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ノート:鼠ヶ関

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鼠とは蝦夷または蛮人

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仮説、鼠とはネズミではなく、蝦夷または蛮人を表す。越国編集[1]鼠ヶ関編集[2]土蜘蛛編集[3]や、日本書紀に現れる鼠をネズミと解釈せず、蝦夷または土着の蛮人と解釈すると全体の流れが掴める。日本書紀で度々記述される、孝徳天皇2年9月、鼠が東方に移動した、は大勢の蝦夷または蛮人の移動または逃避。《白雉五年(654年)十二月壬寅朔己酉【八】》老者。語之曰。鼠向倭都、遷都之兆也。は大勢または選ばれた代表の鼠(蝦夷または蛮人)がに向かった、と解釈できる。 鼠がネズミを表さない論拠として下記の点を挙げたい。

  • 太古から住むネズミの移動だけ、なぜ朝廷へ報告に必要があるのか。他の動物の移動の記述はあるのか。(古来、家屋が火事で燃える前に、それを察知してネズミは逃げ出すとも言われるが、庶民でも経験する一般的事柄をなぜ報告するのか)
  • 移動の事実だけを述べ、地元や朝廷はどの様な対策を採ったかの記述はあるかの視点。
  • 多くの記述が人物の働き、政治的動きであるのにも係わらず、ネズミに例外的に触れている。ネズミの移動は記録に値する大事件だろうか。
  • なぜ、越国およびこの地域からの報告だけなのか。ネズミは越国に限らず、日本と世界中に住み着いている。
  • 鼠は何故、わざわざ寒い東方(または北方)の方向へ逃避したのか。ネズミであるとして実際に逃避が目撃されたか。
  • 土蜘蛛の編集で加筆したが、彼らが住む石窟を「鼠の石窟」と呼び、該当地域(速見郡)であるから蝦夷ではないとしても蛮人と呼ぶ人々であったことが伺える。(巻七)《景行天皇十二年(壬午八二)十月》冬十月。到碩田国。・・到速見邑。有女人。曰速津媛。・・茲山有大石窟。曰鼠石窟。有二土蜘蛛。住其石窟。一曰青。二曰白。では「曰鼠石窟。・・・」の記述は人間である土蜘蛛2人の石窟を指し、鼠はネズミを表さないと解せ、人名またはあだ名らしき一人目は「白」と二人目は「青」すら挙げている。
  • 《大化元年(六四五)十二月戊午【二十四】》◆戊午。越国言。'海畔枯査向東移去。沙上有跡。如耕田状。是年也、太歳乙巳。においても「海畔枯査を海浜の蝦夷」とされ、蝦夷または蛮人が去ったあと(知る由も無く驚いたが、彼らもまた)沙または泥の湿地に(稲作を行い)を耕した状態であった、と解釈できる。ネズミが逃げた後に「沙上が如耕田状」は理解に苦しむ。なお、『日本書紀(下)全現代語訳』・講談社学術文庫・宇治谷孟・2008年1月39刷、 ISBN4-06-158834-6、165ページでは「越の国から言ってきた。浜辺に漂っていた枯木の切株が東に向かって流れていきました。砂の上に残った跡をみると、田地を耕したようなかたちをしておりましたと。この年、太歳乙巳。」と訳される。原文の字面は「海畔の枯査が東に向かい移り去る。」であり、漂う、流れるの文字はなく、嵐・風雨なのか、原因と被害にも言及がない。
  • 熊襲クマ隼人ハヤブサ土蜘蛛、時代は下り「美濃の蝮・みののまむし」と呼ばれた斎藤道三など動物に、奈良県吉野地方の「くず「」など、古くは文化・慣習として人間集団や人物を異名・蔑称として名付け安易で話題とし理解が容易な人称代名詞とすることがあった。よって鼠もまたネズミを指さない。

参考外部リンク

  • 村上市教育情報センター・村上市立中央図書館のサイト古代の郷土・磐舟柵によれば、『海畔枯査』を「海浜に住む蝦夷」、「越国之鼠」とは「越国の内陸部の蝦夷」と解釈している。2010年7月18日閲覧
  • 日本書紀《巻首》◆日本書紀巻第二十五日本書紀(朝日新聞社本)
    • 《大化二年(六四六)是歳》◆是歳。越国之鼠。昼夜夜相連。向東移去。
    • 上記の日本書紀の記述は、『日本書紀(下)』全現代語訳 宇治谷 孟 ISBN4-06-158834-6 (1988年8月10日第1発行)2008年1月21日第39刷発行、頁180では「この年、越国の鼠が昼夜連なって東に向かって移動した。」と訳している。
  • 越後国風土記逸文の土蜘蛛

--Namazu-tron 2010年7月18日 (日) 01:34 (UTC)加筆--Namazu-tron 2010年7月18日 (日) 04:14 (UTC)加筆--Namazu-tron 2010年7月18日 (日) 14:45 (UTC)加筆--Namazu-tron 2010年7月18日 (日) 23:31 (UTC)加筆--Namazu-tron 2010年7月20日 (火) 02:04 (UTC)--Namazu-tron 2010年8月9日 (月) 12:16 (UTC)--Namazu-tron会話2012年5月13日 (日) 17:15 (UTC)[返信]

越での城柵設置については様々に論じられていますが、鼠を蝦夷とする説を歴史学者が唱えたことはないと思います。私は前から蝦夷や城柵には関心を持ち、多く本を読んだつもりですが、その中に鼠の移動の実情について詳しく論じたものを見つけることはできませんでした。たとえば、熊谷公男『古代の蝦夷と城柵』(吉川弘文館、2004年)、工藤雅樹『古代蝦夷』(吉川弘文館、2000年)にはありませんし、小林昌二『高志の城柵』(高志書院、2005年)にも見えません。鼠移動記事を、『日本書紀』のこの時期の記述の特徴とし、そこから城柵の年代観を論じたものがあったと記憶するのですが、探し出せていません。その論文でも、鼠を蝦夷と読み替える、というような説には触れていませんでした。怪異や前兆の記事は、この箇所に限らず、書紀に限らず、古い時代の本にはたくさんあります。それをいちいち別の意味で書かれた暗号に違いないと考えるのは、歴史学のとるところではないのです。
ウェブ上では、Namazu-tronさんが紹介した「古代の郷土」という名のページと、ここウィキペディアにだけあるようです。「古代の郷土」は、郷土史研究家が地元で配布した冊子『村のあれこれ 大毎雑記帳』の一部です。村上市教育情報センター・村上市立中央図書館が所蔵・公開しているとはいえ、歴史学者の書いた本と同等には扱えないものと思います。その説が、言葉を別の言葉に読み替えるような内容であればなおさらです。
鼠移動を前兆とする記事は何も東北辺境だけでなく、大化元年12月の難波遷都にについてもあります。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の127頁注13によれば、鼠の移動を遷都の前兆とする記事が『北史』にあるとのこと。ともかく、蝦夷の移住によって遷都が実現した、などということは考えようもありませんので、鼠=蝦夷という説は普通には出てこないのです。これをウィキペディアに掲載する重みがある学説とするのは無理があります。削ったほうがよいです。--Kinori会話2014年5月7日 (水) 23:10 (UTC)[返信]
2010年に提起、掲載され、その後ウィキペディアで何年も疑問が出されなかった記述ではありますが、権威のある書籍で触れられない説ですので、数日中に異論がなければ除去したいと思います。--Kinori会話2014年5月18日 (日) 07:52 (UTC)[返信]
鼠=蝦夷説を除きました。要約欄に、「古代に関があったという説を除く」と書いてしまいましたが、これは要約欄のほうの間違いで、除いていません。--Kinori会話2014年6月18日 (水) 03:30 (UTC)[返信]
蛇足ながら「鼠移動記事を、『日本書紀』のこの時期の記述の特徴とし、そこから城柵の年代観を論じたもの」を後になって見つけました。関口明『蝦夷と古代国家』(1992年)の29ページ以下です。--Kinori会話2014年6月21日 (土) 11:09 (UTC)[返信]