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ノート:陸軍少尉候補者

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記事編集者様へ質問

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いろいろあるんですが、とりあえず二点お尋ねします。 まず、「大正9年,少尉候補者制度が発足し,特務曹長から少尉への昇進の道が開かれることとなった。(同時に准尉という階級は廃止された。)」とありますが、たとえば1945年(昭和20)に臨時編成された第155師団砲兵隊の「将校職員表」には同隊副官の江○幸○という人の階級は「現役」の「准尉」と記載されていますが、これはどういうことでしょうか? つぎに「佐々木高行大佐は,一期生で中佐にまで昇進し,戦死後に大佐に任ぜられている」とありますが、佐々木大佐という人が少尉候補者一期生である、というのはどういう史料に基づいているのですか? また同大佐はいったいいつどこでなんという役職の時に戦没された方なんですか? --yatiyochan 2009年07月04日 (日) 12:30 (UTC)[返信]

記事の執筆者ではありませんが。1点目に関しては、准士官#日本陸軍が参考になると思います。2点目については知りません。--122.29.83.144 2009年7月5日 (日) 12:36 (UTC)[返信]


122.29.83.144様ご助言ありがとうございます。そこで、准士官#日本陸軍を見ますと、「准尉制度というものが設けられていたが、これは階級としての准尉とは異なるものである」 とあります。また記事編集者様が引用されている准尉候補者制度には「ここにいう「准尉」とは、中隊付中尉・同少尉に准ずるという意味であって、階級名ではない」ともあります。では、編集記事での大正9年「准尉制度(准尉候補者制度)」から「少尉候補者制度」へ移ると「同時に准尉という階級は廃止された」というのはどう理解すればよいのでしょうか?  --yatiyochan 2009年7月7日 (火) 12:30 (UTC)[返信]


佐々木高行中佐(大佐)について

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少尉候補者第一期生であるという佐々木中佐について質問しましたが、いつの間にか根拠史料が『日本陸海軍総合事典』741頁である、ということですが、そもそも私はその根拠が疑問と思っているのです。そうして本記事は検証もないただの同事典の引き写しにすぎず、こんなことが罷り通っていたずら日本陸軍史を曖昧模糊としている現状を危惧する者です。あらためて記事編集者の方々へこの佐々木中佐なる人物について出身と軍歴に関して確実な史料に基づいて記述していただきたい。--yatiyochan 2009年7月19(日)3:30 (UTC)

『日本陸海軍総合事典』は、740頁までしかありません。741頁とは、誤記であるのか、虚偽の出典の記述か、どちらなのでしょうか。---捜してみたら、706頁の「少尉候補生(陸軍)」の項目の記述なのですね。--rshiba 2009年7月19日 (日) 04:41 (UTC)[返信]
(インデント調整いたしました。)該当ページが存在しないという点についてですが、アマゾンなどの書誌情報によると2版では778ページに増えているようです。加筆された利用者:曾禰越後守さんは2版を参照したのかもしれません。(参考:ISBN 978-4130301350)--Snlf1 2009年7月19日 (日) 08:38 (UTC)[返信]
『日本陸海軍総合事典』2版の741項の「少尉候補者」に関する文章の最後に佐々木中佐(大佐)についての記述があります。何を参考としても構いませんが、検証無しの参考文献の引き写しというのは如何なものでしょう? この表現が不当であるなら佐々木中佐なる人物について出身と軍歴を明らかにしていただけませんでしょうか? --yatiyochan 2009年7月19日 (日) 12:50 (UTC)[返信]
Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」をお読みください。ウィキペディアとは、そういうものなのです。どうも世間では過大評価されぎみですが、ここは真実を集積する場所ではなく、検証可能なことを集積する場所なのです。--122.29.83.144 2009年7月20日 (月) 15:42 (UTC)[返信]
ご助言ありがとうございます。お断りいたしますが私は記事が真実か否かを質問しているのではありません。何度も同じことを書いている通り、本事典はたんに市販本の引き写しでよいのですか? ということと、佐々木中佐なる人物が少尉候補者第一期であることを検証しましたか? そして戦死したならなんという部隊の所属でどこで戦没したのか? という事実を質問しているだけです。記事を読んで疑問を持つ者として当然のことと思いますが。 そもそもこの質問に関して未だに編集者から回答がないことが不思議です。--yatiyochan 2009年7月28日 (火) 10:50 (UTC)[返信]
一つの情報源から得た内容を書いているだけで、検証をしていないということですね。それなら、アジア歴史史料センターのサイトで、防衛研修所にある陸軍記録を読んで、この項目の関係する部分に「脚注」を付して行ったら如何でしょうか(>当初の執筆者さん)。それなしだと、自己検証していない丸写しということになり、著作権違反になり兼ねません。--rshiba 2009年7月28日 (火) 11:28 (UTC)[返信]
佐々木高行大佐については、陸軍部隊最終位置というサイトに、「佐々木高行軍医大佐」という人が出てきます。別人でしょうね。この件、東京に行って、防衛研究所史料閲覧室のカウンターで相談してみると、目処が付くだろうと予想できます。刊行物になっていなくても、公開体制を採っている史料保存機関のもつ記録類も典拠として使っていいはずですから。--rshiba 2009年7月28日 (火) 11:44 (UTC)[返信]
というご意見も出ていることですから、記事編集者に置かれては、ぜひ東京へ行って検証作業をなさることをお勧めいたします。--yatiyochan 2009年7月29日 (水) 11:44 (UTC)[返信]

砲兵・工兵の少尉候補者について質問です

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・大正9年の少尉候補者制度について、「ただし砲兵、工兵の少尉候補者(当時砲兵科、工兵科の階級には特務曹長がないため相当階級である「上等工長」の中から少尉候補者を選抜した)は、陸軍砲兵工科学校を改称し神奈川県大野村に新設された陸軍工科学校へ高等科学生として入校することになった。」と記述されていますが、これはどういうことでしょうか。 ①砲兵科、工兵科に特務曹長がない ②①の結果、相当官である上等工長のみが士官学校ではなく陸軍工科学校へ入校した と読めます。 ①については、明治35年の陸軍武官官等表の兵科准士官欄に砲兵特務曹長、工兵特務曹長があり、その後の改正を見ても昭和12年に特務曹長が准尉に変更されるまで削除または改称されていないように思われます。削除または改称されているのであれば、年と勅令番号を教えていただきたいと思います。 ②についても、砲兵科、工兵科では少尉候補者から技術士官のみを育成し、通常の隊附勤務を行う士官は育成しなかったことになりますが、他兵科とのバランスからもおかしく、特務曹長は存在し、士官学校へ入校したのではないでしょうか。 ・昭和2年の制度改正について、「憲兵科をふくむ各兵科の少尉候補者は38歳未満の現役特務曹長、曹長(砲兵、工兵は相当階級である上等工長、一等工長)と、「飛行機操縦術ヲ習得シタル」実役停年2年以上の軍曹にまで有資格者の範囲が広がった。」と記述されていますが、砲兵科、工兵科は上等工長、一等工長のみが対象であるように読めます。上記のように特務曹長、曹長が砲兵科、工兵科にもあるとすれば、「(砲兵、工兵は相当階級である上等工長、一等工長を含む)」とすべきではないでしょうか。 ・少尉候補者の教育について、「砲兵、工兵の少尉候補者が教育を受けた陸軍工科学校でも」とありますが、上記の理由から「砲兵、工兵の少尉候補者の一部が・・・」とすべきではないでしょうか。また、「以後、兵科の少尉候補者(砲兵、工兵、航空兵、憲兵を除く)は陸軍予科士官学校で学生として教育を受けることになる。」とありますが、同様に「以後、兵科の少尉候補者(航空兵、憲兵を除く)・・・」とすべきではないでしょうか。ちなみに、私の祖父は少尉候補者第18期で、昭和13年に予科士官学校を卒業し、砲兵少尉に任官しました。

上記の質問はOmotoraさんが2012年10月12日 (金) 12:11(UTC)にされたものですね。私は本記事の2012年6月7日 (木) 02:48まで編集したIPユーザー221.170.133.128です。
ご指摘はまさにそのとおりで、1902年(明治35年)の陸軍武官官等表(勅令第11号)[1]の准士官の欄に「陸軍砲兵特務曹長」と「陸軍砲兵上等工長」が併記され、「陸軍工兵特務曹長」と「陸軍工兵上等工長」も併記されています。また工兵科の下士にいたっては「工兵曹長」から「工兵伍長」のみであって、一等から三等工長はその時点で存在せず、少尉候補者制度の根拠となる1920年(大正9年)8月7日公布、8月10日施行の陸軍補充令(勅令第244号)[2]と同日に公布・施行された陸軍武官官等表(勅令第241号)[3]によって曹長から伍長までの相当官として併記されるようになっています。
これはまったく私の見落としでした。陸軍補充令を先に見て思い込みと不注意から当時の砲兵科と工兵科の准士官と下士は「特務曹長」「曹長」「軍曹」「伍長」といった名称の階級ではなく、上等から三等までの工長がその階級に相当するという誤った理解の上で記事を編集した結果、上記の質問で指摘された誤謬になっています。申し訳ありません。弁解になりますが、ご指摘の私の編集は安直に引き写しするネタ本があるわけでもなく百有余の資料文書に目を通して情報を探し、集まった情報を突き合わせてオリジナル文章化していく作業で、その労力に自分が負けてつい歩兵科中心に見てしまい、特科まで十分なチェックが行き渡りませんでした。
あらためて調べてみると砲兵科・工兵科の工長は一般下士とは一線を画す技術職で、加俸もあるようです。また1925年(大正14年)の例では、上等工長もしくは一等工長で陸軍工科学校における少尉候補者(一等工長がすでに含まれているので、このへんも見直さないといけないようです)を受験する者の数が十名少々[4]と、かなりの少数派であることがわかりました。ただし工長から少尉候補者を経て少尉になった者をOmotoraさんの文中にある「技術士官」と表現するかどうかについては、大学から試験のうえ採用され見習士官を経て中尉または少尉に任官する、学士号を持った「技術将校」と同一の扱いでよいのか明確でないので、もし記述するにしても「技術系の将校」といった表現にするかもしれません。この点も間違いがあればどなたかご指摘ください。
上記以外にも陸軍工科学校の神奈川県への移転時期は大正年間ではなく昭和であり、当時はまだ東京市内にあったようですし、航空兵科の少尉候補者教育に関して1937年(昭和12年)まで市ヶ谷の陸軍士官学校で行われたように読める文章になっていますが、これも誤りのようで、もう少し資料を探して確実な情報を得た後に出典を添えて書き改める必要があります。近日中に修正します。ご忠告ありがとうございます。--220.102.104.34 2012年10月19日 (金) 10:05 (UTC)[返信]
サブセクション「少尉候補者制度」とサブセクション「少尉候補者の教育」(「少尉候補者教育と教育施設」にサブセクション名変更)を再編集し、指摘された誤りも修正しました。砲兵科・工兵科の技術従事と各部の少尉候補者についての情報量を増やしてみました。今後もう少し手を加えようと思います。--220.102.104.34 2012年10月22日 (月) 10:54 (UTC)[返信]