ハロルド・ガーマン
ハロルド・アルヴァ・ガーマン Harold Alva Garman | |
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生誕 |
1918年2月26日 イリノイ州フェアフィールド |
死没 |
1992年8月13日 (74歳没) イリノイ州アルビオン |
所属組織 | アメリカ陸軍 |
軍歴 | 1942年 - 1946年 |
最終階級 | 五級特技兵(Technician Fifth Grade) |
墓所 | Samaria Baptist Church |
ハロルド・アルヴァ・ガーマン(Harold Alva Garman, 1918年2月26日 - 1992年8月13日)は、アメリカの軍人。陸軍の衛生兵として第二次世界大戦に従軍し、陸軍における名誉勲章受章者の1人となった。
経歴
[編集]1942年、ガーマンはイリノイ州アルビオンにて陸軍に入隊し[1]、1944年8月25日には衛生科二等兵(private)として第5歩兵師団第5衛生大隊に配属された。ある日、第5師団はフランス・モントロー付近でセーヌ川の渡河を試みており、ガーマンも負傷者を治療する為にこの前線に配置されていた。その時、負傷者を積んだボートに対してドイツ軍が機関銃で銃撃を加え始め、それを見たガーマンは川に飛び込み、銃弾の掃射を受けつつもボートを陣地まで牽引したのである。この功績を讃え、戦闘のおよそ7ヶ月後にあたる1945年3月29日、ガーマンに対して名誉勲章が授与された。
ガーマンは退役までに五級特技兵(Technician Fifth Grade)に昇進した。彼はマリー・I・ジョーンズと結婚し、2人の子供を儲けた。彼は74歳で死去し、アルビオンのサマリア・バブテスト教会に葬られた。
名誉勲章勲記
[編集]ガーマンに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。
課せられた義務を凌駕する類稀なる武勇と自らの命をも顧みない勇敢に捧ぐ。
1944年8月25日、フランス・モントロー付近にて、セーヌ川北岸に進出した我が軍は橋頭堡の確保を巡り敵軍との激戦を展開していた。戦いの中、負傷者らは衛生大隊から派遣された担架員が乗り込んだアサルトボートで南岸に避難していた。ガーマン二等兵も担架員としてこのボートに乗り込んでおり、戦闘が繰り広げられる北岸から友軍救急車が待機する南岸へと負傷者を送り届けていた。しかし、負傷者を満載したあるボートが川の半ばにたどり着くと、突然100ヤード先の北岸のドイツ軍機関銃陣地からの銃撃が始まったのである。負傷者らは水面に飛び込んだが、1名は重傷の為に立ち上がれなかった。さらに別の2名も負傷の為に泳げずボートにしがみついていた。これら負傷者らの危機的状況を目の当たりにしたガーマン二等兵は、躊躇することなくセーヌ川へと飛び込んだ。銃火の元を泳いでまもなくボートに到達した彼は、多大なる努力の元にこのボートを南岸へ曳航したのである。この英雄的行いは3人の負傷者を救っただけはなく、彼の戦友を奮い立たせ、担架員らはすぐさまガーマンが曳航してきたボートに乗り組んで負傷者輸送の任務を再開したのである。ガーマン二等兵の偉大なる勇敢さと衛生隊最高の信条に基づく英雄的行いは、衛生隊の歴史に大いなる誇りをもって書き記される事だろう。
参考文献
[編集]- "ハロルド・ガーマン". Claim to Fame: Medal of Honor recipients. Find a Grave. 2008年2月8日閲覧。
- “Medal of Honor recipients - World War II (G–L)”. Medal of Honor citations. United States Army Center of Military History (June 8, 2009). 2008年2月8日閲覧。