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ノート:陸軍予備士官学校 (日本)

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記事編集者の方々へ

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以下の点について質問します。 「将校適任とみなされた甲種幹部候補生を、予備役将校に任用する為の教育機関である」とありますが、「特別甲種幹部候補生」教育も実施したのでありませんか? 沿革記事について 「関東軍幹部候補生隊が改編されて奉天陸軍予備士官学校が置かれる」とありますが、「関東軍幹部候補生隊」という部隊の存在は何によって確認することが出来るのでしょうか? つぎに、昭和14年に豊橋に予備士官学校が設立されたのが終戦時には第一と第二になっていますがそれは何故でしょうか? つぎに「昭和20年7月熊本校を移転し、津山陸軍予備士官学校とする」とありますが、この熊本校とは一体何時設立されたのですか?  つぎに昭和20年7月の学校移転をとりあげるなら「豊橋第二」も移転したのではありませんか? つぎに軍学校の補充学校の項に「保定陸軍予備士官学校」とありますが、なぜ本欄では採り上げていないのですか? --yatiyochan 2009年8月8日 (土) 14:35 (UTC)[返信]

石頭陸軍予備士官学校

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保定幹部候補生隊→保定陸軍予備士官学校→石頭陸軍予備士官学校という教育機関があったようですが、この項目で触れられるべきではないでしょうか?http://www.purunus.com/index.php/%E4%BF%9D%E5%AE%9A%E5%B9%B9%E9%83%A8%E5%80%99%E8%A3%9C%E7%94%9F%E9%9A%8A

竹田賢一 ktakeda@can.bekkoame.ne.jp

内容を刷新しました

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私は陸軍少尉候補者を2012年5月29日 (火) 17:07 [1]に、幹部候補生 (日本軍) を2012年6月8日 (金) 17:09 [2]に、それぞれ大幅に書き改めた 221.170.133.128と同一人物です。幹部候補生の内容を改めたことに関連して、この陸軍予備士官学校の内容も今まで編集された方々に対して勝手ながら大幅に変更させてもらいました。今回の編集は主に以下の5点です。

  1. 幹部候補生に関する記述は導入としての役割にする。
  2. 「陸軍士官学校との違い」の項目は記述を変えても残す。
  3. 一部で予備士官学校とされている組織の解説。
  4. 「沿革」の項目の内容を修正し充実させる。
  5. 「歴代校長」の項目の内容のうち、疑問のある部分は修正する。

1については、「なぜこの学校ができたのか」という導入部として必要な程度にして、陸軍予備士官学校出身者の評価などは「幹部候補生 (日本軍) 」で説明したほうが良いと考えました。2については、「この学校はどういうものか」を明確にできる項目であると考え、コンセプトは残して文章を書き換えさせてもらいました。3については、このノートで過去に指摘されている件の答えになるかと思います。

4については、主にアジア歴史資料センター(JACAR)[3]のサイトから閲覧できる文書を参考にしています。それらによると仙台に最初1校のみ設置されたころの名称で確認できるのは「陸軍予備士官学校」であり、地名をつけた「仙台陸軍予備士官学校」は1943年(昭和18年)8月の陸軍教導学校から改編された後に登場するので、仙台校の設置をそれに合うように改めています。「奉天甲種幹部候補生隊」、「奉天陸軍予備士官学校」などについてもJACARの資料をもとにしています。そして1945年(昭和20年)7月に移転したとされる2校については、熊本校が津山に移転した件は複数のソースから確認できますが、豊橋第ニ校が「習志野陸軍予備士官学校」になったとする資料は私が確認できた限りでは秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』1991年初版のp.315(歴代校長一覧)にある簡単な注釈のみでした。さらに同事典の陸軍予備士官学校に関する記述はJACARの資料と食い違う点がいくつかあり、やや信用性を欠くのではないかとの判断から、熊谷直『学徒兵と婦人兵ものしり物語』1994年版のp.115に書かれた最終状況を出典として「習志野陸軍予備士官学校」の記述はせず「豊橋第二陸軍予備士官学校」が終戦時まで存在したという内容にしました。

5については4との兼ね合いから整合性に問題が出る部分を削除したり、一部を修正しています。4、5ともに多くは曾禰越後守さんが編集された部分を書き改めた結果になってしまいました。私は曾禰越後守さんのWikipediaでの活動を陰ながら応援する者ではありますが、上記についてご理解または納得のいくご説明がいただけましたら幸いです。--220.102.104.34 2012年10月3日 (水) 13:10 (UTC)[返信]

「習志野陸軍予備士官学校」は存在せず、終戦時まで「豊橋第二陸軍予備士官学校」であることを別の資料でも確認しました。1945年9月20日付の教育総監部による文書(進駐軍への報告用か?)の写し[4]ですので、信頼度は非常に高いと思われます。それを参考に本文記事を修正・加筆しました。--220.102.104.34 2013年1月6日 (日) 12:57 (UTC)[返信]
私は上記の220.102.104.34と同一人物です。『全陸軍甲種幹部候補生制度史』の118頁、165頁によると、1945年7月に豊橋第二陸軍予備士官学校は千葉県習志野に移駐が予定され、いったん習志野陸軍予備士官学校に改称されたところが準備中に終戦となり、また名称を豊橋第二陸軍予備士官学校にもどしたとのことです。実際に習志野で学校としての運用がなされたか正確なところは不明です。(つづく)
もうひとつ、仙台についてですが、1938年8月から1939年3月まで仙台陸軍教導学校内に併設されたのは地名を冠称しない陸軍予備士官学校で間違いないようです(複数校になると区別のために地名がつくわけです)。同校が盛岡に移駐してから数年は仙台に予備士官学校は存在せず、教導学校内に幹部候補生隊を編成したのみです。仙台陸軍予備士官学校という名称の学校が存在するのは教導学校廃止となる1943年8月からということを『全陸軍甲種幹部候補生制度史』で再確認しました(この点は『日本陸海軍総合事典』がやはり誤りであるということです)。これらをもとにして記事本文を加筆します。--Pem423会話2014年9月17日 (水) 06:12 (UTC)[返信]
上述の「豊橋第二陸軍予備士官学校」と「習志野陸軍予備士官学校」に関する件は、詳細であり、もっとも信用できる陸軍部内の報告書が誰でも閲覧可能なアジア歴史資料センターの中で見つかったので、それをもとに加筆しました。--Pem423会話2016年7月13日 (水) 07:49 (UTC)[返信]