ハインリヒ=ベレンガル
ハインリヒ(6世) Heinrich VI. | |
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ローマ王 | |
在位 | 1147年3月30日 - 1150年 |
出生 |
1136/7年 |
死去 |
1150年(13歳没) |
埋葬 | 神聖ローマ帝国、ロルヒ修道院 |
家名 | ホーエンシュタウフェン家 |
父親 | ローマ王コンラート3世 |
母親 | ゲルトルート・フォン・ズルツバッハ |
ハインリヒ=ベレンガル[1](ドイツ語:Heinrich Berengar, 1136/7年 - 1150年)またはハインリヒ(6世)(Heinrich (VI.))[2]は、ローマ王コンラート3世とその2番目の妃ゲルトルート・フォン・ズルツバッハの長男。父の母方の祖父神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と母方の祖父ズルツバッハ伯ベレンガル2世の名をとって名付けられた。父の跡を継ぐ予定であったが、父に先立って死去した。
生涯
[編集]1139年、ハインリヒはハンガリー王ベーラ2世の娘ソフィーアと婚約した。ソフィーアはドイツ語と宮廷のしきたりを学ぶためドイツに移った。しかし1141年にベーラ2世が死去した後、ドイツとハンガリーとの関係が冷めてしまったため、ソフィーアはドイツに滞在していたものの、婚約は破棄された。ソフィーアの兄ハンガリー王ゲーザ2世から何度か手紙が送られたのち、ソフィーアは滞在していたドイツの修道院に残ることを許され、コンラート3世およびハインリヒもこれを認めた[3]。
1147年3月13日にレーゲンスブルクで開かれた議会において、コンラート3世が第3回十字軍に出発する前に10歳のコンラートは諸侯によりローマ王に選出された[4][5]。ハインリヒはバラの主日(3月30日)にアーヘンにおいて聖油を受け、戴冠された[5][6]。十字軍で父コンラート3世が不在の間(1147年6月 - 1149年5月)、ハインリヒは有力な修道院長ヴィーバルトと書記官ハインリヒ・フォン・ヴィーセンバッハの指導下に置かれた[5][7]。ハインリヒの尽力により、ハインリヒ・フォン・ヴィーセンバッハは書記官長となった[5]。この期間にハインリヒが書いた手紙が9通(うち8通は完全な形で)残されている[5]。
ハインリヒは1150年のフロヒベルクの戦いにおいて司令官となり、ヴェルフ6世およびヴェルフ7世に勝利した[8]。ハインリヒの優れた武勇は東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスとその皇后で母ゲルトルートの妹エイレーネーに宛てた手紙で強調され、マヌエル1世夫妻に勝利を伝えている[9][10]。ハインリヒは同年のうちに死去し[11][12]、ロルヒ修道院に埋葬された。
脚注
[編集]- ^ Dale 2016, p. 195.
- ^ Fuhrmann 1986, p. 202.
- ^ Lyon 2013, pp. 236–37.
- ^ Fuhrmann 1986, p. 130.
- ^ a b c d e Hausmann 1969, p. 519.
- ^ Waitz 1879, p. 37, Annales Aquenses, s.a. 1147: Heinricus puer 10 annorum, filius Conradi regis, in media quadragesima, scilicet 3. Kal. Aprilis, unctus est in regem Aquisgrani ("10歳の少年であったローマ王コンラートの息子ハインリヒは、四旬節の真っ只中の3月30日にアーヘンで油を注がれた。").
- ^ Bumke 1991, p. 461.
- ^ Reuter 2001, p. 153.
- ^ Hausmann 1969, pp. 404–06, for Conrad's letter (no. 229) to Irene
- ^ Hausmann 1969, pp. 530–31, for Henry's letter (no. 10) to Manuel, and pp. 531–32 for his letter (no. 11) to Irene.
- ^ Fuhrmann 1986, p. 132.
- ^ Waitz 1879, p. 38, Annales Aquenses, s.a. 1150: Obiit Heinricus rex puer 13 annorum ("13歳の少年であったローマ王ハインリヒは死去した").
参考文献
[編集]- Bumke, Joachim (1991). Courtly Culture: Literature and Society in the High Middle Ages. Berkeley: University of California Press
- Dale, Johanna (2016). “Inauguration and Political Liturgy in the Hohenstaufen Empire, 1138–1215”. German History 34 (2): 191–213. doi:10.1093/gerhis/ghw014 .
- Fuhrmann, Horst (1986). Germany in the High Middle Ages: c.1050–1200. Translated by Timothy Reuter. Cambridge: Cambridge University Press
- Hausmann, Friedrich, ed. (1969). "Die Urkunden Konrads III. und seines Sohnes Heinrich [Conradi III. et filii eius Heinrici Diplomata]". Monumenta Germaniae Historica. Diplomata. Vol. 21. Vienna.
- Lyon, Jonathan R. (2013). Princely Brothers and Sisters: The Sibling Bond in German Politics, 1100–1250. Ithaca and London: Cornell University Press
- Reuter, Timothy (2001). "The 'Non-Crusade' of 1149–50". In Phillips, Jonathan; Hoch, Martin (eds.). The Second Crusade: Scope and Consequences. Manchester: Manchester University Press. pp. 150–63.
- Waitz, Georg, ed. (1879). "Annales Aquenses". Monumenta Germaniae Historica. Scriptores. Vol. 24. Hanover. pp. 33–39.