ハッラーンの戦い
ハッラーンの戦い | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
アンティオキア公国 エデッサ伯国 | セルジューク朝 | ||||||
指揮官 | |||||||
ボードゥアン2世(捕虜) ボエモン1世 タンクレード ジョスラン・ド・クルトネー(捕虜) |
ジェケルミシュ スクマーン | ||||||
戦力 | |||||||
重騎兵3,000 歩兵・弓兵9,000 |
騎兵7,000 弓騎兵3,000 | ||||||
被害者数 | |||||||
甚大 | 不明 | ||||||
ハッラーンの戦い(アラビア語: معركة حران, フランス語: Bataille de Harran)は、1104年5月7日[1]に、アンティオキア公国およびエデッサ伯国の十字軍国家とセルジューク朝の間で行われた戦闘。これは、十字軍国家に対するセルジューク人の最初の戦いであった。
背景[編集]
モースルの領主であったジェケルミシュとマルディンの領主であったスクマーン率いるセルジューク朝系の軍はカブール近郊(現在のラース・アル=アインと推定される)に集結してエデッサの国境地域を占領し、エデッサを包囲した[2]。エデッサ伯ボードゥアン2世は、アンティオキア公ボエモン1世とガリラヤ公タンクレードに救援を求めた。
戦闘[編集]
ボードゥアン2世とその従弟のジョスラン率いるエデッサ軍が左翼に、ボエモン1世とタンクレード率いるアンティオキア軍が右翼に部隊を配備した[1]。セルジューク朝軍の偽装退却によってエデッサ軍は2日間追撃を行った[2]。疲弊したエデッサ軍はセルジューク軍に攻撃を仕掛けたが敗北し、ボードゥアン2世とジョスランは捕虜となった[2]。アンティオキア軍はわずかな損害を被ってエデッサに撤退した。その後、ボエモン1世はタンクレードをアンティオキアとエデッサの摂政に指名し、増援を得るためにイタリアに赴いた。
出典[編集]
- ^ a b of Harran Battle of Harran - ブリタニカ百科事典
- ^ a b c Grant 2017, p. 142
参考資料[編集]
- R. G. Grant (2017/10/24). 1001 Battles That Changed the Course of History (Reprint ed.). Chartwell Books. ISBN 978-0785835530