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ノート:飯島晴子

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「自殺」と「自死」について

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飯島晴子が自殺したことをことさらに「自死」と表記するべき資料が見つからないため、表記を「自殺」に戻しましたら、利用者:Anmerz会話 / 投稿記録さんにより「意味は同じだし、自死のほうが表現がやわらかい。」とした上で差し戻されたのですが、こと飯島晴子に関してのみ表現を柔らかくしてあげるような理由がどこにあるのでしょうか? 自殺した人物の記述の自殺という項目をすべて自死と書き換える運動が起こっているような様子もないのですが。--Aoioui会話2015年8月9日 (日) 12:48 (UTC)[返信]

こんにちは。「表記を「自殺」に戻しましたら」と書いておられますが、初版から表記は「自死」です。自死と自殺は意味は同じですから、資料に基づいてどうという話ではありません。「殺」が入っている自殺のほうがどちらかといえばショッキングな印象を与えるので、それを和らげる意図で「自死」のほうを選んでいると推察します。どちらの単語を選ぶかは文章の流れや調子などによるもので、すべての項目で統一してどちらかを使うべきというようなことではないでしょう。「自死」と書かれていたものをことさら「自殺」に置き換えようとする編集にどのような意義があるのか、よくわかりません。
さて、「「自死」と表記するべき資料が見つからない」と書かれていますが、「資料」をほんとうに探したのでしょうか。参考文献のうち「現代俳句大事典」の「飯島晴子」の項目では「自死」、「現代の俳人101」の「飯島晴子」では「自ら死を選ぶ」、「飯島晴子読本」は持っていませんが、ネットで転載されているものを見る限りでは「自死」という表現が使われています[1]
資料にもとづいてどうという話ではない、とは書きましたが、あなたは参考文献にあげられているものを一つとして確認せずに「資料が見つからない」と書いたのですか。--Anmerz会話2015年8月9日 (日) 13:42 (UTC)[返信]
返信 お返事ありがとうございます。少なくともこちら[2]には「平成12年6月老人性うつ病のため遺書を残し自殺。」とありますね。また、Anmerzさんの上げられている『俳句鑑賞 ・その七「飯島晴子」』は目次に自殺、年譜に自死とありますが、そのサイトは(そもそも個人サイトですが)「飯島晴子読本」を参考にしていますね。わたしはその本を所持しており、あらかじめ確認しておりますが、379ページには「六月六日、死去。」とあるだけで自殺とも自死とも書かれていません(これこそ、表現を柔らかくしているのでしょう)。また、そもそも「自死」へは「自殺」への内部リンクが貼ってあるため、どのみちクリックしたり、ソースを見たりすれば(Anmerzさんのおっしゃる)ショッキングな内容です。初版からそうであったとしても、自死という表現が自殺よりも一般的でない以上(それはWikipediaでは自死ではなく自殺で記事が成立していることからも理解していただけると思いますが)、自殺という表現を選ぶのは普通のことです。むしろ、特別に「自死」としなければならない理由をお伺いしたいと思います。
それで、わたしは一応少なからず飯島晴子のことに興味を持っており、そういう理由から飯島晴子読本を所持してもいます。確認もしております。資料が見つからないと書いたのもそのためです(死去とありますからね)。Anmerzさんはどういう理由から『あなたは参考文献にあげられているものを一つとして確認せずに「資料が見つからない」と書いたのですか。』と書いたのでしょう。Anmerzさんが飯島晴子読本を所持していない、しかし、わたしが所持している可能性、というものを考えもしなかったですか。わたしの行動を決めつけてまで表現を「自死」としたいのならば、不毛ですから、わたしは一旦引きますが、少なくとも相手の態度を勝手に見積もるような言動は、話し合いをするそれではないと考えています。 --Aoioui会話2015年8月9日 (日) 14:47 (UTC)[返信]
『飯島晴子読本』は確認済みのこと、それは失礼いたしました。ネットで見た資料は年譜の転載だと思ったものですから。ただどの図書館にも置いてありそうな『現代俳句事典』くらいは確認されるべきだったでしょう。どちらにしても資料は本題ではありません。
事典を読もうというくらいの人間であれば「自死」が「自殺」の意味であることはまずわかります。リンクで確認もできますね。リンク先が自殺であるからということと、特定の文章の流れの中で自死という表記が使われていることとは事柄が違います。
『飯島晴子読本』を所持されながら有用な加筆をされるわけでもなく、「自死」を「自殺」にするというだけのことに拘って編集したり、他者に議論を呼びかけたりすることは不毛ではないのでしょうか。あなた自身が「不毛」というこの議題を始めたのは誰ですか。--Anmerz会話2015年8月9日 (日) 15:21 (UTC)[返信]
返信 他者に議論を呼びかけたりすることは不毛ではないのでしょうか。」とおっしゃいますが、それは不毛ではないですよ。このノートページに議論を誘導しなければ、諦めるか、編集合戦をするしかないのですから。その方が不毛でしょう。
わたしが申し上げたいのはただ、実態が自殺であるのに、特別「自死」としなければならない理由はなんですかということです。 「「自死」を「自殺」にするというだけのことに拘って編集したり」とAnmerzさんはおっしゃいました。そうです。「というだけのこと」なんです。自殺と表現することはごく普通のことですからそうしたのです(普通のことであるという証明は先程しました)。しかし「するだけのこと」とわたしの行動をみなしたならばわざわざ差し戻す必要はないですよね? 「自死」にすることにこだわりがあるのはAnmerzさんの方でしょう。「現代俳句事典」に自死とあるから、というのは、「20世紀日本人名事典」に自殺とありますから、根拠にならないですよね。Anmerzさんがそれでも特別に「自死」としなければならないと考えている理由はなんですか?--Aoioui会話2015年8月9日 (日) 15:38 (UTC)[返信]
実態が自殺である、という認識がおかしいのですよ。「自殺」も「自死」も実態は同じです。
どちらでも同じである「自死」を「自殺」と書き換えるだけの編集を行っておきながら、「自殺」を「自死」と表記するだけのことにこだわっているとして他者を非難され、前者を問題にせず後者のみを不毛とされているのですから、話のかみ合いようがないと思います。ここでは「自死」のほうがベターに思われる、という理由はすでに書いています。短い文章の中で唐突に出てきますから、「自殺」より「自死」のほうがよいと思う、それだけのことです。Wikipediaに「自殺」という項目名で記事が立っているから「自殺」にしたい、という考えのほうがよくわかりません。--Anmerz会話2015年8月9日 (日) 15:55 (UTC)[返信]
「わざわざ差し戻す必要はないですよね?」というのであれば、そもそもはじめからそのような編集をする必要もありません。--Anmerz会話2015年8月9日 (日) 15:59 (UTC)[返信]
返信 短い文章の中で唐突に出てきますから、「自殺」より「自死」のほうがよいと思う」、ですか。文章の短さや、唐突に出てくるから「自死」にしたい、なんて百科事典的ではないでしょう。文章の長さ短さで表現を変えていたらカテゴリなんてどうするつもりですか。この「飯島晴子」は「自殺した人物」のカテゴリに入ってるんですよ。それを文章の短さや唐突さで「自死した人物」にでも分けるとおっしゃるんですか。内部リンクを「自殺」に張っていて、「自殺した人物」のカテゴリに入っている人物の自殺表現を「自死」にする理由が「短い文章の中で唐突に出てきますから」ではさすがに無理ですよ。 --Aoioui会話2015年8月9日 (日) 16:17 (UTC)[返信]
言い方を変えましょう。別にどちらに言い換えても構わないような表現を書き換えるためだけの編集はやめてください。それだけです。--Anmerz会話2015年8月9日 (日) 16:21 (UTC)[返信]

返信 (インデントを戻します)いや、話をそらされても困るのですが……。「別にどちらに言い換えても構わないような表現」だなんて思っていないですよ。Anmerzさんも「表現がやわらかい」から自死を選んだのですし。もう一度言いますね。わたしが自殺と書く理由は、それが一般的表現であり、内部リンクを「自殺」に張っていて、「自殺した人物」のカテゴリに入っているから、です。Anmerzさんが「自死」を選ぶ理由はなんですか? 「短い文章の中で唐突に出てきますから、「自殺」より「自死」のほうがよいと思う」、ですか?--Aoioui会話2015年8月9日 (日) 16:28 (UTC)[返信]

「別にどちらに言い換えても構わないような表現」ではない、という根拠が示されているようには見えませんし、これ以上お話しても無駄かと思います。--Anmerz会話2015年8月9日 (日) 16:33 (UTC)[返信]
返信 別にどちらに言い換えても構わないような表現」とおっしゃったのはAnmerzさんですよ。なぜわたしがAnmerzさんの発言の根拠を取る必要があるんですか? 無駄かどうかはわかりませんが、「自殺」に差し戻してもよいというのであればお引き止めいたしません。--Aoioui会話2015年8月9日 (日) 16:36 (UTC)[返信]
「別にどちらに言い換えても構わないような表現」と書いたのは私ですが、そうではないと書いたのはあなたであり、そうではないという根拠が示されているようには見えません。「別にどちらに言い換えても構わないような表現」という根拠がない、というだけのことであれば、あなたは私の言っていることに根拠がないと言っているだけであり、書き換えるべき根拠も、書き換えるべきでない根拠も理解できる形で示していないことになります。そのような否定のためだけの意見に同意する必要は感じませんし、議論が成立する可能性もありません。--Anmerz会話2015年8月9日 (日) 16:47 (UTC)[返信]
もっというと、「自殺」と「自死」が相互に言い換えが可能でどちらを使っても構わないような表現である、という認識が共有できない時点で議論は成立しないと思います。「自殺」がより一般性のある表現であるということは理解できますし、その通りだと思います。しかし「自死」も『現代俳句大事典』のようなメジャーな選科事典に使われる程度には一般性のある表現であり、古語でも専門用語でもありません。どちらでも使いうる表現であり、どちらかをどうしても使わなければならないという理由は思い当たりません。どちらでも使いうるような言葉を書き換えるためだけの編集は不毛ですから、やめてください。--Anmerz会話2015年8月9日 (日) 16:53 (UTC)[返信]
返信 『Anmerzさんが「自死」を選ぶ理由はなんですか? 「短い文章の中で唐突に出てきますから、「自殺」より「自死」のほうがよいと思う」、ですか?』という質問を「どちらに言い換えても~」でそらして、お答えにならないつもりなら結構です。「2015年8月9日 (日) 16:47 (UTC)」のAnmerzさんの発言がこの場に残っていれば、何が起こっているか分かるでしょうから、わたしとしては充分です。よくわかりました。わたしはこの場を離れます。 --Aoioui会話2015年8月9日 (日) 16:59 (UTC)[返信]
「自死」を「自殺」に書き換えるだけのことにあなたが拘泥しつづけて長大な議論の原因になったことは、編集履歴からみてもノートの流れから見ても誰でも把握することができると思います。話を逸らすも何も、提示済みの答えを繰り返し述べる必要はありません。--Anmerz会話2015年8月9日 (日) 17:13 (UTC)[返信]

報告 Anmerzさんはソックパペットとして無期限ブロックされました。これ以上お話差し上げることができない状態ですので、表現は一旦「自殺」に戻します。--Aoioui会話2015年9月1日 (火) 17:42 (UTC)[返信]