ノート:陽侯麻呂
表示
改名提案と他の疑問点
[編集]陽侯麻呂として立項されたものが、陽侯史麻呂に移動されましたが、これは戻すべきだと思います。確かに『続日本紀』には陽侯史麻呂とありますが、この史はカバネです。史麻呂という人名はありそうですが、『日本書紀』推古天皇10年10月条に、陽胡史の祖の陳習は暦法を学んだと記されており、他の陽侯史姓の人名も『続日本紀』にあります。その陽胡氏の中で、国守まで務めた人が無姓ということはないでしょう。
また、大隅国初代国守と加筆されましたが、「初代」と記されている史料が別にあるわけではないですよね。私の手元の新日本古典文学大系の『続日本紀』には、陽侯麻呂について「他にみえず」と注記されています。もしないなら、「知られている限りもっとも古い」とすべきです。
そして、「殺人被害者」のカテゴリを付与したのはおかしいと思います。『続日本紀』には「隼人が反いて大隅国守陽侯史麻呂を殺した」とあるのですから、この文を素直に読むかぎり、反乱が先で殺害が後です。殺人事件とは違います。歴史上の人物の中には戦死した人が数多くありますが、それをみな殺人被害者のカテゴリに入れるのでしょうか。外したほうがよいと思います。--Kinori(会話) 2014年7月3日 (木) 08:34 (UTC)
- コメント 移動した張本人です。Kinoriさんの主張はまったく正しいと思いますので反対はしません。もし移動しなおす場合はノートのリダイレクトを即時削除する意思を鮮明にすることをお勧めします。
- 自分の編集意図を説明しますがコトバンク所収の世界大百科事典でも、後始末に来た大伴旅人はカバネ抜きなのに陽侯麻呂はカバネ入りだったので「統一感はないけど、こういう表記が一般的なのか?」と思った次第です。
- 「初代国司」の件ですが、これは鹿屋市教育委員会の発表にあります。個人サイトなので出典には使えませんが、現地の史跡の看板画像がありますのでごらんください[1]。--禁樹なずな(会話) 2014年7月3日 (木) 09:37 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。では、改名についての賛成もありがとうございます。リダイレクトを残す意味は薄いと思いますので、おっしゃるように削除したいと思います。
- 初代国守については、困りました。率直に言って、教育委員会が間違っていると思います。殺されたのは国の設置の7年後ですから、初代の国司の任期は切れています。国司の留任は多くありませんし、任期中の交代も珍しくありません。辺境の特殊事情で留任したという可能性は私には否定てぎませんが、何の証拠もなく言えることではありません。思うに、単純ミスのたぐいではないでしょうか。学者の論文・著作の中で、簡単でも理由を付して説かれているなら、今日的には誤りであっても、そういう説がある/あったと記すべきでしょうが、現地の解説板に書かれていたことはそこまで重く見なくてよいと私は思います。鹿児島は地元ではないのでどれだけできるかはわかりませんが、後ほど図書館で調べてみます。--Kinori(会話) 2014年7月6日 (日) 10:34 (UTC)
- 反対はないようですので、改名したいと思います。陽侯麻呂にはリダイレクト以外の履歴が1版ありますので、これを削除してから改名する必要があります。Wikipedia:移動依頼に依頼しました。--Kinori(会話) 2014年7月22日 (火) 04:50 (UTC)
鹿屋市の史跡に関する文献
[編集]陽侯麻呂に関係する史跡が鹿屋市にありますが、十分な資料が見つからないので記事に反映できません。調べがつきさえすれば掲載する価値のある内容と思いますので、わかる限りのことをこの場に書き留めておきます。
- 「史跡 国司塚」現地案内板
- 鹿屋市教育委員会により2007年に設置。
- これによると陽侯麻呂は大隅国の初代国司であり、巡検中に鹿屋市内の「国司山(国司城)」に滞在していたところを隼人に襲撃されたという。
- 国司はなんとか脱出したものの、落ち延びる途中で追っ手と戦闘となり、ついに落命した。その地が「国司塚」であるとされる。
- 『三国名勝図会』巻之四十七、肝属郡 鹿屋
- 1905年刊行。編者は五代秀尭と橋口兼柄。
- 国司山について「田崎本村にあり、当郷総廟狩野神社の後に当り、一林叢水田の中に屯然たり、是を国司山と号す、其中に石小祠を建、其名を以て考れば、国司を葬れる地なるべし、今其詳を知りがたし」とある。
- この文献では陽侯麻呂には触れられておらず、国司と言ってもどの国司なのかはわからない。--禁樹なずな(会話) 2014年8月5日 (火) 02:29 (UTC)