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ノート:長征

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記事名について

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現在、長征関係では、

という構成になっていますが、普通「長征」と言えばこの共産党の行動を指すので、わざわざ曖昧さ回避にするよりは長征に書き、文末に「なお、中国製ロケットについては長征 (ロケット)を参照」と案内すればいいのでは、と思います。--Charon 2005年5月2日 (月) 07:13 (UTC)[返信]

賛成します。 提案。この記事の名称を「長征 (共産党)」から「長征」に変える。 --202.254.199.29 2005年6月21日 (火) 03:49 (UTC)[返信]

  • お願いします。記事名を変更するのはかまわないのですが、どのように変えればよいのでしょうか。また、曖昧さ回避の頁は削除しましょうか。2005年7月6日 16:30 ⇒ この項のほとんどを執筆した者ですが、何故か利用者の番号が変わっています。--利用者:210.22.137.50

長征を削除依頼に出す→本項目を移動、でこの状態にすることができます。反対がなければ近いうちに実行します。--Charon 2005年8月14日 (日) 05:21 (UTC)[返信]

記事の内容が偏向しているのでは?

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記事の内容が、第一軍偏重、毛沢東偏重に過ぎ、客観性に欠けていると思います。たとえば、第四軍の指導者として張国涛の名があげられていないのはどういうことか?第一軍と第四軍が合流した際、兵力の規模は第四軍が圧倒的であり、今後の方針を巡って張と毛が決裂した際には、張派、毛派のそれぞれが「共産党中央」を名乗る機関を樹立しました。この分裂の際には、井崗山での蜂起以来、毛沢東と行動を共にし、「朱毛」と並び称された朱徳さえ、張国涛側についています。日本語版ウィキペディアは、記事に取り上げる事項を第三者の立場から客観的に記述するようつとめるべきであり、中国現政権の御用史観をそのままなぞる場ではないと思います。--202.254.199.29 2005年6月21日 (火) 03:49 (UTC)[返信]

  • --ご批判はあるかとは思いますが、毛沢東を中心に記述を進めるのは前述の通り必然であり、無理の無い形です。また、第一軍と第四軍が合流したとき・・・ですが、第四軍が合流した際、張国涛は第一軍に所属して第四軍を迎える側でした。その後、張国涛が第四軍として分裂しますが、分裂するときの第四軍と、合流したときの第四軍は別物です。


  • 記事の偏向について
長征については第一軍が最長であり、これを中心に記述することになるのはひとつの必然であると思いますが、四川方面の第四軍も記述する必要はあるかもしれません。追加しておくことを検討します。
尚、張国涛については様々な評価がされていますので、別項目を立てる必要があるでしょう。
  • 遵義会議について
長征の中に組み込んでいますが、別項目を立てる必要があると思います。たとえば、それこそ張国涛が指摘するように合法的ではなかったという側面や、或いは初期中共の最も民主的な会議であったという評価などもくみ上げることです。

「別項目を立てる」のは、それはそれで結構ですが、この項目においても、しかるべき紹介が必用です。匿名氏もおいそがしいようですから、疑問に思った諸氏がそれぞれ取り組めばいいと思います。--Dalaibaatur 2005年8月6日 (土) 07:49 (UTC)[返信]

  • 長征に参加した紅軍一覧、或いは調整に参加した指導者一覧を作っておこうと思います。赤リンクが多いとは思いますが、ご容赦ください。また、本項は編集中ということにしておきますので、編集したい方は自らの信念と根拠に基づいて編集していただければよいかと思います。

遵義会議・張国涛について

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  • 遵義会議についてはとりあえず項目を作りました。少しづつ書き足していきます。
  • 張国涛については長征の後半で合流して紅軍が右紅軍・左紅軍に分かれるなど、様々な作用を起こしているので別項目を立てます。但し資料集めに時間がかかるのである程度集まってからです。何しろ共産党の分裂分子として迫害されているので資料が少ない。--2005年7月6日 --利用者:210.22.137.50

フリービット可変IPの編集について

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2009年に入ってからの編集ですが、現在Wikipedia:コメント依頼/フリービット可変IPで取り上げている人物と同一人物によるものと思われます。内容も「実態と意義」等、独自研究が強く疑われます。しかし私自身はこの方面に疎いため、一律に差し戻すのもためらわれます。本項目について詳しい方が判断していただけないでしょうか。-- 2009年1月19日 (月) 09:48 (UTC)[返信]

フリービット可変IPによる編集は出典がないか、あっても長征とは関係のないものであって、記事として適等さを書きます。フリービット可変IP出現以前と以後の版を比べるとよく分かると思います。[1]この間、フリービット可変IP以外に大きく記述した人はいませんので、思い切って[2]の版まで戻してしまったほうがいいのではないでしょうか。--ポコポコ 2009年1月27日 (火) 11:39 (UTC)[返信]
ポコポコさんが『適等さを書きます』と思われる部分は、具体的にどちらになりますか? 東アジア史を多少とも知っているのなら、具体的に例示できると思いますが...?--122.145.82.151 2009年1月28日 (水) 04:14 (UTC)[返信]
あなたにはWikipedia:投稿ブロック依頼/フリービット可変IP広域ブロックが提出されています。先ずそちらで弁明なさってはいかがでしょうか。あなたの各地での編集によって振り回された人たちに向けて、弁明をなさったほうがよいかと思います。とりあえず、例として1、「長征を通じて上海を包囲する大布陣を整え」の出典はなんでしょうか。2、「中国の大衆は毛沢東を天命に選ばれた新しい皇帝と見なして」のくだりはあなたの主観が入りすぎていると思いますがいかがですか。主観ではなく広く通用する見解だとお考えならその根拠を教えてください。お答えは、投稿ブロック依頼での弁明の後で構いません。--ポコポコ 2009年1月29日 (木) 11:59 (UTC)[返信]

長征の結果として、毛沢東と中共が「上海を包囲する大布陣を整え」、「中国の大衆は毛沢東を天命に選ばれた新しい皇帝と見なし」たのは歴史的事実ですので、異議を唱えられるのであれば、反証を立てられるのが先決かと?

しかも、それだけで全面リバートを主張するには、あまりにも根拠薄弱ですが、如何でしょうか?

尚、フリービットへの広域ブロックは、私の編集のために政治プロパガンダが出来なくなった一部の人が言い出した事ですので、気になさらないで下さい。--219.99.99.163 2009年1月29日 (木) 22:10 (UTC)[返信]

「フリービットへの広域ブロックは、私の編集のために政治プロパガンダが出来なくなった一部の人が言い出した事ですので、気になさらないで下さい。」とのことですが、このブロック依頼の理由には、あなたがノート:農奴制を白紙化したことも含まれています。ご存知でしょうが、私自身もあなたの編集に直接振り回された一人です。あなたがそのような主張を続ける限り、ここでも果たしてまともな対話ができるかどうか非常に危惧しております。
さて、「毛沢東と中共が「上海を包囲する大布陣を整え」、「中国の大衆は毛沢東を天命に選ばれた新しい皇帝と見なし」たのは歴史的事実」とおっしゃっていますが、あなた自身が記事に貼った地図には、長征に先立つ国民党軍の第4次囲剿によって安徽、浙江、福建、江西の共産党根拠地が次々と失われたことが示されています。そして第5次囲剿の結果、瑞金の中央ソヴィエト区も放棄されたわけです。こうした状況でなぜ「上海を包囲する大布陣を整え」といえるのか、疑問に思わざるを得ないのです。現在の版の記事にも、「上海を包囲する大布陣」についての具体的な記述が全くありません。もっともあなたが「歴史的事実」と言い切るのですから、「上海を包囲する大布陣」について具体的に述べている文献があるのかもしれません。と言うより無ければ書けない筈です。この記述があなたの独自研究でないのなら。「上海を包囲する大布陣」についての出展を求めたのは、この記述があなたの独自研究であるかを確かめるためです。
また、「中国の大衆は毛沢東を天命に選ばれた新しい皇帝と見なした」という言説は、正直に言って初めて耳にしました。ただもしかして、私の不勉強が甚だしいために、こうした言説が現代のスタンダードになっていることを見逃しているのかもしれません。そこで不勉強な私に、こうした言説が実際に行われている例を教えていただけないでしょうか。この記述が独自研究でなく、自明な「歴史的事実」なのなら難しくはないはずです。
もし、まだWikipedia:独自研究は載せないをお読みになっていないなら是非読んでください。その上で、いままでのご自身の編集について考えるところがあるのならWikipedia:投稿ブロック依頼/フリービット可変IP広域ブロックで表明してください。--ポコポコ 2009年1月30日 (金) 15:07 (UTC)--ポコポコ 2009年1月31日 (土) 02:20 (UTC)(段落分け)[返信]
長々とお書きいただいたようですが、要点は農奴制で行っている自分のプロパガンダ活動が妨害された事への抗議と、貧弱な根拠で全面リバートを主張した事の言い繕いでしょうか?
農奴制では、きちんとしたREF付きの書き込みを一方的に削除して、荒らし行為と言い切った訳ですが、私にはあなたの行為が荒らし行為そのものに思えますが、如何でしょうか?--121.111.207.172 2009年1月30日 (金) 15:42 (UTC)[返信]
予想はしていましたが、やはりこれ以上の対話は無理のようです。ノートを白紙化することは例えいかなる理由があっても許されないことだと思いますが、謝罪なさるおつもりがないなら仕方ありません。
改めて、記事を[3]の版まで差し戻すことを提案します。理由は、フリービットIP氏が出典の提示を拒否し続けている以上、フリービットIP氏の加筆内容全てを疑わざるを得ないからです。一旦フリービットIP氏の加筆前まで戻し、その上で出典の提示が可能となった部分につきましてはおいおい出典つきで再加筆すればいいと思います。--ポコポコ 2009年1月31日 (土) 01:56 (UTC)[返信]
論理的な反論ができなくなると、逆ギレして逃げるといういつものパターンですね。長征なり毛沢東なり、もう少し勉強し直してから編集に参加されるのが良いでしょう。--121.111.219.204 2009年1月31日 (土) 03:25 (UTC)[返信]

今後の編集について

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議論が停滞したまま時間がたってしまいました。以前私が提案しました、問題発生前への差し戻しはあるいは行き過ぎなのかもしれません。(もっとも、中越戦争では同様な問題の解決法として、去年12月時点まで差し戻しがなされました。)そこで改めてご意見を伺いたいと思います。

去年11月25日の版に差し戻すべきでしょうか、それとも適時記述を直していくべきでしょうか?私は差し戻した方がいいという意見を今でも持っていますが、いかがでしょうか。ただ、適時に修正する際でも、明らかに主観的な記述は早めに除去されるべきでしょう。--ポコポコ 2009年2月20日 (金) 14:55 (UTC)[返信]

上で言及した通り私はこの方面の知識はありませんので参考程度と思っていただきたいのですが、現在の記述に引きずられることが懸念されるため、できればフリービット可変IPが手を加える前の状態に戻してからの方が適切と思われます。-- 2009年2月21日 (土) 11:22 (UTC)[返信]
差し戻しを致しました。フリービット氏を除いて反対がないこと、上記からも分かるようにフリービット氏とは対話が成立していないこと(今後フリービット氏がブロック解除後、出典付きで記述を復旧されることを妨げるものではありません。)中越戦争の例があること、あまりこの事を引き伸ばすとかえって他の方の編集を妨げかねないこと、といった理由からです。--ポコポコ 2009年2月28日 (土) 15:10 (UTC)[返信]

ポコポコ による荒らし行為

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ポコポコ による荒らし行為の結果、勝手に書き換えられていた内容を復旧します。
今後も悪質な荒らし行為を続けるようであれば、しかるべき処置を取りますので、良く認識しておいて下さい。 --220.150.155.90 2009年6月26日 (金) 02:57 (UTC)[返信]

インド大反乱に続いてまたですか・・・。--ポコポコ 2009年6月28日 (日) 04:45 (UTC)[返信]

Los688 による荒らし行為

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ポコポコ による荒らし行為に続き、Los688 による荒らし行為の結果、再度版が書き換えられました。
今後も悪質な荒らし行為を続けるようであれば、しかるべき処置を取りますので、良く認識しておいて下さい。

Wikipedia:投稿ブロック依頼/フリービット可変IP広域ブロック関連対応実施。--Los688 2009年6月28日 (日) 02:52 (UTC)[返信]

第○次圍剿の時期について

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以前の版と現在の版では、第○次圍剿の時期について文章内で食い違いが見られます。改めて圍剿の時期について調べたところ、恐らくは大陸と台湾で、区分の仕方が違うのではないか、という感触を得ました。中華民国國防部が出した『剿匪戦史』という資料をもとに長征を記述しているJohn K.Fairbank.(ed.), Republican China 1912-1949; pt. 2, Cambridge University Press, 1983-1986. によると、 第一次圍剿は1931年末から、第二次は32年5月から、第三次は32年7月、第四次は33年、第五次は33年末となっています。一方日本の研究では、ややぶれはあるのですが、第一次の開始時期は30年末、第二次は31年2月頃、第三次は31年7月頃、第四次は32年夏、第五次は33年秋となっており、第五次以外では大きく食い違っています。中文版、英語版を見ますと、第四次以外はおおむね日本側研究と同じ区分になっています。これは確認が必要なのですが、日本側研究や中文版、英語版は大陸側資料を準拠としている可能性があります。私も時間があれば確認したいのですが、出来れば他の方も大陸側、特に中国共産党・人民共和国公式資料の確認作業に加わっていただければと思います。ただ、第六次、第七次という区分につきましては私は確認できておりません。--ポコポコ 2009年8月3日 (月) 13:36 (UTC)[返信]

とりあえず"森下修一『国共内戦史』三州書房、1970年"を利用しましたが他の資料と突合せを行いたいと思います。なお、"阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ』小学館 2008年"のpp.35-38によると第一次開始は1930年12月、第二次は1931年5月、第三次は1931年7月、第四次は1932年5月、第五次は1933年10月16日に開始され、第五次は一年に及ぶものだったとなっております。仕掛けているのは蒋介石なので、何次という概念は蒋介石側にあるものと思われます。蒋介石側の資料を中心に調べるべきではないでしょうか?--Sweeper tamonten 2009年8月3日 (月) 14:27 (UTC)[返信]
とりあえず、圍剿について更なる確認が必要になるかと思われますが、蒋介石側(つまり台湾側)の資料を準拠とすると、現状の日本側研究とは圍剿の時期が大幅に食い違う恐れがあります。『国共内戦史』は第四次までは、おおむね現状の日本側研究と時期が合致しているように見受けられます。『日中戦争はドイツが仕組んだ』は、ほとんど日本側研究と同様のようです。私が参照したものは、竹内実監修『長征の道 中国 瑞金―延安12000キロ』日本放送協会、1986年などですが、例えば村瀬興雄編『世界の歴史15 ファシズムと第二次世界大戦』中公文庫、1975年、294頁では、第一次は1930年11月から、第二次は1931年3月から、といった風に書かれており、書物ごとに時期が微妙に違っています。最初の私の書き方がまずかったのかも知れませんが、私の本意は第○次圍剿の時期を、なるべく日本側研究の現状に沿って再確認し、なるべく統一するべきでは、ということです。もし日本側研究が大陸側資料に拠っているのでしたら、そちらを参照してそちらに合わせればうまく統一出来るのでは、と考えています。あるいは、○○年春とかという風に、時期をぼかして書くか、あたりでしょうか。--ポコポコ 2009年8月3日 (月) 14:58 (UTC)[返信]

中立的な観点の再確認をお願いします。資料によって食い違いがあるなら、その食い違いを明記するべきではないでしょうか。また、編集者がその食い違いについて何らかの判断を独自に行なうのは、独自研究は載せないに抵触すると思われますが、いかがでしょうか。-- 2009年8月3日 (月) 22:11 (UTC)[返信]

私はWikipedia:検証可能性#歴史家タキトゥスのすすめにある「彼らの記述が相違する点は、誰の記述かを示した上で書いていこう。」を基にしたいと考えています。このことによって選択肢がどれだけあるかが示され、将来における別の編集者の作業を助けるものと考えます。これはさんの「資料によって食い違いがあるなら、その食い違いを明記するべきではないでしょうか。」と同じ方向と考えています。最初は食い違いを完全に網羅することができないとしても資料の範囲が示されれば作業は異なる編集者によって継続されると期待できます。一人の編集者が多くを作業することは難しいので今の段階ではどれだけの資料がどのような情報を持っているか程度をここに集めるぐらいを考え、それがある程度集積したときには別の編集者の具体的な判断もお願いすることができると考えます。
さてさんの主張からそれてしまいましたがWikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料には「資料から直接の引用を行う場合、また内容に疑問が提出された、もしくは疑問が提出されそうな情報には、その裏づけとなる信頼できる資料を示さなければなりません。」とありますので各資料に疑問がある場合にはその裏づけとなる信頼できる資料がなければ利用することができないと考えることもできます。これは独自研究と見なされることと間違えられる可能性があるものですが各資料の基本的な確認を肯定していると考えています。つまり私は疑問のある情報について裏づけがなければウィキペディアの記事の本文記述に使用されるべきではないと考えます。ただ何らかの形で裏づけがない情報を関連文献などの形で残すことには反対しません。--Sweeper tamonten 2009年8月3日 (月) 23:48 (UTC)[返信]

(インテンド戻す)とりあえず、私が今まで参照した文献が時期をどう記述しているか、下に列挙します。あらかじめ解説を加えますと、『中国人民解放軍戦史』は中国共産党中央軍委が軍事科学院に編纂を委託したもので、人民解放軍の公式見解に近いものと考えていいと思います。『星火燎原』は紅軍兵士たちの回想録で、人民解放軍建軍30周年記念に作られたものを邦訳したものです。よって、基本的に大陸側資料と考えてください。

竹内実監修『長征の道 中国 瑞金―延安12000キロ』日本放送協会、1986年、巻中年表 
第一次 1930年11月から 第二次 1931年2月から 第三次 1931年7月から 第四次 1932年6月から1933年3月まで 第五次 1933年10月から
村瀬興雄編『世界の歴史15 ファシズムと第二次世界大戦』中公文庫、1975年、294頁 
第一次 1930年11月から31年1月まで 第二次 1931年3月から5月まで 第三次 1931年7月から9月まで 第四次 1932年夏から 第五次 区分記述なし
今井駿、久保田文次、田中正俊、野沢豊著『中国現代史』山川出版社、1984年、巻末年表 
第一次 1930年12月から31年1月まで 第二次 1931年4月から5月まで 第三次 1931年7月から9月まで 第四次 1933年1月から4月まで 第五次 1933年10月から
軍事科学院軍事歴史研究部編『中国人民解放軍戦史』第一巻、軍事科学出版社、1987年、91-190頁
第一次 1930年11月から31年1月まで 第二次 1931年4月から5月まで(国軍の包囲準備は2月から。) 第三次 1931年7月から9月まで(国軍の包囲準備は6月から。) 第四次 1933年2月から3月まで(国軍の包囲準備は32年末から。33年7月から3ヶ月ほど福建方面で戦闘。)  第五次 1933年9月から
依田憙家編訳『星火燎原』第二巻、新人物往来社、1971年
第一次 1930年12月から31年1月まで(115頁) 第二次 1931年2月から5月まで(128-137頁) 第三次 時期明記せず 第四次 1932年6月から(160頁) 第五次 時期明記せず
John K.Fairbank.(ed.), Republican China 1912-1949; pt. 2, Cambridge University Press, 1983-1986. pp. 204-208.ページ数追加。--ポコポコ 2009年8月26日 (水) 11:24 (UTC)[返信]
第一次 1931年末から、第二次 32年5月から6月まで 第三次 32年7月から10月まで 第四次 33年 第五次 33年末から

文献ごとに、ある部分は微妙に、ある部分は大幅に食い違っています。結局、断続的に続いていた戦闘から、著編者ごとにそれぞれの基準で時期を切り取っては、「ここが第○次圍剿だ」と言い合っている、といったところでしょうか。 問題は、こうした情報をどう記事に反映させるかなのですが。--ポコポコ 2009年8月6日 (木) 10:52 (UTC)[返信]

簡単な調査を行いましたのでその結果を報告します。入力ミスなどあればその都度修正させていただきます。

蒋介石秘録8--

1930.12.29、第一次掃共戦開始(p.170), 1931.1.3第一次掃共戦が失敗に終わった。(p.173),

1931.4.1第ニ次掃共戦開始(p.173), 第ニ次掃共戦が約二ヵ月後、失敗に終る(p.174),

1931.7.1 第三次掃共戦開始(p.180),

・蒋介石秘録9--

1931.9.20 第三次掃共戦中断(p.40)

・蒋介石秘録10--

1932.6 第四次掃共戦開始(pp.12, 220), 1933.1 共産党本拠江西一帯で発動(p.12), 1933.4末第四次掃共戦中断(p.42),

第五次掃共戦(1933.10.16-1934.10.14)(p.142)


・「日中戦争2」児島襄 1988/8 ISBN 4-16-714130-2 (「剿匪戦史」がもと。)

第一次囲剿作戦開始1930/12/20(p.65), 終了1931/1/3(pp.79-80),

第二次囲剿作戦開始1931/4/1(p.88), 終了1931/5/30(p.95)

第三次囲剿作戦開始1931/7/1(p.102), 終了1931/9/19(pp.120-121)

第四次囲剿作戦開始1932/6末(p.287), 中止1933/3/3(p.368)

・「日中戦争3」児島襄 1988/9 ISBN 4-16-714131-0

第五次囲剿作戦開始1933/10/16(p.127), 終了に関して確認できず(長征部隊の最後の出発は1934/10/16--pp.141,145)


・『20世紀年表』毎日新聞社 1997.9.30 ISBN 4-620-60550-6

第一次囲剿 1930.12.27 - 1931.1(p.304)

第二次囲剿 1931.4.1 - 1931.5.30(p.310)

第三次囲剿 1931.7 - 1931.8(p.311)

第四次囲剿 1932.6.16(p.320) - 終了情報なし

第五次囲剿 1933.10.16(p.331) - 1934.11.10(p.340)


・竹内実編集『中国近現代論争年表上』同朋舎出版 1992.11.30

第一次囲剿開始1930.11(p.282)

第二次囲剿開始1931.4.1(p.284)

第三次囲剿開始1931.7(p.285)

第四次囲剿開始1932.6.16 - 1933.2(p.290)

第五次囲剿開始1933.10.2 to (1934.10.16 長征開始)(p.298)


・『中国現代史年表』中国図書進出口総公司 s.56.11.25(pp.23-27) 第一次囲剿 1930.12 - 1931.1.1

第二次囲剿 1931.4.1 - 1931.5.30

第三次囲剿 1931.7.1 - 1931.9.15

第四次囲剿 1932.6.16 - 1933.3.21(大勢決す)

第五次囲剿 1933.10 - 1934.10(10.16長征開始)

竹内実が関わった『長征の道 中国 瑞金―延安12000キロ』と『中国近現代論争年表上』に差がありますね。私は前者の方を確認してはいません。阿羅健一の本が最も新しく、次は『20世紀年表』ですね。阿羅本については第二次の情報が唯一であり、第四次も村瀬興雄本としか合いません。『20世紀年表』は月のレベルでとらえればましな傾向をもっているようです。私が利用した『国共内戦史』のように第七次までを記述してある資料は見つかりませんでした。1930-1934の期間については問題ないようですが、記事の記述はいずれかを中心にして、その広がりを脚注に示すことが読みやすく、深く知りたい人には脚注によって情報を提供するということでどうでしょうか?今後さらに情報が集まることも期待できますが本文をいちいち調整するより、広がりを説明する脚注部分だけを調整するようにした方が別の編集者も作業しやすいと考えています。--Sweeper tamonten 2009年8月22日 (土) 23:15 (UTC)[返信]

資料調査にご協力していただき、ありがとうございます。こうして見渡しますと、Republican China 1912-1949はともかく、第四次の部分で、『中国人民解放軍戦史』の時期区分がやや浮いているかな、という印象です。とりあえず今の記事をベースにして、「国民革命軍の「囲剿」」節の本文冒頭で、囲剿の時期区分は研究ごとで違う、ということを注意書きし、その上で註で具体的な違いを補足する、としましょうか。ただ、第六次、第七次の区分はちょっと異質な印象がやはりします。これらは第五次にまとめて、やはり註で補足する形にする、というのはどうでしょうか。--ポコポコ 2009年8月26日 (水) 11:24 (UTC)[返信]
まったく賛成です。第六次、第七次の囲剿について裏づけとなる別の資料がありませんでしたから本文に記述するには抵抗があります。--Sweeper tamonten 2009年8月26日 (水) 11:59 (UTC)[返信]
議論に基づき仮修正しました。区分については月までの記載と、一応しました。さらに修正が必要でしたら適時皆様でしていただくか、ご提案をお願いします。あと、「意義」について出典要請を一応つけました。特にセンデロ・ルミノソについては、彼らが毛沢東を参考にしたというのは聞いたことがありますが、長征を参考にしたというのは寡聞にして見たことがありません。--ポコポコ 2009年8月29日 (土) 09:22 (UTC)[返信]
ポコポコさん、面倒な編集作業を丁寧に行っていただき感謝いたします。--Sweeper tamonten 2009年8月29日 (土) 09:48 (UTC)[返信]