ノート:魯迅
ペンネームの由来について
[編集]『魯迅』というペンネームの由来は、確か母親の姓ではなく、「魯鈍」と「迅速」という相反する言葉から一文字ずつとったと記憶しているのですが……申し訳ないことに現在資料が自分の手元になく、出典にあたることができません。どなたかご存じではないでしょうか。Florachubb 2006年7月12日 (水) 12:30 (UTC)
全心異(チュェン・インシー)について
[編集]記事中の“全心異(チュェン・インシー)”についてですが、『魯迅選集』(綫装書局出版)には“金心異(ジン・シンイー)”とあります。どちらが正しいのでしょうか?仮に全心異だとしても“チュェン・シンイー”がより正しい発音かと思います。どうでしょうか。--Soyz 2009年6月10日 (水) 07:41 (UTC)
- 「金心異」が正しいと思います。これは錢玄同のことですが、竹内好訳『魯迅全集』第一巻、「自序」訳注8(6)、p397に言及があります。--獨頭 2010年5月30日 (日) 07:01 (UTC)
人物・経歴について
[編集]記事中に「当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。」などとありますけれども、『吶喊』自序にはそのようなことは書かれていません。人民出版社版『吶喊』(1979年12月)で確認しました。また、手元にある岩波文庫・旺文社文庫で確認しましたけれども、そのような記述はありません。仮に別の版の『吶喊』自序に「町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった」という記述があるのであれば、その版の出版元・発行年を記述すべきです。「人物・経歴について」に間違いがあるため、訂正をいたしましたが、どなたかがもとに戻されました。--温水 2010年5月29日 (土) 17:43 (UTC)
差し戻しに賛成します。
魯迅が自分に対して不利な記述を行わなかったのはいわば自己保身としては当然で、中国側の資料を根拠に資料として不備であると考えるのには疑問を呈さざるを得ません。資料として提示されている坂井建雄先生の研究は学会誌に発表された[1]もので、客観性を担保していると考えてよいのではないでしょうか。--お館さま 2010年5月29日 (土) 22:47 (UTC)
お館さま なにか誤解をなさっておられるようなので、確認します。記事中では、「当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。」云々の記述が、『吶喊』自序に基づくとしています。しかし、『吶喊』自序にはそのようなことは書かれていません。私はこの記述が正しいのか間違っているのかを述べているのではなく、「『吶喊』自序に基づくとする記事中の記述が『吶喊』自序にはない」ことを述べています。出典として間違っているのではないかと述べているのです。この記述が坂井建雄先生の研究に基づいているのであれば、その旨を注釈番号を付けて明記すべきです。最後に参考文献として掲げるだけでは不適切です。 また、『吶喊』自序に記載があるのであれば、どの出版社のどの版に掲載されているかを述べるべきです。少なくとも通行本の『吶喊』自序には、「魯迅が町で戦争報道のニュース映画を見る機会があった」などという記載はありません。--温水 2010年5月30日 (日) 06:38 (UTC)
坂井建雄先生の研究では、魯迅が学内でニュースを見たとあるが、これは記憶違いで、学内でニュース映画を上映するということは不自然で実際は医学の勉強についていけなくなり町で遊興に耽っていたときに見たものではないかという解釈だったような気がします。古いことなので記憶が曖昧で手元に資料もないので本記述に拘泥するつもりありませんが、あくまでも魯迅の記憶違いを指摘したものだったような気がします。--お館さま 2010年5月30日 (日) 09:52 (UTC)
- 「当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。」の箇所についてですが、この幻灯事件への言及は『吶喊』自序と「藤野先生」にあります。「自序」(人民出版社版『魯迅全集』第一巻、〔1959年北京〕、pp4-5)には「其時正日俄戦争的時候、関於戦時的画片自然也就比較的多了」(ちょうど日露戦争の最中とて、当然のことながら、戦争関係のスライドがわりに多かった〔竹内好訳『魯迅全集』第一巻、筑摩書房、1976、p5〕)とあり、「藤野先生」(人民出版社版『魯迅全集』第二巻〔1959年北京〕、p275)には「第二年添教霉菌学、細菌的形状是全用電影来顕示的、一段落已完而還没有到下課的時候、便影幾片時事的片子、自然都是日本戦勝俄国的情形」(第二学年では細菌学の授業があって、細菌の形態はすべて幻灯で映して見せるが、授業が一段落してもまだ放課にならぬと、ニュースを放映して見せた。むろん日本がロシアとの戦争で勝った場面ばかりだ〔竹内好訳『魯迅全集』第二巻、筑摩書房、1976、p152〕)とあります。こうした魯迅の回想やその竹内訳をうけて、研究書でも「ちょうど日露戦争の最中だったので、日本がロシアと戦って勝っている場面ばかりであった」(横松宗『魯迅-民族の教師』河出書房新社、1986、p75)としているものがあります。したがって、さきの箇所を書いた方がこれらに依拠しているのであれば、Wikipediaの執筆ルール上問題はありません。ただ、「(加筆者注:魯迅の同級生である)鈴木氏の学級が細菌学授業を受講しはじめる時期は、明治39年1月である。すでに日露戦争の終了したあとだったが、周樹人も鈴木氏と同じ学級であり、この時期にはおのずと見ることになったであろう」(仙台における魯迅の記録を調べる会編『仙台における魯迅の記録』平凡社、p110)とあるように、幻灯事件が起こったのは1906年1月であり、日露戦争は終了しています。この場合、中国文学・歴史学でも諸説あると考えるべきで、Wikipediaの記事編集では「日露戦争について、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。」とする方が望ましいと考えます。--獨頭 2010年5月30日 (日) 07:01 (UTC)
「幻灯事件」への言及は確かに『吶喊』自序と「藤野先生」にあります。『吶喊』自序では「微生物学」の講義で、「藤野先生」では「細菌学」の講義で問題の幻灯を見たと述べています。しかし両者ともに「町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった」とは書いてありません。ですから、『吶喊』自序を出典として「町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった」とするのは不適切です。また、「町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった」と記述するのであれば、その根拠を示すべきです。諸説ある場合はそのむね明記し、断定を避けるべきです。--温水 2010年5月30日 (日) 07:52 (UTC)
- 温水さんが言われたいことが、少し分かってきました。「町で」という箇所が問題というのでしょうか。こちらは時期的なことを言っているのかなと思ってました。当時は幻灯会を開き日露戦争の映像を見る風潮があったので、「町で」見る機会はあったでしょうが、魯迅自身は授業中に見たと書いているので、「町で」と書くのは不正確だとは思います。「町で」という部分を単純に消去すれば、それで良いと思います。--獨頭 2010年5月30日 (日) 08:50 (UTC)
獨頭さん、ありがとうございます。私は「時期」と「町」の両方に問題があると強く感じて記事を訂正しました。中でも出典と異なる記述である「町」は訂正すべきだと感じました。私の説明が誤解を招いたようで、お詫びします。これで「時期」と「町」の記事訂正はすべきであると認められたことになるのでしょうか。--温水 2010年5月30日 (日) 09:20 (UTC)
- 現時点で坂井さんの論文を読んでないんで、それ自体についてはなんとも言えないのですが、少なくとも授業中に日露戦争に関する幻灯を見たというのは、日中両国の研究者大多数の意見だと思います。増井渉や竹内好、今村与志雄 、藤井昇三といった魯迅研究の大御所はみんな『吶喊』自序や「藤野先生」を引用し、この授業中に起きた幻灯事件こそ魯迅が医者から作家に転向する転機になったことに言及していたと記憶しています。また、一般向けの概要書である菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』(講談社、2005、p209)にも同様に「微生物学の講義」に出ていて幻灯事件に遭遇したという記述があります。仮に「町でみた」ということを坂井説が主張しているのであれば、それはむしろ孤立した説であるように思います。CiNiiからたぐって見ても、2008年以降の論文にその説が引用されているのを発見できませんでした(遺漏があればご指摘願います)。
- ですので、お館さまさんも拘泥するつもりはないとのことですし、一旦記述を「日露戦争について、授業中に戦争報道のニュース映画を観る機会があった。」とし、坂井説が確認できた時点で、注釈で軽く触れるというのが妥当だと思います。ちなみに坂井論文は先程国会図書館から取り寄せる手続きをしたので、1,2週間で内容確認はできると思います。--獨頭 2010年5月30日 (日) 12:26 (UTC)
私のほうも古い記憶によるものですので定かではありません。獨頭さんの采配にお任せします。--お館さま 2010年5月30日 (日) 12:56 (UTC)
PS.敬称「さん」は結構です。どうかお館さまと呼び捨てにして下さい。
現時点でトークの対象になっている問題ではなく申し訳ないのですが、獨頭さんが坂井論文をとりよせて確認していただけるということなので、併せて検証していただきたいことがあります。私は魯迅研究に触れたわけですらない愛読者にすぎないので、見当違いのことを申しましたらお許しください。現在の「人物・経歴について」において「医学に挫折する」という記述が見られます。以前の版にも見られた記述なのですが、少なくとも魯迅自身が表現した内容からそのような事実あるいは解釈の余地はないのではないかと判断したために削除しました(同時に、魯迅自身の言葉から、医学に対して固い決意があったわけではない旨の記述を追加しました)。削除した部分について、お館さまが表現を変更されて説得力のある形にして戻されておられるのですが、解釈としての説得力とはまた別に、やはり検証しがたいように思っておりました。トークにおいて、お館さまが坂井論文に「医学の勉強についていけなくなり町で遊興に耽っていたときに見たものではないかという解釈」がある旨を述べておられます。これが「挫折」という解釈の由来と思って間違いないでしょうか? そうであれば、この解釈が事実や証言などに基づいた定説たりうるものかどうか、意見としてのみ有効なものか、実際に該当部分が坂井論文に由来する記述であればという曖昧な前提でのお願いですが、坂井論文にあたって検証していただけると嬉しく思います。私としては、それこそ印象による意見にすぎないのですが、医学校中退は挫折といったやむなきものであるよりも意志的なものである時にはじめて魯迅にとっての意味を持つように思えます。読者の作品の鑑賞に関わる部分であるように思え、編集には参加したことがないにもかかわらず手出しをしてしまいました。トークへのこのような参加も含め、ルールに則っていないのではないかという部分については遠慮なくご指導下さい。--Chikaponta 2010年5月31日 (月) 04:34 (UTC)
- 返事が遅くなりましたが、お二方のご意見・ご希望了解しました。論文が届くまで若干時間があると思いますが、届き次第ご報告します。詳しい御返答はその時に。--独頭 2010年5月31日 (月) 13:25 (UTC)
- 途中経過を報告します。先日、坂田論文「魯迅が仙台で受けた解剖学史の講義について」が到着しました。結論から言いますと、この論文の中には医学から文学へと志望を変えた理由について、勉学について行けず町で日露戦争の映像を見たのがきっかけだった、といった類のことは記述されていません。「医学に挫折する」ということも述べていません。ですので、本文では一旦「日露戦争について、授業中に戦争報道のニュース映画を観る機会があった。」と改訂したいと思います。ただ、『季刊中国』にも坂田氏は魯迅について連載しており、これに記述してあるかもしれません。これは未見ですので、もうしばらく時間をいただいて、その内容を踏まえて再改訂したいと思います。--独頭 2010年6月7日 (月) 13:37 (UTC)
独頭樣御足労をおかけ申し上げ恐縮です。。「医学に挫折する」については先生のご講演を拝聴させていただいたのか、論文を拝見させていただいたのか記憶が定かではありませんが、それに相当することを御主張されたと理解しております。魯迅の行動と文脈上齟齬をきたすものではありませんのであえて削除の必要はないかと存じます。--お館さま 2010年6月10日 (木) 09:42 (UTC)
独頭さま、本当に感謝します。 『季刊中国』の坂井建雄先生の研究は、魯迅の大学でのノートに即した研究のようですね。何か従来は知られていなかった事実が明らかになるかと期待してしまいますが、仮にその内容が「人物・経歴」の記述に反映すると、現在の「人物・経歴」の項目の、仙台医専時代への比重が重すぎる状態になるのではないでしょうか。思い切って「人物・経歴」の仙台医専関連の記述は、現時点よりも少ない概要にとどめて、仙台医専関連の詳細は、「魯迅と仙台」の項目名を「魯迅の仙台医専時代」などに改めたり、「魯迅と医学」といった項目を立てそちらにまとめるといった扱いで、反映させられないでしょうか? 独頭さま個人のご負担を増してしまう提案ですが、せっかく検証していただいて内容に反映されないのは残念ですし、坂井論文の内容を知りたくもあります。自分の汗を流さず申し訳ありません。--Chikaponta 2010年6月13日 (日) 03:51 (UTC)
- 返事遅くなり恐縮です。改めて取り寄せた『季刊中国』掲載の4論文が今日届きました。ただ、読み通す時間が今なく、あと数日待っていただけると幸いです。「挫折する」云々についても、記載があれば注などで触れます。もし無い場合は、そのことをノートでまた報告します。--独頭 2010年6月14日 (月) 14:37 (UTC)
- 発言が時系列どおりではなくなるのですが、論文名を先に挙げた方が読みやすくなると思うので、肯えて発言を差し挟みます。今回調査した坂井論文は以下の通りです。
- 「魯迅と藤野先生の一九ヵ月(1)仙台医学専門学校入学の前後」(『 季刊中国』90、2007秋季)・・・坂井論文1
- 「魯迅と藤野先生の一九ヵ月(2)藤野先生の添削が始まる、一年次の一学期」(『 季刊中国』91、2007冬季)・・・坂井論文2
- 「魯迅と藤野先生の一九ヵ月(3)解剖図の添削をめぐって--一年次の二学期と三学期 」(『 季刊中国』92、2008春季)・・・坂井論文3
- 「魯迅と藤野先生の一九ヵ月(4)二年次の一学期と二学期、退学に至るまで」(『 季刊中国』93、2008夏季)・・・坂井論文4
- 坂井氏の論文の中でも、魯迅の仙台時代に焦点を当てたものを、追加で取り寄せ調べました。--独頭 2010年6月21日 (月) 14:22 (UTC)
- 本当に報告が遅くなり済みません。一つ一つ調べた結果を述べていきます。『季刊中国』に掲載された坂井論文は4つに分かれています。それぞれを以下では掲載順に番号を振って区別しています。まず、魯迅が幻灯をどこで見たのかについてですが、坂井論文では魯迅が日露戦争の幻灯を町かどこかで見たことを推測はしているものの、文学を志すきっかけとなったのは授業で見たことであると通説と同じ見解を示しています。(「とはいえ周樹人が最終的に医学をやめる決心をしたのは、細菌学の授業で同級生たちとともにスライドを見ていた、まさにその場であった。」〔坂井論文4、52頁〕) ですので、「幻灯を町で見る機会があった」という記述は坂井論文が出典となりえますが、それが魯迅が医学から文学へと転向した理由のように書くと坂井論文の主旨とはずれるといえるでしょう。
- 次に「挫折する」という文言についてですが、『季刊中国』の坂井論文を四つとも電子テキスト化し、検索すると坂井論文1に4回、このことばは使用されています。いくつか引用すると、「一年七カ月を仙台医専で医学を学び、東京に戻ってからは独逸学協会付設独逸語専修学校に籍を置いて文芸評論と欧米文学の紹介を行う。しかし魯迅の先駆的な文学活動は挫折し、没落する一家の家計を支えるために帰国を余儀なくされる。希望と転身と挫折からなる、青春の七年間であった」「そこで日本軍の手で首を斬られる中国人の姿をスライドで見せられ医学から文学に転じたこと、東京に戻って文学活動を始めるが挫折をしたことが述べられている」(以上坂井論文1、62頁)、「西洋医学によって病人を救う、軍医になる、国民の椎新への信念を高める、というこれらの意図が、素朴な浅慮であったという暗黙の評価が隠れているじその後の文学への転身、そして挫折という経験を正当化するためのレトリックと読むことができよう。」(坂井論文1、64頁) 以上のように「挫折」ということばは仙台を去って東京で文学活動していたがそれが「挫折」した、という意味で使用されています。したがって、仙台での医学を学ぶことに「挫折」した、と書くことは、坂井論文を典拠とする限りでは難しいと感じます。
- では、魯迅が仙台で医学を学ぶことに行き詰まっていたのかどうか、という点はどうか。坂井論文4では、それまでの1~4論文のまとめとして、以下のように書いています。「これまで周樹人が医学をやめた原因は、もっぱらスライド映写事件であるとしばしば考えられていた。しかし授業ノートの分析から、二年生の一学期まで順調に学習を続けていた周樹人が、二学期が始まった時点で突然に医学を学ぶ意欲を失ったことが明らかになった。周樹人が医学の学習意欲を失う大きな原因が、東京で過ごした冬休み中にあったことは間違いない。中国の革命運動のエネルギーは、この冬休みの前から東京の留学生たちの間で激しく高まっていた。新聞や手紙などを通じてその状況を知ってはいても、留学生たちの革命をめぐる動きを直に目撃するのは衝撃であったに違いない。その体験が周樹人の心を医学から離れさせたのではないだろうか」(坂井論文4、53頁) このように、魯迅が仙台時代学習意欲が損なわれていたことは、はっきり指摘されています。ただ、それは魯迅の能力が不足していたためでなく、東京に一時的に赴き、そこで同じ中国人たちの政治運動に触れて、このまま医学を志しても良いのかという疑問がわいたからだと述べられています。
- 坂井論文の、通説と異なるオリジナリティの部分は、魯迅の文学への転向は幻灯事件がきっかけになったものの、それだけで突然決意されたのではなく、それ以前から兆候(あるいは伏線)があったことを、当時のノートから丹念に調査したことにあると思います。
- 以上が、さっと調べた報告です。--独頭 2010年6月20日 (日) 22:21 (UTC)
魯迅の言語観
[編集]魯迅の言語観については独自研究の感が拭えません。残念ですが一定期間おいて出典が示されないならばばっさり外してしまうのもやむをえないでしょう。--お館さま 2010年6月11日 (金) 11:14 (UTC)
出典を明記してください
[編集]2010年9月2日時点で、最後の2段落
仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)の教授・藤野は、一人の中国人留学生に「私の講義を書き取ることができますか」と声をかけた。留学生がノートを提出すると、数日後に戻さ た。開くと一面に朱筆。書き落としだけでなく、日本語の誤りまで訂正されていた。この留学生こそ、魯迅その人。藤野先生を生涯の師と仰いだ
帰国後、魯迅は病にメスを振るうように、ペンの力で乱れた社会に挑む。夜、疲れて執筆の手が鈍ると恩師の写真を見て、その語りかけてきそうな姿に勇気を奮い起こしたという。この勇気 がペン先から迸り、社会悪、国家悪と戦う言論となった。
というくだりは、たいへん美しい物語ですが、検証可能性がありません。出典が明示されなければ、削除することを提案します。--さんしろ 2010年9月2日 (木) 07:14 (UTC)さんしろ
相当期間を経ても要出典の状態が改善されなかったため、削除いたします。--さんしろ 2010年9月22日 (水) 18:11 (UTC)
ここの出典は魯迅「藤野先生」です。失礼ながら、魯迅の編集に携わるなら、魯迅の重要な作品くらい読むべきでしょう。 --温水 2010年10月8日 (金) 03:36 (UTC) 温水様 お気を悪くされたようなら、申し訳ありませんでした。 私は、記事内容の出典を明記し、検証可能性を保障するというウィキペディアの基本方針に従ったまでです。 あなたのウィキペディアにおける活動が豊かなものであることを願います。--さんしろ 2010年10月25日 (月) 07:21 (UTC)