ノート:顧雍
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Crystaltearさん、私が以前編集した時に見逃した誤りを修正して頂きまして、ありがとうございます。 孫策に仕えた記述についてですが、正史の三国志には、顧雍が孫策の代から仕えていたという記録は残っていませんでした。顧雍が最初に県長になった合肥は、孫策の勢力範囲外です。孫策の遺臣であるとしても、張昭や周瑜とは違い兄の影響力の少ない、孫権の子飼いといえる家臣だったと思いますので、孫権に仕えた記述からで良いと思います。--Jinnsg 2006年8月25日 (金) 03:10 (UTC)
- どうも、お返事が遅れまして申し訳ありません(TRPG関係の記述に浮気してました^^;)。孫策に絡んだ記述を一応コメントアウトにしたのは、演義の方でもしかしたらそんな記述があったのかな、と思ったからでした。私、演義の知識は皆無なので……。で、顧雍の県長経歴なんでけど、最初の合肥は確かにおっしゃるとおりなんですが、残りの3県(婁・曲阿・上虞)はむしろ孫策の攻略範囲に含まれているのではないかと考えているんです。個人的に。婁か曲阿にいる頃に孫策と劉ヨウが戦っていて、その決着がついた頃(もしかしたら孫策の命令で)上虞への異動している流れなのかな、と。少なくても、上虞は位置的には会稽郡に入っちゃってますから、これが例え王朗かそれ以前の会稽太守の統治下における任命であったとしても、そのうち孫策に取って代わられます。…まぁ、憶測の域を出ない考察なので、項目には乗せませんけれども^^;--Crystaltear 2006年9月21日 (木) 14:23 (UTC)
- こんばんは。このあたりは判断材料が少なくて何とも言えませんよね。揚州の勢力分布もかなり複雑で把握しにくいですし、私は、群雄とその下に集まる人物の関係も流動的で様々だったのだろうと考えてます。乱世ですし。顧雍も孫策の影響下に入ったとは思いますが、中央から任命された県長で、呉の支配力が強まるにつれて家臣化して行ったのではないかと考えています。孫策に重用されたという記録もありませんし、曖昧なのは触れないほうが良いかと思いました。--Jinnsg 2006年9月23日 (土) 19:32 (UTC)