コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ヘンドリック・カシミール2世 (ナッサウ=ディーツ侯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘンドリック・カシミール2世
Hendrik Casimir II
ナッサウ=ディーツ侯
在位 1664年 - 1696年

出生 (1657-01-18) 1657年1月18日
ネーデルラント連邦共和国デン・ハーグ
死去 (1696-03-25) 1696年3月25日(39歳没)
ネーデルラント連邦共和国レーワルデン
配偶者 ヘンリエッテ・アマーリエ・フォン・アンハルト=デッサウ
子女 一覧参照
家名 オラニエ=ナッサウ家
父親 ナッサウ=ディーツ侯ウィレム・フレデリック
母親 アルベルティーネ・アグネス・ファン・ナッサウ
役職 フリースラント州フローニンゲン州ドレンテ州総督(1664年 - 1696年)
テンプレートを表示

ヘンドリック・カシミール2世またはハインリヒ・カジミール2世:Hendrik Casimir II van Nassau-Dietz:Heinrich Casimir II. von Nassau-Dietz, 1657年1月18日 - 1696年3月25日)は、ナッサウ=ディーツ侯(在位:1664年 - 1696年)、フリースラント州フローニンゲン州ドレンテ州の総督。現在のオランダ王家の直接の始祖である。

生涯

[編集]

ナッサウ=ディーツ侯ウィレム・フレデリックとその妻でオラニエ公フレデリック・ヘンドリックの娘であるアルベルティーネ・アグネスの間の一人息子として生まれた。1664年に父が不慮の事故で亡くなると、わずか7歳でフリースラント、フローニンゲン、ドレンテの3州の総督職を受け継いだが、国政は母親が摂政として執り行った。

6歳年上の従兄でホラント州総督のウィレム3世に関しては、幼い頃から母親に優秀なウィレム3世を模範とするように言われ続けたせいで劣等感を持ち、快く思っていなかった。1677年、ヘンドリック・カシミール2世は落馬事故に遭った後、ウィレム3世の軍隊を離れている。彼は結婚後はウィレム3世と親しく関わるようになり、ウィレム3世に1687年に誕生した息子ヨハン・ウィレム・フリーゾの洗礼の代父になってもらった。翌1688年、ヘンドリック・カシミール2世はウィレム3世によるイングランド出兵(名誉革命)に参加し、1689年にはネーデルラント連邦共和国の元帥に就任したが、まもなくその職を退いた。病気がちで、母の死ぬ2か月前に39歳で亡くなった。

ウィレム3世が1702年に子供のないまま死ぬと、息子のヨハン・ウィレム・フリーゾがオラニエ公位を引き継いだ。これにより、ウィレム1世沈黙公の弟のナッサウ=ディレンブルク伯ヤン6世の直系であるナッサウ=ディーツ家がオラニエ=ナッサウ家を称することになった。

子女

[編集]

1683年11月26日デッサウにおいて、叔母のヘンリエッテ・カタリーナとその夫のアンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク2世の間の娘で従妹に当たるヘンリエッテ・アマーリエと結婚し、間に9人の子女をもうけた。

  • ウィレム・ヘオルヘ・フリーゾ(1685年 - 1686年)
  • ヘンリエッテ・アルベルティーネ(1686年 - 1754年)
  • ヨハン・ウィレム・フリーゾ(1687年 - 1711年) - ナッサウ=ディーツ侯、オラニエ公
  • マリア・アマーリア(1689年 - 1711年)
  • ソフィア・ヘドウィヒ(1690年 - 1734年) - 1709年、メクレンブルク=シュヴェリーンカール・レオポルトと結婚
  • イサベレ・シャルロッテ(1692年 - 1757年) - 1725年、ナッサウ=ディレンブルク侯クリスティアンと結婚
  • ヨハンナ・アグネス(1693年 - 1765年)
  • ルイーゼ・レオポルディーナ(1695年 - 1758年)
  • ヘンリエッテ・カシミーラ(1696年 - 1738年)

参考文献

[編集]
  • Ernst Joachim (1880). "Heinrich Casimir, Fürst von Nassau-Diez". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 11. Leipzig: Duncker & Humblot. p. 553.
公職
先代
ウィレム・フレデリック
フリースラント州フローニンゲン州ドレンテ州総督
1664年 - 1696年
次代
ヨハン・ウィレム・フリーゾ
爵位・家督
先代
ウィレム・フレデリック
ナッサウ=ディーツ侯
1664年 - 1696年
次代
ヨハン・ウィレム・フリーゾ