の記録が残っていれば、もう少し厳密な説明が可能になるかも知れません。(以下は推測ですが)北洋艦隊は、三菱長崎造船所の能力を偵察するため、艦艇補修を依頼しに来たというのがいちばんもっともらしい。--rshiba 2011年7月26日 (火) 10:51 (UTC)
英国海軍の巨文島占領との関連
[編集]前年の1885年から翌1887年まで、英国海軍が朝鮮半島の南岸に位置する巨文島に軍艦を差し向け、占領し、第2の香港化しようとしていた。その状況を巡り、日清英の間で外交上の往復がなされている時期に、この長崎事件は発生した。(1) 北洋艦隊が長崎に来る前に朝鮮近海を遊弋していた。(2) 巨文島への食料補給は長崎からなされていた。(3) 長崎事件の前後に英国東洋艦隊司令官のハミルトン提督が長崎に滞在していた可能性がある。など、興味深い。--rshiba(会話) 2012年3月17日 (土) 08:16 (UTC)
- まずちょっと苦言から。独自研究の披露は正式な学術論文でお願いします。
- 馮青著作に基づき事件前後を加筆しましたが、当時の長崎にもあった開港地の治外法権の問題とこの事件のからみがよくわかりません。馮青著作も居留地治外法権の問題についてにおわせているのですが、長崎事件ではどうだったのかは書いていません。あと安岡昭男論文も一応見ましたが、こちらは恐らく『明治前期日清交渉史研究』にも収録されており(馮青著作には法大紀要ではなくこっちが紹介されていた)、紀要より加筆されている可能性もありますが私の方ではこの本にアクセスできません。--114.154.67.24 2013年10月16日 (水) 06:24 (UTC)