コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ハミ郡王家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ハミ郡王家とは、かつて東トルキスタンクムル(ハミ)を統治していた地方政権である。1697年から1930年までの間、中華民国の制度下でハミを統治し、(モンゴルに設置された)に相当する機能があった[1]

歴史

[編集]

15世紀初頭のハミにはの支配下にある衛が設置され(en)、忠順王の称号を与えられたチャガタイ家チュベイの子孫が支配していた。1513年モグーリスタン・ハン国マンスール・ハンがハミを占領し、1529年に明はハミの奪回を諦め、マンスールに通貢を認めた[2]

清・ジュンガル戦争の中で1679年にハミはジュンガルに服属し、ガルダン・ハーンツェワンラブタンの支配を受けた。ジュンガルの軍隊はハミで食料を略奪し、ハミの支配者のウバイドゥッラーはジュンガルの攻撃に備えて清と連携を取るようになった[3]1697年にウバイドゥッラーは清に服属し、旗の長に相当するジャサク(札薩克)の地位が与えられた。1715年にハミはジュンガルの攻撃を受け,清に支援を求めた。

1860年代のドンガン人の蜂起ではハミの郡王は清朝につき、同じムスリムを攻撃するハミの郡王は反乱勢力から非難された[4]。1867年に反乱軍に捕らえられた郡王博錫爾は処刑され、彼の子のムハンマドも一時的に捕虜となった。1864年に親王の位を与えられるなど清から厚遇を受けるが、ハミ周辺は反乱の鎮圧に参加する左宗棠劉錦棠の軍の兵站基地となり、より多くの清の商人、官人、軍人がハミを訪れるようになった[4]

1884年に東トルキスタンに新疆省が設置された後も、ハミの郡王家は存続する[5]1881年にムハンマドが子を残さず没したため、養子のマクスド・シャーが地位を継承した。ムハンマドとマクスド・シャーは領民に重税と労役を課したため、1907年1912年の2度にわたって反乱が起こった[6]。19世紀末から20世紀初頭に東トルキスタンに入境した外国の探検家はハミを訪れ、ドイツル・コックロシア帝国の軍人マンネルヘイム大谷探検隊渡辺哲信吉川小一郎らがマクスド・シャーと面会した[7]。1907年にハミを訪れた日本の軍人日野強とマンネルヘイムの記録によって、当時のハミ城内の様子、直近に起きた反乱についての伝聞を知ることができる[8]

1912年に中華民国が成立するが、郡王家はハミの支配権を保持し続けた[9]。1930年にマクスド・シャーが没すると、新疆省の主席金樹仁は郡王家を廃止し、中央政府の支配に組み込もうとした(改土帰流)。金樹仁の政策はハミ蜂起を引き起こし、郡王家の顧問であったユルバース・カーンはマクスド・シャーの子である聶滋爾の復位を図った[10]

制度

[編集]

ハミの郡王家はウイグルの政権とされるが[11]、初代の王であるウバイドゥッラーの出自は明らかではなく[2]、モグーリスタン・ハン国の王統との関連は疑問視されている[2][12][13]。『辛卯侍行記』の著者である陶保廉はウバイドゥッラーはモンゴル人や回人ではなくウイグルであると述べ、彼の父がハミの郡王に出自を訪ねた時に祖先がヤルカンドから移住した話は聞いていないという回答を受け取ったことを注に記している[14]

1727年に清によってハミの城の北東に新しい城砦が建設され、従来のハミは「旧城」「回城」、清が建設した城は「新城」と呼ばれるようになった[15]。新城には清の統治機関が置かれ、旧城にはハミの郡王が居住し、旧城の側に王族の廟が建てられた。東トルキスタンの他の領主に比べて、ハミは清との交流が活発であり、中国の文化の影響を強く受けていた[11]。ハミの郡王は清の朝廷から強大な権力を与えられていたが、死刑の執行に関してはハミに駐屯していた清の官人の許可を得なければならなかった[16][17]。郡王は公的には清の皇帝の家臣であり、6年ごとに北京に赴き、40日の間皇帝に仕えなければならなかった[18][19]。ハミは毎年新疆省の省都であるウルムチに少額の貢納を支払い、その見返りとして銀1200両の公的な交付金を受け取っていた。継続的に戦略的に重要な都市を清の支配下に組み込むために必要最小限の出費だと、新疆省の主席楊増新は考えていた[20]

1928年に楊増新が暗殺されるが、老齢のマクスド・シャーはこの時期に2万5000人から3万人の民衆を支配していたと推定される。ハミの郡王には,徴税権と裁判権が付与されていた。彼の統治は21人のベグに支えられており、うち4人はハミに配置され、他の5人は平原部の村落を統治し、残りの12人はバルクル山カルリク山を含む山岳地帯を管理していた。また、マクスド・シャーは旧城の兵士よりも練度が高いウイグルの民兵を保有していた。支配地域のオアシスの土壌は肥沃で開発が進んでおり、1929年以前のハミ郡王領は東トルキスタンの中でも比較的豊かで繁栄していた地域の一つだった。

マクスド・シャーと個人的に面識があったイギリスの宣教師ミルドレッド・ケーブルとフランチェスカ・フレンチによると、権威ある「ゴビの王」の称号を保有するマクスド・シャーが居住するハミに彼ら自身の政府が強固に確立されている限り、トルファンタリム盆地のウイグル人は中国の支配を認めており、彼らにとってハミの郡王家は精神的に重要な存在だった[21]。郡王家の支配下で民衆は困窮した生活を強いられ、自由は制限されていた[11]。しかし、自分たちと同じ民族であり、同じ宗教を信仰する人物が君臨する政権の代表者である郡王の存在は、ウイグル人の蜂起を防いでいた。郡王家の廃止によって起きたハミ蜂起では、多くの血が流された[22]

歴代君主

[編集]

[23]

代数 名前 在位年
1 ウバイドゥッラー(額貝都拉 Abdullah Beg é-bèi-dōu-lā) 1697年 - 1709年
2 郭帕 Gapur Beg guō-pà 1709年 - 1711年
3 額敏 Emin É-mǐn 1711年 - 1740年
4 玉素甫 Yusuf Yù-sù-fǔ / 玉素卜 Yusup yù sù bǔ 1740年 - 1767年
5 伊薩克 Ishaq yī-sà-kè 1767年 - 1780年
6 額爾德錫爾 é-Ěr-dé-xī-ěr 1780年 - 1813年
7 博錫爾 Bashir bó-xī-ěr 1813年 - 1867年
8 ムハンマド(賣哈莫特 Muhammad mài-hǎ-mò-tè) 1867年 - 1882年
9 マクスド・シャー(沙木胡索特 Maqsud Shah shā-mù-hú-suǒ-tè 1882年 - 1930年

脚注

[編集]
  1. ^ 达远, 黄. “试论清代哈密回旗”. 新疆大学中亚文化研究所. 
  2. ^ a b c 濱田 1998, p. 101-102.
  3. ^ 佐口 1963, p. 19-21.
  4. ^ a b 佐口 1991, p. 011-012.
  5. ^ James A. Millward (2007). Eurasian crossroads: a history of Xinjiang. Columbia University Press. p. 190. ISBN 978-0-231-13924-3. https://books.google.com/books?id=8FVsWq31MtMC&q=maqsud+shah&pg=PA190 2010年6月28日閲覧。 
  6. ^ S. Frederick Starr (2004). Xinjiang: China's Muslim borderland. M.E. Sharpe. p. 74. ISBN 0-7656-1318-2. https://books.google.com/books?id=GXj4a3gss8wC&q=maqsud+shah&pg=PA74 2010年6月28日閲覧。 
  7. ^ 佐口 1991, p. 013-014.
  8. ^ 金子民雄『中央アジアに入った日本人』中央公論社、1992年、310-316頁。 
  9. ^ 哈密市地方志編纂委員会 1990, p. 291.
  10. ^ James A. Millward (2007). Eurasian crossroads: a history of Xinjiang. Columbia University Press. p. 191. ISBN 978-0-231-13924-3. https://books.google.com/books?id=8FVsWq31MtMC&q=maqsud+shah&pg=PA190 2010年6月28日閲覧。 
  11. ^ a b c 哈密市地方志編纂委員会 1990, p. 283.
  12. ^ 佐口 1963, p. 20.
  13. ^ 中見立夫; 濱田正美; 小松久男 著「中央ユーラシアの周縁化」、小松久男 編『中央ユーラシア史』山川出版社〈新版世界各国史〉、2000年10月、308頁。 
  14. ^ 佐口 1991, p. 03-04.
  15. ^ 佐口 1991, p. 06.
  16. ^ Alexander Douglas Mitchell Carruthers; Jack Humphrey Miller (1914). Unknown Mongolia: a record of travel and exploration in north-west Mongolia and Dzungaria, Volume 2. Lippincott. p. 487. https://books.google.com/books?id=DHsTAAAAYAAJ&q=kumul+khanate&pg=PA487 2010年6月28日閲覧。 
  17. ^ Carruthers Douglas (2009). Unknown Mongoli: A Record of Travel and Exploration in North-West Mongolia and Dzungaria. BiblioBazaar, LLC. p. 487. ISBN 978-1-110-31384-6. https://books.google.com/books?id=nUt_g-c1Y5EC&q=kumul+khanate&pg=PA487 2010年6月28日閲覧。 
  18. ^ Alexander Douglas Mitchell Carruthers; Jack Humphrey Miller (1914). Unknown Mongolia: a record of travel and exploration in north-west Mongolia and Dzungaria, Volume 2. Lippincott. p. 489. https://books.google.com/books?id=DHsTAAAAYAAJ&q=kumul+khanate&pg=PA487 2010年6月28日閲覧。 
  19. ^ Alexander Mildred Cable; Francesca French (1944). The Gobi desert. Hodder and Stoughton. p. 134. https://books.google.com/books?id=DzNyAAAAMAAJ&q=maksud+shah 2010年6月28日閲覧。 
  20. ^ Andrew D. W. Forbes (1986). Warlords and Muslims in Chinese Central Asia: a political history of Republican Sinkiang 1911-1949. Cambridge, England: CUP Archive. p. 247. ISBN 0-521-25514-7. https://books.google.com/books?id=IAs9AAAAIAAJ&q=maqsud+death+1908 2010年6月28日閲覧。 
  21. ^ Andrew D.W.Forbes "Warlords and Muslims in Chinese Central Asia" Cambridge University Press, Cambridge, 1986, page 44
  22. ^ Andrew D. W. Forbes (1986). Warlords and Muslims in Chinese Central Asia: a political history of Republican Sinkiang 1911-1949. Cambridge, England: CUP Archive. p. 44. ISBN 0-521-25514-7. https://books.google.com/books?id=IAs9AAAAIAAJ&q=maqsud+shah&pg=PA44 2010年6月28日閲覧。 
  23. ^ 《清史稿》卷二百十一 表五十一/藩部世表三

参考文献

[編集]
  • 佐口透『18-19世紀 東トルキスタン社会史研究』吉川弘文館、1963年。 
  • 佐口透「新疆コムルのイスラム公国 哈密郡王領の歴史」『東洋学報』第72巻第3,4号、東洋文庫、1991年。 
  • 濱田正美「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』岩波書店〈岩波講座13〉、1998年8月。 
  • 哈密市地方志編纂委員会編 (1990年). 哈密縣志. 新疆人民出版社